鬼畜眼鏡SS(御堂×克哉)

やさしいひと

 朝、目覚めたら、ひどく身体がだるかった。
 熱っぽく、頭がぼんやりする。
 ああ、これは風邪を引いたな、と思った。
 体調管理もろくに出来ないなんて、と軽く凹みながら上半身を起こすと、それだけでふらついた。
 でも今日は、新製品の企画会議がある。
 その後は、得意先を回って……。
 MGNに異動してから、仕事量が格段に増えた。その分、充実した日々を送っている、と思っていたのだが、まだそのペースに慣れていないのかもしれない。そこに、季節の変わり目が重なって、風邪なんか引いてしまったのだろう。
 そんな自己分析をしてみたところで、体調はよくなりはしないが。
 それでも、少しだけじっとしていると、いくらかマシになってきたので、いつもより時間がかかったが着替えて、共有スペースである、リビングへ向かった。

「おはようございます」
「おはよう、克哉。……どうした?」
「え……」

 ソファに座ってコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた、同居人である男がこちらを向いて、顔を顰めた。
 克哉が何かを言う前に、ばさりと新聞をソファに置き、立ち上がる。
 そのまま傍に来て、大きな掌で、頬をくるむように包まれた。

「熱いな」
「あ、すみません……ちょっと、風邪っぽいみたいで」
「みたい、ではなく、風邪だな。今日は休め」
「でも、会議が……」
「君がひとり、いないくらいで会議が出来ないわけじゃない」
「それは……、そう、ですが………」

 当然といえば当然のことなのかもしれないが、はっきりと口に出されると、流石に落ち込む。
 自分が、会社にとって、代えのきかない、唯一無二の存在である、と思っているわけではないが……。
 うつむいた克哉を見て、何を思ったのか容易に想像がついたのだろう。
 男は溜め息をついて、克哉の頬にあてたままだった手をそっと動かして、顔を上向けさせた。

「そういう意味ではない。まだ企画段階の会議だ。君じゃなく、私がいなくたって、どうにかなる。そうじゃなく……。とにかく、今日は休め。命令だ」
「はい、わかりました。あの……、すみません」
「いちいち、謝るな」
「は、はい」

 また、すみません、と言いそうになったのを、慌ててひっこめる。
 このひとと、一緒に暮らすようになって、数ヶ月過ぎた。
 一見すると、怒っているようにも聞こえる口調にも、ずいぶん慣れた。
 本当は、怒っているのではない。
 ただ、思ったよりもずっと、不器用なだけなのだ。
 仕事に関して言えば、何でもてきぱきとこなし、誰よりも有能なひとなだけに、それは意外ですらあったが、プライベートではそうではなかったらしい。
 それが、一緒に毎日を過ごすようになった今では、克哉にもわかるようになってきた。
 優しさを、素直に見せることが、苦手なひとなんだと。
 はじまりが、はじまりなだけあって、共に過ごすようになった事を、信じられない、と思う時もあった。
 だけど、今はその不器用な優しさに触れるたびに、このひとを好きになって……、好きになってもらえて、よかった、と心から思っている。

「それでは、休ませてもらいます。御堂さんは、もう行ってください」
「わかった。だが、今日は一日、大人しく寝ているんだぞ。家の中のことをやったりするんじゃないぞ」
「はい……」

 しっかり念を押すと、唇に、触れるだけの軽いキスを残して、男は出て行った。
 しばらく、後姿を見守るように、そこにじっと立っていた克哉は、自分の部屋に戻ると、さっき着替えたばかりのパジャマに、また袖を通した。

(キスなんかして……。移っちゃうよ、風邪)

 そっと、唇に触れる。
 まだ、そこにぬくもりが、残っている気がして、熱っぽい身体が、ますます熱くなった。

(寝よう……)

 早く、よくならなければ。
 自分が気にしないようにと、あんな風に言ってくれたが、克哉がいない分のしわ寄せが、あのひとにもくるはずだ。
 まだまだ、役に立っている、とは思えない克哉だったが、それでも、こんな風に体調管理が出来てなくて、迷惑を掛けるような事は、もう、したくなかった。
 ベッドに横になって、目を閉じると、吸い込まれるように眠りへと落ちていった。


 気がつくと、少しだけ開けていたカーテンから、オレンジ色の光が長く差し込んでいる。
 ずいぶん長い間、眠っていたようだ。
 汗をかいたのか、パジャマが少し、湿っぽい。
 克哉は身体を起こして、パジャマの胸元を、少し摘まんだ。
 体調は、寝る前よりもだいぶ、回復したようで、頭はすっきりしていた。

「起きたのか?」
「御堂さん……!?帰って、きてたんですか?」

 驚いて振り向くと、出て行ったときと同じスーツ姿の、彼がいた。
 もう日暮れ時ではあるが、定時で仕事を上がる彼ではない。
 と言う事は、今日はわざわざ早めに仕事を切り上げて、帰ってきたと言う事だ。

「君がいないと、仕事にならないからな」
「あの、すみません……」

 さらりと言われて、ずっしりと落ち込む。
 今朝はああ言っていたが、やはり迷惑を掛けたのだろう。
 自分の本意ではなかったとはいえ、一日仕事を休んでしまったのは事実だ。
 思わずシーツの端を握り締めてしまった手を見詰めていると、頭上から、かすかに笑う声が響いた。

「思い切り、誤解しているようだな、君は」
「え……?」

 顔を上げると、目を細めて、こちらを見ている彼の視線とぶつかる。
 それが、あまりに優しい目だったので、思わずどきまぎしてしまう。

「……家にひとりでいる、君が気になって、仕事が手につかなかった。うなされているんじゃないか、そして私の名前を呼んでいるんじゃないか、と」
「そ、そんな……。オレ、そんなに子供じゃありませんよ」

 思いも寄らぬ事をいわれて、心臓が急に激しく動き出した。
 不意打ちも、いいところだ。

「そうなのか?君は私のことを、考えなかったのか」
「ずっと……、寝てましたから」
「そうか。どうやら、夢の中には現れなかったようだな」
「あなたが夢に出てきたら、そのまま寝てなんていられませんよ……」
「おや。それは、どういう意味だ、克哉?」 
「現実のあなただけで、オレには手一杯ってことです……っ」
「そうか。私は、現実でも、夢の中でも、君を独り占めしたい、ずっと」
「………っ!」

 体調を崩して寝ている人間に、そんなこと、言わないで欲しい。
 ……ようやく下がった熱が、また上がってしまうではないか。

「顔が赤い。まだ、熱があるのか?」
「誰のせいだと思ってるんですか……」

 克哉が睨むと、彼はふっと口元をわずかにほころばせた。
 そんな顔をするなんて、ズルイ。
 怒ればいいのか、喜べばいいのか、わからなくなって、克哉は目を伏せた。

「ずっと寝ていたのなら、腹が空いているんじゃないか。何か食べるものを持ってこよう」
「あの、それよりも……」
「何だ?」
「寝ている間に、汗かいたみたいで。着替えようと……」

 だから、しばらく出ていてくれませんか。
 そう、言おうと思ったのに。

「そうか。では、手伝おう」

 なんて言われて、克哉は大いに戸惑った。

「い、いえ……!そのくらい、ひとりで出来ますから!」
「遠慮するな。……いや、そうじゃないな。私がしたいんだ」
「で、でも……」
「克哉」
「は、はい」
「こういうときは、黙って甘えるものだ。そうだろう………」

 そうして、彼は――御堂は、克哉の耳元に唇を寄せた。

「………恋人なら」

 砂糖菓子のように、甘い声で、囁かれたものだから。

「………はい」

 克哉はただ、頷くことしか、出来なかった。


 そしてこの日、克哉は、恋人が意外に世話焼きであるらしい、ということを知ったのだった。


Fin.