オメルタ(橘×JJ&藤堂)

エピローグ・レイン

 雨が降っているせいか、エピローグ・バーの店内は閑散としていた。
 ゆったりとしたジャズが低く流れ、心地よいそこは、今夜は彼らふたりの――JJと、橘の貸し切り状態だった。
 何をそんなに話す事があるのか、ひっきりなしに賑やかに喋り続ける橘の声をBGMのように適当に聞き流しながら、JJはグラスを静かに傾けている。
 マスターである藤堂の作る酒は、どんな日でも変わらずに美味く、気をつけていないとついピッチが上がりそうになる。
 酔いすぎて味がわからなくなるのも惜しいので、JJはことさらゆっくりと飲んでいたが、もうかなりの杯を重ねていた。
 あまり酔いが顔に出る方ではないので、傍目からは、それとは知れなかったが。
 

「……マスター」
「はい、なんですか? JJ」

 まだ底の方に琥珀色の液体が残るグラスをゆっくりと振りながら、JJは藤堂を見上げて、尋ねた。

「マスターは、以前……、橘と、付き合ってたんだよな?」
「ええ。そんなこともありましたね」

 脈絡もなくぶしつけな問いだったが、藤堂は平然と答えた。
 だが、隣では、ブッ! と派手に酒を拭きだす音が聞こえた。

「なっ……!? い、いきなり、何言い出すんや、JJ!!」

 黙って酒を飲んでいたと思ったら、いきなりそんな過去の事を持ち出されて、慌てるな、と言うのは酷だろう。
 それにしたって、慌て過ぎだろ、とJJは思ったが。

「別に。ただ、ちょっと聞いてみたくなっただけだ」

 いつも穏やかで、大人な、このエピローグ・バーのマスターは、JJにとってもなじみ深い人物だ。
 常日頃から、何くれとなく気を遣ってくれるのもありがたいし、最近では仕事も回してくれる。
 とても、世話になっている。
 感謝している、といってもいい人だ。
 そんな藤堂が、このうるさくて自己主張の激しい浪花の男と付き合って……、恋人同士だった、というのは、JJにはどうしても、不思議に思えてならないのだ。

「マスターなら、同じ男でも、もっといい相手がいくらでも見つかりそうだが。……趣味が悪いのか?」

 なので、思った事を直接ぶつけてみると、藤堂が答える前に、隣から盛大な抗議の声があがった。

「ちょ! まちぃや、JJ! それ、どない意味や!?」
「どうって……。そのままの意味だが」

 JJが真顔で答えると、橘は、がっくりと肩を落とした。

「ヒドイわ……。おま、JJ、そないなこと、仮にも恋人の目の前で言うやなんて、どないな神経しとんねんっ!?」

 肩と共にカウンターに落ちていた顔を、くわっとあげると、橘はさらに食ってかかる。
 が、残念ながら、JJには露ほどもその気持ちは届いていないようで、小さく首を傾げられる。

「何をそんなに怒ってるんだ、橘?」
「何って……」

 そんなふたりのやり取りを、フロスでグラスを磨きながらずっと見ていた藤堂は、堪え切れないように声を漏らした。

「ふふっ……。本当に、君たちは仲がいいですねえ」
「笑いごとやないで、マスター!!」
「何か可笑しかったか? マスター」

 テンション高く声をあげている橘に対して、JJは全くいつもと変わらない。
 それがまた余計に可笑しいのだが、藤堂はそこは客商売らしく、何も言わないでおいた。

「いえ、お似合いだなあ、と思ったんですよ」

 代わりに、そう言って微笑む。
 一見、全く似たところのないふたりだが、付き合っている、と聞いても違和感を覚えなかったのは、むしろ似たところが少ないからなのかもしれない。
 似た者同士が上手くいくことも多いのだろうが、このふたりの場合は、プラスとマイナスのように、違うからこそ、上手く言っているのだろう。
 たまに会話が、自然に漫才のボケとツッコミのようになっているのも、ご愛敬だ。

「マスターが、橘と付き合っていた時は……」

 どうやら、先程の問いは、終わってはいなかったらしい。
 なめるようにグラスに残った酒を飲みほしてから、JJは藤堂に質問を続けた。

「ちょっ、だから、何言いだすんや、JJっ!?」
「うるさい……。俺は、マスターに聞いてるんだ。マスターは橘と付き合っていた時は、その……」
「はい、なんでしょう?」

 拭き終わったグラスを、コトリとカウンターの奥に戻してから、藤堂は先を促した。
 橘は面白いくらいに慌てふためいているが、もう終わった事だ。
 答えられる事なら、答えても構わない。
 そう、藤堂は思っていた。
 だが、JJの問いは、藤堂の予想をはるかナナメに越えたものだった。

「どっちだったんだ……?」
「はい?」

 藤堂に尋ねるJJの顔は、いつもと変わらぬ、無表情に近い真顔だ。
 真意をつかみ損ねて、藤堂が問い返すと、JJはさらに淡々と続けた。

「どっちが……、女役だったんだ?」

 JJが質問するのを止められず、諦めて酒を飲んでいた橘が、その言葉に思いっきり噎せて、息も絶え絶えにゲホゲホと咳き込んだ。

「大丈夫ですか、陽司!?」

 藤堂は急いで、グラスに水を入れて橘に渡した。
 受け取って、ごくごくと水を一気飲みした橘は、タンッ、と音を立ててグラスを置くと、JJに向かってキッと目を向けた。

「JJ!! お前、何、涼しい顔してとんでもない事言いだすんや!?」

 俺を殺す気かー!?
 と、わめく橘を、JJはちょっと眉をしかめて見ている。

「そんな、叫び出すような大したことじゃないだろ。相変わらず、大げさなヤツだな」
「イヤイヤイヤイヤ。大したことあるから。爆弾発言やったからな? 今の」
「で、どうなんだ、マスター?」
「そうですねえ……」
「無視すんなや!!」

 よく見ると黒目がちな、JJの目に見つめられながら、藤堂は内心、苦笑していた。
 その質問に答えることは、藤堂にとっては別に何でもないことだ。
 JJが知りたいのだったら、教えても構わない。
 だが……。

「マスター〜〜〜っ!?」

 JJの隣で、橘が、言わへんよな! 絶対、言わへんよな!? と目で訴えかけている。
 それを無下にするのも出来なかった。
 橘とはすでに別れたとはいえ、以前は確かに付き合っていた仲だし、今では大事なお得意様でもある。

(困りましたね……)

 普段はそんな下世話な事を聞くようなJJではない。
 だが、橘と付き合うようになって、色々と、思うことがあるのかもしれない。
 それでJJの気が済むのなら、答えてやりたいのは山々だったが……

「それは、秘密、ということで……」

 ここで本当の事を答えたら、橘に一生恨まれそうだったので、藤堂はそう口にするにとどめておいた。

「そうか」 

 それ以上追及することなく、JJはあっさりと引き下がった。
 藤堂は、ほっとして、にっこり笑うと、こう付けくわえた。

「ですが……、秘密を知りたくなったら、いつでも僕の所に来てください。実地で、教えてさしあげますよ?」

 声をひそめて、こっそりとJJに耳打ちする。
 むろん、隣にいる橘には筒抜けだ。

「ちょお、マスター!? ヒトの恋人、勝手に口説かんといてくれる!?」
「ふふ……っ、冗談。冗談ですよ、陽司」
「ったく、油断ならんわ、ホンマ」
「…………」

 はあ、と橘は大きなため息をついて、ぐいっとわずかに酒の残ったグラスを傾けた。

「JJ、お前もアホな事ばっか言わんと……って、JJ?」

 橘が隣を見ると、いつの間にか、JJはカウンターに肘を乗せてそれを枕にうつぶせになっていた。
 耳を澄ますと、かすかに寝息が聞こえてくる。

「JJ……もしかして、酔ってたんか?」
「そうかもしれませんねえ。そういえば、今夜はいつもより飲んでいたかも……すみません、気付かなくて」
「や、それは俺も一緒やし。つうか、コイツ酔ってても全然顔にでぇへんから。まぎらわしうてかなわんわ、はあ……」

 橘は、大きくため息をついて、カウンターに両肘をついて、頭を抱えた。
 普段のJJなら口にしないような事を急に言いだしたのも、酔っていたから、というのなら頷けなくもない。
 とんでもない絡み酒もあったもんや、とこぼす橘に、藤堂はくすくすと笑いながら、言った。

「酔った勢い……だったのは、そうかもしれませんが、僕に聞いた事は、本当に聞きたかったことかもしれませんよ?」
「そうかあ? JJのヤツが、そんなん、気にするやろか」
「ええ。だって、好きな人の過去って、気にせずにおこうとしても、気になってしまうものでしょう?」
「…………そう、やろか?」
「はい」

 頷くと、橘は、ちょっと照れたように笑った。

「なんや、コイツにもかわええとこあるやんか……知っとったけど」

 手を伸ばして、眠りを妨げないようにJJの髪をそっと、愛しげにかき回している。
 藤堂はそんなふたりを、静かに見守っていた。
 心は凪いだ湖のように穏やかで、過去に付き合っていた橘が今の恋人を慈しむ様子を見ても、痛んだりはしなかった。
 終わった事、なのだ―――すべて。

「どうせ気にするんなら、もうちっと、違うとこ、気にして欲しいんやけどなあ」

 ぼやく声さえも、甘く響く。
 サングラスの奥で、優しく細められた目には、かつてのように危うげな、イラついた光は見えない。

「変わりましたね、陽司」
「そうか?」
「ええ。君だけじゃなく―――JJも」
「そおか……? 自分ではようわからへんけどな」


 外の雨は、もう止んだだろうか。
 今夜はずっと、降り続ければいい。
 ゆるやかに流れるジャズと、ほのかに香る甘い酒と―――恋人たちの時間を。
 もう少しだけ、このまま、とどめさせてあげたかったから。

(商売あがったり、ですけどね……)

 苦笑して、藤堂は新たなカクテルを、作り始めた―――。


Fin.