鬼畜眼鏡で20題(克哉×御堂)

「何をそんなに怯えているんですか？……さん」


　眼鏡のブリッジを片手でゆっくりと押し上げ、うっすらと微笑う。
　ほの暗い部屋の中は、克哉と彼の二人きりだ。
　見下ろした先には、普段のプライドの高さを忘れそうなくらい、縮こまって後ずさる、哀れな小動物が居る。
　それ以上下がりたくとも、無慈悲な壁がそれを阻む。
　街の喧騒は遠く、静寂が耳に痛いほど突き刺さる。
　跪いて、彼のネクタイに指をかけると、びくりと身体を小さく震わせた。
　スーツのこすれる、そんなわずかな音さえ、いやに大きく反響した。

「怖いですか？この、俺が……」

　こみ上げてくる嗤いを、克哉は喉元でかろうじて、押さえ込んだ。
　可笑しくて、たまらない。
　一体誰が、今の、この事態を、予想しえただろうか。
　もし、一週間前の俺に会って、この瞬間起こっている事を告げたところで、きっと信じはすまい。
　馬鹿な事言うなよ、と呆れるに違いない。
　笑えない冗談だな、と。
　自分でもどうしようもないくらい、冴えない、ぱっとしないサラリーマンだった、この、俺が。
　親会社の、いけすかない、エリート上司を、踏みつけ、睥睨しているだなんて。
　これほど、最高に、笑えない冗談はない。

「何もしませんよ、御堂さん。貴方の嫌がることは、何も」

　最も、彼が何を嫌がるのかなど、克哉の慮る範疇にはないが。

「楽しませてあげますよ。だって、これは、接待なんですから」

　そう。
　これは、最高の接待。
　彼にだけに与える、俺からの、最高、最良の接待。
　彼だけじゃなく、自分も一緒に、二人で楽しめる………接待。
　ネクタイにかけた指を、軽く動かしただけで、しゅるりと音を立てて、それは解けた。
　白い、白いシャツのボタンを上から、ひとつ、ふたつ、と外していく。

「よせっ！止めろ……！！」

　恐怖に見開かれた目が、それでも克哉をきつく、睨む。
　ゾクゾク、した。
　この誇り高い人を、今から、完膚なきまでに、組み敷き、踏みしだくのだと、思うと。

「嫌だッ……！！」

　力任せに振り回された彼の腕が、克哉の顔に当たった。
　直前で避けたので、顔面直撃は免れたが眼鏡のフレームに当たって、眼鏡がはじけ飛んだ。
　
「くっ……」

　顔を押さえ、床に落ちた眼鏡に視線を向けた。

「あ……」

　すっと、高揚した気分が、醒めた。
　
(オレ……何、やってるんだ………)

　目の前には、小さくなって震える、現在取り掛かっているプロジェクトのリーダーである、上司がいる。
　手の中には、滑らかで肌触りのいい、今解いたばかりの、彼のネクタイ。

「み……ど、う……さん……」
「佐伯……？」

　急に途方に暮れて、動きを止めた克哉を、御堂は不思議そうに見ている。
　こちらも、戸惑うように、瞳が揺れている。
　
「あ、あのっ！お、俺……、スミマセン！オレ、帰ります………っ！」
「佐伯………！？」


　それ以上、見詰められるのも、何か言われるのも耐えられなくて、克哉は逃げるように、その場を去った。
　どこをどう走ったのかわからなかったが、気が付いたら、駅へと続く道を歩いていた。
　激しくなるクラクションの音で、我に返って立ち止まったら、信号が赤だった。

「電車……もう、終電、行っちゃってるな……」

　ぼんやりと、呟く。
　タクシーを、拾わなければならない。
　
(オレ、一体、どうしちゃったんだろう………)

　それとも、先ほどの事は、夢だったのだろうか。
　やけにリアルで、歪んだ夢。
　あれはお前の願望なんだよ、と言われたら、それは違う、と大声で否定したい。
　他人が怯える様を見て、どうしようもない愉悦を感じるなんて……。

「あ………」

　思わず、ぎゅっと手を握り締めてから、ようやく気が付いた。


　その掌の中に、自分のものではない、上質のネクタイと―――街燈の光を反射して冷たく輝く、眼鏡がある事に。


Fin.