鬼畜眼鏡で20題(克哉×片桐)

07 インソムニア

 隣で眠っているはずのひとの姿が見えない。
 触れてみると、シーツはひんやりとしていた。
 枕元に置いていた眼鏡を手に取ると、克哉は起き上がった。
 ふすまの向こうから、明かりが漏れている。


 インソムニア―――眠れない夜に―――
 
 
「片桐さん、どうしたんですか」
「ああ……佐伯君。君も、目が覚めたのかい?」

 短い廊下を渡り、明かりが見えていた場所、台所へ入ると、片桐がテーブルに片肘を付いてぼんやりと佇んでいた。
 かすかに湯気の立つ湯飲みを、両手で包むようにもつ姿は、彼自身の家に居るはずなのに、どこか所在無く、頼りなく見えた。

「ええ、そうですよ。目が覚めたら、あなたの姿が見えないので、探しに来ました」

 しっかりと、捉まえておかないと、消えてしまうのではないか。
 何故か、そんな風に思えて、克哉は片桐を、背中から抱きしめた。

「さ、佐伯君……?」

 驚いて、片桐が振り返るのも構わずに、ぎゅっと、強く抱きしめる。
 彼の存在を、確認するかのように。

「勝手に……居なく、ならないでください」

 そう告げた言葉が、自分でも驚くくらい、弱々しく響いて、克哉は内心舌打ちする。
 らしくない。
 そう感じたのは、克哉だけではなかったらしく、片桐が慌てたように答えた。

「すみません。そんな……、つもりでは、なかったのですが。眠れ、なくて……」

 語尾が、頼りなく、かすれる。
 沈黙が降りると、夜半から降り出した雨の音が、部屋の中に大きく響いた。
 片桐は湯飲みの中に、何かが映っているかのように、じっと覗き込んでいる。
 いや、本当に、何か映っているのかもしれない。
 克哉には見えない、何かが……。

「こんな雨の日には、中々、寝付けなくて………。雨には、いい想い出が、ないからかもしれませんね」
「…………」

 ますます、雨音がひどくなる。
 窓ガラスを叩く雨は、部屋の中にまでは入ってこない。
 だが、片桐の内側には、どうしようもなく染みこんでくるのだろう。
 冷たい、雨が。

「雨を……止ませることは、出来ませんが」

 いつも、そうだったのだろうか。
 こんな雨の降る夜は、いつも。

「傘を、差し掛けるくらいの事は、俺にも、出来ます」

 なすすべもなく、濡れていくばかりで。

「だから………」

 ただ、雨が止むのを、ひとり、待っていたのだろうか。
 
「佐伯、君……?」

 抱きしめていた腕を伸ばして、片桐の両手を包み込んだ。
 湯飲みの中の茶は、もう冷めてしまったらしく、片桐の手は、冷たかった。

「ひとりで、いないでください。眠れないのなら、俺を起こせばいい」
「でも……。君に悪いし。ぐっすり、寝ていたようだから」

 あくまで控えめなその態度に、克哉はイラっとくる。
 それが、克哉を想っての事だと、知っていても。

「そんな事、気にしないでください。……それとも、俺は頼りないですか?」
「そんわけ、ないよ!そんなはず………」
「だったら……」
「でも、その、ホントに……いいの、かい………?」
「ええ、構いませんよ」

 笑って頷くと、目が合って、片桐も照れたように、微笑み返した。
 もうその顔が、寂しそうでも、消えそうに儚げでもなくなって、克哉はホッとする。
 たぶんきっと、雨が降るたびに、このひとはこんな風に、眠れなくなるのだろうけど。
 これからは、ひとりきりじゃない。
 眠れない夜を、分かち合う者が、克哉がいるんだと。
 それを、覚えていて欲しい。
 忘れないで、欲しい―――。


「それでは……、そうですね。どうせ眠れないのなら、ますます眠れなくなるような事をしましょうか、二人で」
「え、ええっ……!」
「あなたが、疲れてもう眠りたい、と言いだすまで、たっぷりと、ね」
「さ、佐伯君っ……!?」

 一瞬で首まで赤くなった顔を見詰めて、にやりと笑うと、克哉は片桐を立たせて、台所を後にする。
 パチン、と音を立てて明かりが消えると、辺りは暗闇に沈む。
 だけど暗くても、布団までの道のりは、ほんの僅かだ。
 
 
 雨音が、また、強くなった。
 やがて、雨以外の音も、甘く、かすれて、夜の闇に響いてきた。
 眠れない、夜の代わりに。


Fin.