鬼畜眼鏡で20題(御堂×克哉)

03 BETTER HALF

 すっかり掌の熱で温まった、薄い金属製のカードをじっと見詰めて、克哉は一つ、大きなため息をついた。
 鈍く銀色に輝くそれは、別に変わったところのないものなのに、克哉の住む安っぽいアパートのものとは、まるで違うもののように感じられた。
 それも、そうだろう。
 だって、このカードは……、特別だ。
 特別な場所の、扉を開く事が出来る、鍵。
 本来は、本人以外には開ける事が出来ない場所の、扉。
 それを、克哉は、いつでも、開ける事が出来る。
 ただ、鍵穴に差し込めばいい。
 そして、開くだけ。
 使い方が変わっているわけでもない。
 生態認証しなきゃ開かないとか―――そんなシステムが使われていても、おかしくないような高級マンションではあったけど―――そんな事は、ない。
 それなのに、克哉は、馬鹿みたいに、さっきから突っ立っている。
 入ることが出来るはずの、部屋の前で。
 

「克哉?何をしているんだ、君は」
「御堂さん………」

 すっかり聴きなれた足音が、背中からして、振り返るとそこには御堂が立っていた。
 何も、おかしなことではない。
 そこは、御堂のマンションの部屋の前なのだから。

「先に帰って、部屋で待っていろと言っただろう。鍵は?」
「持ってます」
「じゃあ、何故使わない。……まあ、いい。とにかく、入るぞ。いつまでもここに立っていても、仕方がない」
「はい……」

 別に怒られたわけでもないのに、うなだれて返事をした。
 怒ってはいないが、呆れてはいるだろう。
 本人から手渡され、使っていいと言われた鍵を持っていながら、主人の帰りを待つ犬のように、ドアの前でただ立ちすくんでいた、克哉を。
 克哉が開ける事が出来なかった扉は、御堂の手によってあっけなく、開かれた。
 先に入った御堂の後に、重い足を引きずりながら、続く。
 部屋の中は、しばらく誰もいなかった事を証明するかのように、冷えて、静まり返っていた。
 照明が、ぱっと辺りを照らし、エアコンの微かな音が響く。

「何か食べて来たのか?」
「いえ……」
「そうか。どうする?軽く、何か作ってもいいが」
「い、いえ、そんな!いいです、あの、オレ、あんまり腹減って、ないですから……」

 御堂に何か作らせるなんて、とんでもない。
 いや、むしろ自分が何か用意しておくべきだったのかもしれない。
 早く帰って来られたのは、克哉の方なのだから。
 部屋の中のものは、ある程度は好きに使っていい、と言われていた。
 キッチンを使っても、御堂は文句を言ったりはしなかっただろう。

「すみません、オレ……気がきかなくて。俺が何か作っておけばよかったですよね。あの、その、作りましょうか?」
「いや、いい。そんなつもりで言ったわけでも、帰らせたわけでもない。気にしたのなら悪かったな。それじゃ、何かつまめるものを用意しよう。酒になら、付き合えるだろう?」
「は、はい!オレ、手伝います……!」
「いいから。君はそこに座って待っていたまえ」
「すみません……」

 自分の、あまりの使えなさに、ずぶずぶ沈みこんで、際限なく落ち込む。
 だが、座り心地のいい柔らかいソファは、克哉を気持ちよく包み込んではくれるが、体重分以上に沈み込んだりはしなかった。
 しばらくすると、片手にワインボトル、もう片手に二人分のグラスとつまみのチーズとクラッカーが並んだ皿が載ったプレートを持った御堂が現れる。
 手早く、ソファの前のテーブルに、ワインとグラス、つまみを並べる。

「ワインでいいな。それとも、ウイスキーの方がいいか?」
「いえ、ワインで……」

 辛うじて、それだけは答える。
 せめてワインを注ごうかと思ったら、一足早く、御堂がボトルを手にした。

「今夜は、まだ私も飲んだことのないワインを選んでみた。銘柄は……何だったかな」

 ボトルのラベルを見ながら御堂が説明しているのを、ちゃんと聞かなきゃ、と思いながら、ぼんやりと耳にする。
 ワインは嫌いではないけど、御堂のように詳しくも無ければ、こだわりもない。
 美味しく飲めて、程よく酔えれば、それだけでいい。

(何もかも、わからなくなるくらい、酔ってしまいたい……)

 だが今は、泥酔したい気分だった。
 そうしたら、いつまでも鍵を握り締めて、部屋の前で立ち尽くすような、そんな所在無い気持ちはどこか遠くに行ってしまうだろうから。
 とぷとぷと、音を立てて注がれる赤い液体を見ながら、克哉はそう、思った……。

「……で、どうして………だ?克哉」
「え……?」

 問いかけられた言葉が、よく聞こえなくて、克哉は聞き返した。

「何だ。もう酔ったのか?」
「すみません……今夜は、何だか酔いが回るのが、早いみたいで」
「疲れてるのかもしれないな」
「いえ、そんなことは……」

 酔いたい、と思っているのが、効いたのだろうか。
 だとしたら、自分の身体ながら、暗示にかかりやすい。
 どうせなら、もっと違う、暗示をかけたいものだけど。

「何故、部屋の鍵を使わなかったのか、と聞いたんだ」
「あ……」

 問いを繰り返されて、克哉は言葉に詰まった。
 さっきは聞こえなかったのではなく、無意識に、聞く事を拒否してしまったのかもしれない。
 だって、それは自分でも、よくわからない、問いだったから。

「それは……」

 だが、御堂は、静かに飲みながら、克哉の答えを待っている。
 それを、無かった事にはできなかった。

「本当に、部屋で、待っていていいんだろうか、と思って……」
「おかしな事を言うな。私がそうしろと言ったんだ。いけない事はないだろう。それとも何か?部屋に入ったら、誰か他に……私以外の、人間がいるとでも、思ったのか?」
「それは……」

 御堂の部屋に、御堂がいない時に訪れて、違う人間を目にする。
 きっとその『誰か』は、克哉を胡乱な眼差しで見るのだろう。
 この部屋に、ふさわしくない闖入者として。

「冗談だ。……だからそんな、泣きそうな顔を、するな」
「な、泣いてなんか……」

 否定しながら、本当に、目のふちに涙が浮かびそうになって、驚いた。
 この部屋に違う誰かが居ると思っていたわけではないのに、それが本当だったら、と思うと、想像するだけで、泣きたくなってきた。

「君は……、馬鹿だな」

 馬鹿だ、と言われているのに、それはまるで、愛してる、と言われているように甘い囁きだった。
 まぶたをすっと、長い指でなぞられる。
 それに勇気付けられるようにして、克哉は部屋の前に佇んでいた、自分の心の奥を探って、言葉に変えた。

「自信が……、ないんだと、思います。向こう側から、開けられてもいないのに、その……、自分から入って、待ってる、なんて。ひどく場違いな気がして。そんな事、俺がしても、いいんだろうかって、思って……」

 入っていいと。
 そこで、待っていろと。
 そう言われていたのにも、関わらず、躊躇った。
 本当に自分は、そんな大それた事をしていいのだろうか?
 その資格が、本当に、自分にはあるのか?
 どうしても、そんな風に思えてしまって、鍵を回すことが出来なかった。

「心外だ。この部屋が、君にとってはふさわしくない場所だとでも?」
「違います!そういう意味では……!」

 御堂は、軽く眉を顰めて、克哉の肩を抱き寄せた。

「君は時々、どうしようもない馬鹿になるな。私がそうしろ、と言った事は、命令じゃない。そうして欲しいからだ。それとも何か。君に懇願すればいいのか?」
「そ、そんな……!」

 至近距離で目を見詰められて、克哉はぶんぶんと首を振る。
 何だか、とんでもない事を言われている気がする。

「自信なんて、そんなものはいらない。ただ、ここに、居ればいい。いや、居て欲しい。克哉。君は、私のパートナーなのだから。唯一、無二の。………違うか?」
「違いません」

 問いかける語尾が、少しだけ揺れていた事に、気付かない振りをして、克哉は力強く答えた。
 そうだ、何を迷っていたのだろう。

(このひとと一緒に居ると、オレは決めたのに……)

「そうか、なら、いい……」

 満足そうに呟くと、御堂は克哉の肩に回していた腕をそのまま自分の方に引き寄せた。
 近づいてくる顔に、そっと目を閉じる。
 キスは、甘くて、芳醇な、ワインの香りがした。


Fin.