三国恋戦記SS 文若×花
眉間と笑顔
「文若さん、頼まれていた書簡を……」
書簡を両腕いっぱいに抱えて、花が文若の執務室に入ると、文若は机の上に伏せっていた。
花は、続きを口の中にしまうと、傍机に、そうっと書簡の束を下した。
規則正しい、小さな寝息が聞こえてくる。
(ここのところ、ずうっと、忙しそうだったもんなあ……)
きっと、いつもより睡眠時間も短いのだろう。
なにせ、文若は、いつ見ても、仕事をしているのだ。
花には、もう遅いからお前は帰れ、と気遣ってくれるのだが、自分は帰ろうとはしない。
身体を壊しますよ、と花が心配しても、自分の限界は心得ているから問題ない、と返されて、終りだ。
王佐という立場では、暇なときなどないのかもしれないが、ああも仕事漬けだと、今はいいかもしれないが、先々は身体がもたないのではないだろうか……。
花は、眠る文若の顔を見て、こっそりため息をついた。
(文若さんは、何でもないって言うけど、寝顔までしかめっ面だし……)
眠る文若の眉間には、くっきりと、縦じわが刻まれている。
最も、それは今に始まった事ではなく、文若の眉間にはたいてい、しわが刻まれて入るのだが……。
「………」
花は、そうっと、手を伸ばした。
「………何を、している」
「文若さん!?」
ぐっすり眠っているとばかり思っていた、文若の手が伸びて、花の手をつかんだ。
「ね、寝てたんじゃなかったんですか!?」
「寝ていたが、お前の気配で目が覚めた」
「そ、そうですか……」
花の手をつかんだまま、文若は身体を起こすと、頭を軽く振って、花の手をつかんでいない方の手で、こめかみを揉んでいる。
その姿は、やはりどことなく、疲れているようだった。
「それで? お前は、寝ている私に何をしようとしていたのだ。寝込みでも襲うつもりだったのか?」
「ち、ちがいます……っ!」
「冗談だ。そんなに慌てるな」
真顔で冗談を言うのは、止めて欲しい。
花は心の底から思いながら、口を開いた。
「あの……、文若さん、寝てる時も、眉間にしわが寄ってたから。ちょっと、伸ばしてみようかなあ、なんて……」
「………くだらんことを」
思いっきり、呆れた口調で言われ、花は気まずく思いながらも、反論してみた。
「だって、文若さん。いっつも、眉間にしわが寄ってるから。寝てる時までそうだし。このままじゃ、癖になってしまいますよ?」
「別に、どうでもいいだろう。そんなこと」
「どうでもよくないですよ! いっつもしかめっ面だなんて!」
「お前は、いやなのか……?」
手を握ったまま、文若は、じっと花を見ている。
気がついたら、いつのまにか至近距離で顔を合わせていることになって、花はどぎまぎした。
「い、いやって言うか……。わ、私は、文若さんの、笑った顔が見たいんです」
「そうか」
「……はい」
そこで、何となく、二人、見つめ合っていた時。
「おい、文若。いるか? ちょっと話が………。ああ、すまん。邪魔したな」
元譲が現れ、見つめ合う文若と花の姿を目にし、くるりと踵を返した。
「いや、別に邪魔じゃないぞ! こほん。何の用だ、元譲」
慌てて、ぱっと離れたふたりを、見ないようにしながら、元譲が部屋に入ってくる。
「それなら、いいが。孟徳が、この間の件を……」
それからしばらく、文若と元譲は、仕事の話を続けた。
花はその間、邪魔にならないように、部屋の隅で書簡の整理をする。
練習の甲斐あって、こちらの文字もだいぶ読めるようになったので、書簡の整理くらいなら、手早くできるようになった。
整理の傍ら、花は、文若の顔を、ちらりと見やった。
(やっぱり……)
文若の、眉間には、今もくっくりと、縦じわが刻まれている。
あんな溝のように刻まれているのでは、いつか消えなくなってしまうのではないだろうか。
「……なんだ、花。何か、言いたい事でもあるのか?」
いつの間にか、じっくりと注視していたらしい。
怪訝そうに、文若が問いかけてきた。
「え、えっと、あの……! やっぱり、文若さんは、もっと、笑顔を見せた方がいいと思います!」
「まだその話は終わってなかったのか……」
ため息をつく文若に、元譲が不思議そうに問いかけてきた。
「一体、何の話なんだ?」
「それは……、あいつに、聞け」
文若は、額を押さえて、話を花に振った。
元譲に目で促されて、花はわけを話した。
「その、文若さんって、いっつも、眉間にしわが寄ってて……。だから、文若さんは、もっと笑った方がいいって、思ったんです」
「…………文若の、笑顔、か」
そういえば、俺も見た事ないな、と呟く元譲に、花は勢い込んだ。
「いつもお仕事で一緒にしている元譲さんも見たことがないってことは、ほとんどの人が見たことないって思うんです、文若さんの笑顔! 元譲さんも、文若さんの笑顔、見たいですよね!?」
「俺は、別に………、まあ、そうだな。見て見たいかもしれんな」
どうでもいい、と言おうとした元譲だったが、花の視線に訴えられて、あっさりと意見を翻した。
「元譲、お前……」
「まあ、いつも渋い顔してるより、笑ってた方がいいんじゃないか。なあ」
いつの間にか、孟徳軍の連中を、すっかり掌握している花を、末恐ろしく思いながらも、文若は再びため息をつきつつうなずいた。
「わかった……。善処、しよう」
「はい!」
文若の返事に、花は、にっこりと、満面の笑みを見せた。
可愛らしいその笑顔に、文若もつられて、ほんの少し、表情が緩む。
それを見て、
(そういうツラも、出来るんだな……)
と、元譲は思ったが、口には、出さなかった。
それから、数日後。
孟徳の執務室では、文若、元譲を交えて、今後の政策についての話し合いが行われていた。
その話し合いが一段落ついたあたりで、その場で、休憩にお茶を飲む事になった。
香り高いお茶を一口含んで、ほっとした文若は、花の言葉を思い出していた。
(文若さんは、もっと、笑顔を見せた方がいいと思います!)
眉間に、そっと手を当てる。
(笑顔、か……)
確かに、不機嫌そうな顔をした者の傍にいるより、笑顔をみせる者の傍にいる方が、人は嬉しいものなのかもしれない。
実際、花の笑顔を見ると、どんなに疲れていても、癒される心地がする……。
「……文若」
孟徳は、茶の入った器を卓に戻しながら、怪訝そうな顔をした。
「お前、何か悪い物でも食ったのか?」
そして、どうした、妙な顔して、と続けられる。
元譲が、くっ……、と堪え切れない様に息を吐き出すと、いきなり笑いだした。
「っ! わ、笑うな、元譲っ!!」
「元譲? 何で笑ってるんだ、お前」
「す、すまん、だが……っ!」
ますます大きな声で笑い出す元譲に、孟徳はきょとんとした顔で首をかしげる。
文若の眉間には、くっきりと、二本、縦じわが刻まれていた。
了。