鬼畜眼鏡SS 片桐課長と愉快な仲間たち
温泉バレー
プロトファイバーの売り上げ目標を、無事達成してから数ヶ月。
新しいCMも好評で、相乗効果で売り上げはますます右肩上がりだ。
そろそろ新企画も立ち上がろうとしている折、また忙しくなる前に……、と遅ればせながら、プロトファイバー売り上げ増加・慰安旅行に、今回の功労者であるキクチ営業第8課と、MGN企画開発部が訪れたのは、山間の鄙びた温泉だった。
「課長、よくこんな場所をご存知でしたね〜」
肩までお湯に浸かり、ほんのり肌をピンクに染めながら言うのは、今年で入社3年目の佐伯克哉だ。
お荷物部署、とまで言われた営業8課を、今日の誰もが一目置く部署に変えた立役者でもある。
今回のプロジェクトが立ち上がる前は、どちらかといえば目立たない、地味な営業マンだった彼は、まるで生まれ変わったかのような働きを見せた。
その彼の目覚しい働きぶりに、同じ課の仲間も、引っ張られるように実力を発揮できた。
自分たちも、やれば出来るんだ、という自信が、自然と沸いて出てきたのだろう。
努力だけではどうにもならないことがあるのが現実ではあるが、モチベーションの差は、やはり結果に影響する、ということなのかもしれない。
以前と変わらない笑顔の克哉を見て、8課の課長である片桐稔は、しみじみとそんな事を思った。
「いえいえ。僕もたまたま、近所の方に教えていただいたんですよ。どうせなら、静かなところでゆっくり出来るといいかなと……。でも、よかったです。君のような若い方には、退屈なんじゃないかなって心配してたんですよ」
知る人ぞ知る、といった感じのその温泉は、しっとりとした白い濁り湯が特徴で、各部屋にある内湯、1階にある大浴場のほかに、風情に溢れた露天風呂もある。
今はその、露天風呂に皆で入りにきていた。
「そんな事ないですよ、課長……。オレ、こういう静かな雰囲気って、好きです」
「静かなのはいいんですけど。ホンット、周り、なーんもないんですね」
「おい、本多……っ!」
「はは、いいんですよ。そんな気を遣わなくても。うーん、少しふもとまで行かないと、店もないのが難点なんですよねえ」
「いや、それがこの温泉のいいところでしょう。日ごろ騒がしい街中にいるのだから、骨休めにこそ、こういう場所がふさわしい」
気難しそうなMGN企画部長の御堂は、この温泉が気に入ってくれたようだ。
この場所を決めた手前、片桐はほっとする。
もっとも、実際プロジェクトを共にしてみて、最初に感じた印象ほど、気難しいわけでも付き合いづらいわけでもないと言う事は、もうわかっている。
ただ、どんな事に対しても、効率的に合理的に進め様とする場合が多いので、時折そんな印象を感じる、というだけだ。
「今回の旅行は、何もかもそちらに任せてしまって……、申し訳ない」
「いえ、そんな!気にしないで下さい、御堂部長。むしろ好きなんですよ、僕、こういうの」
「あ、わかりますよ、課長!俺も好きなんですよね〜!旅行の計画立てたりするの!わくわくするって言うか」
「本多って、あれだろ。遠足前に興奮して眠れなくなるタイプだろ」
「な、なんだよ!悪いかよっ!?」
「ふふ……。本多君らしいですね」
温かいお湯は、気持ちもリラックスさせてくれる。
他愛無い会話も、その心地よさを妨げはせず、和やかにする。
プロジェクトが始まったばかりの頃は、こんな風に穏やかに温泉に浸れる日が来ようとは、思っても見なかった。
(何せ、課の存続もかかってましたからねぇ……)
売り上げが達成できなかったら、8課そのものが、なくなってしまっていたかもしれないのだ。
もしそうなっていたら、課長である自分は、まっさきにリストラされていたことだろう。
40も過ぎた片桐は、再就職も難しい。
独り身とは言え、文字通り、路頭に迷っていたかもしれない。
「佐伯君には、感謝してもしたりないですね」
「え?何ですか、片桐さん、いきなり」
「今回のプロトファイバーの件ですよ。もし、売り上げ達成できず、8課がなくなっていたら、僕はきっと今頃、路頭に迷ってたでしょうから」
「そんな……!そんな事、絶対、ないですよ。それに、今回の件では、課長にもずいぶん、助けていただきました。8課の皆にも。決して、オレだけの力じゃないです」
「そうですか?僕の微力が、役に立っていたのならいいんですが……」
「課長は、謙虚すぎますよ」
「たしかに、謙虚さは日本人の美徳かもしれませんが、過ぎると却って逆効果ですね、片桐さん。あなたはもっと……、そうだな、そこの本多君くらいの図々しさを見習って、ちょうどいいかもしれませんね」
「ちょ、ちょっと、御堂さん!?何でそこで、俺を引き合いに出すんスか!?」
「ははっ。お前が図々しいのは、その通りだから、いいじゃないか」
「克哉〜〜っ!!」
怒った本多が、克哉にお湯をかけると、克哉もお湯をかけかえす。
そんな二人の様子を、片桐は微笑ましく、御堂は呆れたように見ている。
「やれやれ……。二人とも、図体の大きな子供だな、まったく。私はそろそろ失礼する。茹りそうなのでね」
「そうですか。僕は、もう少し浸かってますね」
「ああ、ごゆっくり」
御堂は湯から立ち上がると、さっさと脱衣所のほうに向かっていった。
(どこにいても、御堂部長は、堂々としていますねえ……)
後姿を感心したように見送る片桐の隣では、大きな子供が二人、まだお湯をかけあっていた。
山間の旅館なので、料理は山菜がメインと、若者にはボリュームが足りないものだったかもしれないが、片桐たち世代には、ちょうどよいものだった。
明らかに食べたりなさそうな顔をしている、本多や他の若い者たちのために、料理の追加を頼みながら、手酌で酒を飲んでいると、お銚子を持った克哉が近寄ってきた。
「片桐さん、どうぞ」
「ああ、佐伯君。わざわざ、すみません」
「いいえ。これも部下の務めですから」
わざと、畏まって言う佐伯と、目が合った瞬間、お互い噴出す。
克哉にも返杯をして、普段飲んでいるものよりも上等な酒を、ゆっくりと味わう。
「どうですか、佐伯君。楽しんでますか?」
「ええ、お蔭様で。温泉で、日ごろの疲れも吹き飛びました」
「それは、よかったです」
「課長も、温泉効果で若返って見えますよ」
「ハハ。本当ですか?」
「はい。十歳は若く見えます」
「それじゃあ、御堂部長と変わらない年齢になりますね」
「あっ、ホントですね」
そこでまた、二人はひとしきり笑い合った。
片桐の笑いが、ようやく収まった頃、克哉はふっと悪戯っぽい表情を見せた。
「それにしても、課長が思ったよりお若いんだなあってのは、オレ、思いましたよ」
「そうでしょうか……?」
首を傾げる片桐に、克哉は大きく頷く。
「そうですよ!だって、ほら……!」
言うなり、克哉はいきなり、片桐の浴衣の胸元を開いた。
「ほら、肌とかスベスベじゃないですか。キレイですよね〜」
「さささ、佐伯くん!?いきなり、何を……」
「スベスベなだけじゃなくて、しっとりもしてます。あの温泉、美肌効果もあるんですね〜」
さわさわさわ、と大きな掌で、素肌をまさぐられて、片桐は驚いて後ずさろうとするのだが、いつのまにかもう片方の腕で、腰に手を回されて、固定されていた。
片腕なのに、思った以上に、力が強く、動けない。
「佐伯君、酔ってるんですか……?」
「えー。オレ、酔ってなんかいませんよー」
明らかに、克哉は酔っていた。
顔に全然出ていないので、気付かなかったが、素でこんな事をするような人間ではない。
「よっ、かーつやっ!お前、何やってんだよー!」
こちらは、誰が見てもいい感じに酔っていることがわかる、本多がやってくる。
「あ、本多ぁ。あのな、課長って、肌がキレイなんだよー。も、すべすべしっとり」
「なんだなんだ、エロいなー、克哉は」
「ふーんだ、どうせオレはエロいよーだ。いいよ、じゃー、片桐さんの美肌は、オレが独り占めするからっ!」
言いながら、克哉は片桐に擦り寄って、肌を嘗め回すように触ってくる。
「ちょ、佐伯君……!?」
酔っ払いにいいように扱われている片桐は、たじたじだ。
周囲も、酒の上の出来事だからか、笑って見ているか、自分たちの歓談に忙しい。
どうやら、片桐を助けてくれる人はいないようだ。
「うん……。たまには、日本酒もいけるな」
そんな騒動など我関せずなMGN企画部部長は、次第に無礼講になりつつある場所でも、一人、静謐なオーラを漂わせながら、満足そうに、酒を嗜んでいた。
そして、就寝間近。
もう一度、今度は大浴場に入ってきた後、部屋に戻ってくると、そこにはすでに綺麗に布団が敷かれていた。
四人部屋で、御堂、片桐、本多、克哉が同室だ。
MGNの御堂は、本来なら、MGNの社員らと同じ部屋になるはずだったのだが、人数の都合上、こういう部屋割りになった。
その御堂は、まだ温泉に行ったまま、戻ってきていない。
「四人部屋って言っても、結構広々してますよね」
「布団の隙間結構空いてるよなー。もうちょっとくっつけねぇ?」
「やだよ。お前、寝相悪そうだもん」
「んなことねぇって!」
ここでもやっぱり、わいわい騒いでいる克哉と本多を尻目に、急須と湯のみを見つけた片桐は、早速お茶を淹れる。
「お茶、淹れましたよ。飲みませんか?」
「はい、ありがとうございます」
「ありがとうございます、課長!」
ずずっと茶を飲んで、ほっと一息ついて、布団を見ると、いつのまにか隙間なくぴったりくっついていた。
「結局、くっつけたんですねぇ」
「はい!だって、せっかく皆で泊まってるのに、離れてるのって、寂しいじゃないですか!」
「別にどうでもいいだろ〜。御堂さんもいるんだよ?」
「いいじゃねぇか。だからこそ!だよ」
「わけわかんないって」
「それよりもさ、克哉」
茶を飲み終わった本多は、立ち上がって、布団に向かうと、枕を持ち上げた。
「枕投げ、しようぜ!」
「はあ?何言ってんの、お前。中学生じゃないんだからさ……」
流石に、呆れたように言う克哉に、本多は激しく主張する。
「だってさ!ここ卓球ないんだぜ!卓球!温泉といえば卓球なのによ!?」
「だからって、枕投げはないだろ……」
「いいんだよッ!最近、身体動かす機会なくって、なまってるんだよ。付き合えよ」
「もー。しょうがないなあ……。すみません、課長。ちょっとうるさくしますけど、付き合わないとアイツうるさいんで。出来るだけ静にやりますから」
「ええ、僕は構いませんよ」
「じゃあ、ちょっとだけ。おい、本多!御堂さんが戻ってくるまでだからな」
「わかってるよ!」
言うなり、枕を投げつける。
「うわっ!お前、それ、フライング!」
「問答無用だ!」
「もー、怒った!手加減してやらないからなっ!」
「望むところだ!」
そんな感じで、もう立派に成人している(はず)のサラリーマン二人による、ガチンコ枕投げが始まったのだった……。
「君達、何をやっているんだ!?」
そしてそれは当然、御堂が戻ってくるまでには、終わらなかった。
夕食の席ではまだスーツだった御堂も、もう寝るばかりの今は、浴衣姿になっている。
元が良いと、何を着ても似合いますねぇ、と片桐がのんびり思っていると、御堂の視線がこちらを向いた。
「あなたがついていながら、何ですか、この事態は!中学生じゃないんだから!他の宿泊客にも迷惑になるでしょう」
「でも、ここは離れですし……。それに、すごいんですよ。さっきから、一回も枕が落ちていないんです」
「まったく、本当に、あなたはのんきですね。いくら離れで他の客に影響が少ないからって、いい大人がすることでじゃない。おい、君達、いい加減に……」
やめたまえ、と続けようとしたのだろう。
だが、その言葉よりも早く、枕が降ってきた。
「あ、危ないですよ、御堂部長……」
おっとりとした、片桐の注意が、枕よりも速く届くはずもない。
ぼす、っと音がして、枕は、御堂の顔面に直撃した。
「あっ、御堂部長……!」
ようやく御堂の存在に気付いた克哉が、青くなったが、本多は平気そのもの、というよりも怖いもの知らずに続ける。
「御堂部長も参加されますか?」
「何を馬鹿な事を……っ!」
と、言いながらも、御堂は鋭く、枕を本多に投げ返す。
「おっ、御堂部長、いいコントロールですね!」
「馬鹿、本多……っ!」
慌てて止めようとする克哉の制止など、聞く耳持たない。
「どうせなら、片桐課長も、どうですか?そうですね、俺と部長、克哉と課長で組んで。先に3回落とした方が負けってことで」
「おい、本多君!君は何を勝手な事を……!」
「はは、いいじゃないですか。付き合ってくださいよ」
「僕も参加するんですか?大丈夫かなあ……」
「はあ、しょうがないなあ……」
片桐が克哉の傍に来ると、克哉は溜め息をつきながら、浴衣の併せに手を忍ばせた。
そこには、最近はもうすっかりおなじみになった、眼鏡があった。
すちゃっと眼鏡をかけながら、克哉は先ほどとは打って変わった鋭い声を出す。
「片桐さん。やるからには、勝ちに行きますよ」
「え、あの……、は、はい」
「フッ……。心配しないで下さい。あなたは、取れそうなものだけ、取ってくれればいいんです。あの本多の馬鹿力で投げられた枕は、全部俺がブロックしますから。御堂部長のへろへろ枕だけ、受け止めてもらえればいいんですよ」
「はあ……」
「おい、君!聞こえてるぞ!私はへろへろの枕など投げないぞ!」
「おお!やる気ですね、御堂部長!じゃー、さっそく始めるぞー!」
本多の開始の号令と共に、いい年したサラリーマンによる枕投げ大会の火蓋が、切って落とされたのだった。
そして、翌朝。
日ごろの運動不足がたたって、温泉効果も追いつかない筋肉痛に見舞われた3人の屍が、布団の上に累々と横たわっていた。
「年を取ると、筋肉痛って、時間差で来るんですよねぇ……。僕の筋肉痛は、明日来るんでしょうか」
眼鏡克哉の華麗なブロックにより、あまり動き回らずに済んだ課長の呟きに答える余力のある者は、その場にはいなかった。
Fin.