鬼畜眼鏡SS(克哉×御堂)

「風邪、ですね」

　体温計を見た佐伯は、憎らしいほどきっぱりと告げた。
　朝起きて、人の顔を見るなり、具合が悪いでしょう、と問答無用で熱を計らせられたのだ。
　自分でもはっきりとは自覚していなかった程度の、体調不良だ。
　このくらい問題ない、と言ったのだが、奴は聞く耳持たない。
　驚くべき早業で再びパジャマに着替えさせられ、ベッドに押し戻される。
　
「引き始めが肝心なんですよ。今日は一日、大人しく寝ていてください」
「そうは言ってもだな……」

　佐伯が興した会社は、ようやく軌道に乗り始めたばかりだ。
　社員も少しずつ増え、はじめの頃のように、何もかもを自分たちでしなければならない、という事はない。
　だが、それでも担当者でなければわからない、というものも、当然ある。
　今日の遅れは微々たるものかもしれないが、確実に明日以降に響いてくる。
　今は、一日たりとも、休んでなどいられないはずだ。

「このくらい、何でもない。君に気にしてもらうほどではない」
「ったく、ホント、わかってないですね、アンタは………」

　佐伯は、額にかかった前髪をかきあげながら、溜め息をついた。
　……気に食わない、仕草だ。
　これでは、私がまるで、聞き分けのない子供のようではないか。

「俺が嫌なんですよ。御堂さん、アンタが、具合悪いって知ってて、仕事してるのを見るのが。アンタのためじゃない。俺の心の平穏のために、休んでください。それとも、俺の頼みは、聞けませんか？」
「そういうわけでは………、ない」

　回りくどい言い方だが、つまりは、私のことを心配している、という事なのだろう。
　素直じゃない奴だ。
　そのくらい、もっとストレートに言えばいい。
　……いや、あんまりストレートに言われても、その……、アレ、だが。

「……？どうしました、御堂さん」
「いや、何でもない。わかった。君がそこまで言うのなら、今日は休む」
「ええ、そうしてください。その代わり、明日からは今日の分も含めて、バリバリ働いてもらいますから」
「望むところだ」

　時計の針が、そろそろ始業時刻に近づいている。
　いくら、居住スペースと職場が同じビル内にあるとはいえ、そろそろ出ないとまずいだろう。
　大人しくベッドに横たわると、またそばに立っていた佐伯を見上げる。
　きっちりと寸分の隙もなくスーツを着こなした彼は、近頃は以前にはなかった風格も出てきて、どんな企業とも渡り合える、若き経営者だ。
　出逢った頃には想像さえつかなかったが、彼の元で―――いや、そばで働けることを、嬉しく思う。
　生まれたばかりの会社は、何もかもがこれからで、一時も目が離せない。
　そう、私たち二人の関係のように。
　だからこそ、ささいな体調不良で、会社を休む事は、惜しい。

(とんだワーカホリックだな、私は……)

　いや、それも正確ではないか。
　ホリックなのは、彼と共に働くことに対して、なのだろう。
　どちらにしても、あまり大差はないが。

「それでは、俺はもう行きますが、何かあったら遠慮なく呼んで下さい」
「ああ……、そうさせてもらう」

　こんな時くらい、と思い頷いてやったら、目を丸くされた。
　そんなに驚くようなことか？失礼な男だ。
　言うんじゃなかった……と、軽く後悔し掛けていたら、佐伯はふっと口元をほころばせた。

「ぜひ、そうしてください。……いって来ます」
「あ、ああ。……いって来い」

　佐伯を見送るのは、何だか妙な気分だ。
　一緒に出かけられないもどかしさと、見送ることへの照れくささが合わさった、奇妙な思いを感じながら、私はゆっくりと、目を閉じた。


「ただいま帰りました、御堂さん。具合はいかがですか」

　いつもよりずいぶん早く戻ってきた佐伯は、帰ってきたままの姿で、私の部屋のドアをノックと共に開けた。
　結局、というか当然、佐伯を呼び出すこともなく、日暮れ時が訪れた。
　日中、ずっと寝ていたせいか、今朝とは違い、体調もずいぶん回復した。
　これなら、明日は問題なく、出社出来るだろう。

「お帰り、佐伯。もう、だいぶいい。熱もほとんど下がった」
「ホントですか？それじゃ、確認させていただきますね」

　その必要はない、と言うよりも早く、近づいてきた佐伯は、私の前髪を左手でかきあげると、額をあわせた。

「そうですね、平熱に戻ったようです」

　思わず、目を閉じた。
　せっかく下がった熱が、合わさった額から上がっていく気がする……。

「わかったんなら……早く、どけろ」
「いいじゃないですか、このくらい」

　言い様、掠め取るように素早くキスを落とすと、佐伯はやっと、離れていった。

「移るぞ、風邪が」
「あなたの風邪なら、移っても構いませんよ」
「………馬鹿」

　馬鹿、と言われたのに、佐伯は何故かますます嬉しそうな顔で、笑った。
　本当に、こいつは……、どうしようもない奴だ。

「ところで、昼は何か食べましたか」
「あまり食欲がなかったからな……」
「そんな事だろうと思いました。おかゆなら、食べられますか」
「そのくらいなら、まあ……。って、君が作るのか？」
「もちろん。かゆぐらい、俺にだって出来ますよ。他に何か欲しいものはありますか？口当たりのよさそうなものをいくつか買ってきたんですよ。ヨーグルトとか、アイスとか、桃缶とか」
「桃缶……？」
「ええ、風邪といえば、桃缶でしょう。それとも、林檎がいいですか。すってあげますよ」
「ああ……いや、いい。それなら、ヨーグルトを」
「わかりました、おかゆとヨーグルトですね」

　ちょっと待っててください、と言って佐伯は部屋を出て行った。
　後姿を見送りながら、案外マメな奴だったんだな、とぼんやりと思った。
　職場も、居住も同じで、もうほとんど知らない事は無いと思っていたが、こういう時に、見えてくる一面、というものもあるらしい。

「あいつも、結構………」

　有り難い、とか申し訳ない、と言う思いも、もちろんあったが、それより先に浮かび上がった、感情に戸惑う。


　出逢った頃は気弱な男かと思っていた佐伯は、次第に強引で、傲慢な男に変わっていった。
　アンタを壊してやりたい、と言われたこともある。
　事実、私はあいつに壊されかけたのだろう。
　いや、一度壊されて、バラバラになって……、それでもその砕けた欠片は、忘れる事は出来なかった。
　佐伯克哉、という男のことを。
　そうして今は、かけがえのないビジネスパートナーとしてだけではなく、生活も共にするパートナーとして、そばに、いる。
　酔狂な事だ、と思う。
　以前の私には、考えられないことだっただろう。
　そう、まさか……、

「佐伯を、可愛いと思うなんて、な」

　まったくもって、どうかしているとしか言えない。
　それなのに、キッチンに立って、かゆを用意しているのであろう、佐伯克哉の様子を思い描くと、自然と微笑が浮かぶのを、止めることが出来ない。
　気分がよくなってくると同時に、急に、空腹を覚える。
　やっぱり、かゆとヨーグルトだけじゃ、たりないかもしれないな。
　どうせなら、林檎もすってもらおうか。
　あの器用な指が、林檎をすっている所を想像すると、それだけで何故かまた笑みがこぼれそうになる。
　思ったよりも、世話焼きでマメだったらしい、年下の―――恋人。


　たまには、そう、たまになら、こんな風に、風邪を引いてみるのも、悪くない。


Fin.