名前
夕暮れに沈む街を、由はひとりで歩いていた。
通りの角で、見知った背中をみつけて、声をかける。
「さがのさん……!」
だが、聞こえなかったのか、嵯峨野は歩みを止めない。
由はさらに、声を大きくして呼び掛けた。
ついでに、手も振ってみる。
「さがのさん! さがのさんってば……!!」
「…………」
嵯峨野が立ち止って、こっちを振り返った。
心なしか、顔が不機嫌そうなのだが、由はそれに気付かない。
嬉しそうに笑って、小走りに近づく。
「よかった。聞こえてなかったのかと思った」
「………じゃ、ない」
「え?」
ぼそり、と嵯峨野が呟くのに、由は問い返す。
そこでようやく、由は嵯峨野の眉が寄っていることに気付いた。
「あれ? さがのさん、もしかして、お腹でも痛いの?」
「そうじゃない」
見当違いなことを、呑気そうな顔で問われて、嵯峨野はますます顔をしかめた。
「俺の名前は、嵯峨野じゃねえって、言っただろうが……」
「あ」
そうだった。
最初に、彼の名前が嵯峨野だと勘違いした時から、ずっとそう呼んでいたから、どうしてもそっちの名前で呼んでしまう。
彼の本当の名前は、ちゃんと知っているのだけど。
由は、改めて、口を開いた。
小さく、咳払いをしてから。
ちょっと照れたように、その名を紡ぐ。
「えっと……じゃあ、朱史、さん」
「…………」
「………朱史さん?」
「…………」
ちゃんと、彼自身の名前で呼んだのに、返事がない。
由は、じっと、嵯峨野の顔を見上げて、彼の言葉を待った。
「……やっぱ、いい」
「え……?」
ふいっと顔を反らして、嵯峨野は答えた。
怪訝な顔をして首をかしげる由を、嵯峨野はちらりと、見て。
「だから、名前呼ぶなって言ってんだよ。黙ってろ」
ぶっきらぼうに、そう付けたした。
「えー、なんで怒るの?」
わけがわからない。
名前を呼べ、と言ったのは嵯峨野なのに。
「……お前に名前を呼ばれると、なんか落ちつかねえ」
「そんなあ……」
由は、うつむいて、しょんぼりとした声を出した。
そして、顔をあげると、嵯峨野に尋ねた。
「だったら……なんて、呼んだらいいの?」
「……呼ばなくていいって、言ってんだろ」
「オレは、呼びたいよ!」
「あー……。なら、オイとか、ちょっと、とかなんかテキトーに声かければいいだろ」
面倒くさそうに言われて、由はムッとした。
「そんな、倦怠期の夫婦みたいなの、オレ、ヤだよ〜!」
「倦怠期……」
なんだその例えは、と言いたげな顔で嵯峨野が由を見た。
ここに黒狐がいれば、滔々と、昼ドラのストーリーを説明してくれたことだろう。
「さがの……で、いい」
渋々、といった感じで、嵯峨野は言った。
結局、現状維持、ということか。
嵯峨野は苦笑して、由の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
「わっ……ちょっと、やめてよ、さがのさん……!」
「……ったく、ホント、お前はしつこいヤツだな、容れ物」
「…………」
「どうした? 容れ物」
黙り込んだ由を、嵯峨野は不思議そうに見下ろしている。
由は、なんでもないよ、と言って、首を振った。
本当は。
(容れ物なんて、呼ばないでよ、って言おうと思ったけど……)
嵯峨野に、由、と名前を呼ばれるところを、想像してみて。
なんだか、嵯峨野の気持ちが、少しわかった気がした。
「……お前、顔、赤いぞ?」
「見ないでよ、さがのさん……!」
熱くなった顔を、隠すように、由は嵯峨野の胸に、顔を押し付けた。
変な奴だな、と上から、嵯峨野の声が降ってきた。
終。
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