三国恋戦記SS 孟徳×花
恋着
執務が続いて、しばらく会えない日が続いた後、孟徳はふらりと花の元へと訪れた。
花は、筆を置いて立ちあがると、笑顔で彼を迎え入れた。
「やあ、花ちゃん。今、いいかな?」
「孟徳さん……。はい、どうぞ」
少しだけ、久しぶりに見る、孟徳の変わらぬ笑顔に、花の胸がことり、と鳴った。
孟徳の笑顔を見ると、いつだって、胸がほわりと、温かくなる。
「それ、文若の出した、宿題?」
「はい。やっと、なんとか、こっちの字が読めるようになって……」
机の上に広げているのは、こちらの書物だ。
来たばかりの頃は、文字も読めなかったが、今では勉強――というか、文若のしごき――の甲斐があって、何とか、読めるようになった。
とはいえ、書く方は、まだまだなので、こうやって練習しているところだ。
だから、孟徳に会えない日が続いても、花にはやることがたくさんあって、結構、忙しかった。
文若の人使いは、相変わらずでもあったし。
もっとも、ひとりで暇を持て余すよりも、気がまぎれるので、そっちの方が花にとってもありがたくもあったのだが。
「やれやれ。文若も、相変わらず、容赦がないなあ。こんなに、たくさん……。無理しなくてもいいんだよ? あいつは、加減ってものを知らないからね」
孟徳が、机の上に積み上げられた書物の山を見て、苦笑した。
それに、花は笑って首を振った。
「大丈夫です。文若さんは、ちゃんと、私にもできる、っていう量しか出してませんから」
「そうやって頑張ってばかりだど、あいつの要求は増すばっかりだからね? 気をつけないと。ちょっと手を抜くくらいが、ちょうどいいんだよ」
「孟徳さんは、そうしてるんですか?」
「うん、実はね。ははっ、これ、文若には、ナイショだよ?」
「う〜ん、きっと、文若さん、わかってると思いますよ」
そうかな? と孟徳は笑って首を傾げ、そうかもね、とまた笑ってうなずいた。
花は、孟徳に椅子を勧めると、声をかけた。
「あの、私、お茶、頂いてきますね」
「ああ、いいっていいって。お茶なんか、いらないよ。そんなものより、君の顔を見てる方が、よっぽど、潤うからね」
「孟徳さんったら……」
孟徳は、いつも、花の顔を赤くさせるような事を、さらっと言う。
それは、初めて会った時から変わらないのだが、いつまで経っても、ちっとも慣れなかった。
今も、頬がじんわり火照りそうになって、花は顔に手を当てて、孟徳を軽く睨んだ。
「ん? どうしたの? 怖い顔して」
「なんでもありません……っ!」
そんな花の様子も、楽しげな顔で見られては、もう一体、どういう反応を返せばよいのかわからない。
孟徳は、花がどんな反応を取っても、同じように、喜ぶのだが。
花は孟徳の向かいの椅子に座ると、ちょっと恨めしそうに彼を見た。
いつもと変わらないようにも見えたが、ほんの少し、顔色が悪いようにも見える。
「孟徳さん……。お仕事、大変なんですか? ちょっと、疲れてるような……」
「まあ、色々あるからね。と言っても、君が心配するほどじゃないから、安心して」
否定しなかったということは、やっぱり疲れているのだろう。
人よりも高い地位に就いている、ということは、それだけ、苦労も多いのだろう。
花といるときは、決してそういうところを見せなかったが、だからって、何もない、というわけではもちろんない。
政情はまだまだ、安定している、とは言い難かった。
「すみません……。私が、もっと、役に立てたら、よかったんですけど」
「だから、君が気にするような事じゃないって。どうにもできないような事態になってたら、文若が俺をここに来させるはずがないでしょ。君が謝るような事は、ないんだよ」
孟徳は、優しい笑顔と共に、言い聞かせるように、花にそう告げた。
気持ちは楽になったが、それで、申し訳ないという想いがすべて消えさることはない。
そんな花の想いを読みとったのか、孟徳はちょっと苦笑してから、仕事の話はこれでおしまい、と明るく言って、話題を変えてきた。
「そういえば、さ」
孟徳は、花の顔を覗き込むように見ながら、大きな手で、花の頬に触れた。
「な、なんですか……!?」
いきなりの行為に、花がびっくりしていると、孟徳は、花の頬にかかった髪を、さらりとかきあげて、続けた。
「この間、俺が、君にあげた、耳飾り。つけてないんだね」
露わになった花の耳には、何の飾りも付いていない。
孟徳の指が、くすぐるように、花の耳に触れた。
「あ、それは……」
触れられた場所が、熱を帯びていきそうで、どきまぎしながら、花は答えた。
「大事に、仕舞ってあります。失くしたり、汚したり、したくなかったから」
「大事にしてくれるのは嬉しいけど、ちゃんと、つけてくれた方が、もっと嬉しいな。ね、どこに仕舞ってるの?」
「そこの、引出しの一番上に……」
小物を仕舞うための、朱塗りの小さな箪笥が机の上にあって、その引出しに、大事に仕舞っていた。
孟徳は立ちあがると、これ? と尋ねながら、引出しを開けた。
「ああ、あった。これだ」
そして、耳飾りを手に取ると、花の傍らにしゃがみこんだ。
「つけてあげる。じっとしてて」
「は、い………」
孟徳の顔が、すぐ近くに迫って、温かな指が花の耳に触れている。
鼓動が、凄い勢いで鳴りだして、胸をぎゅっとつかまれたように、緊張して、花は目をつぶった。
「……うん、やっぱり、すごく、可愛い」
耳飾りをつけ終わると、孟徳は少し離れた場所に立って、花をしげしげと眺めて、満足そうにうなずいた。
俺の見立ては、完璧だね、と。
「俺といるときは、それ、いつも付けてくれると嬉しいな。もちろん、何も付けてなくても君は可愛いけど、それを付けたら、もっと可愛いよ」
椅子を花のすぐそばに寄せて座ると、孟徳は、付けたばかりの花の耳飾りにそっと触れた。
小さな石が連ねられた耳飾りが、しゃらんと揺れる。
至近距離で、嬉しそうに笑う孟徳と目が合って、花は思わず目を伏せた。
「ズルいです、孟徳さん……」
ぽろりとこぼれた花の呟きに、孟徳は不思議そうに問い返した。
「ズルイ? 俺がかい? どうして?」
「だって……、そんな風に、可愛いとか、言うから……」
「そりゃ、事実だから。花ちゃん、君はすごく、可愛いよ」
屈託なくさらりと言われて、花は顔を赤く染めて、うつむいたまま、小声で言った。
「そんな、いっつも、可愛いって言うから。孟徳さんは、誰にでも、そんな風に言ってるんじゃないかなって……」
言ってしまってから、花は、はっとして、口を押さえた。
初めて会った時から、まるで挨拶のように、可愛いって言われて。
嬉しくないわけではなかったけど、ちょっと、思うところがあったのも事実だ。
だがこんな風に、責めるみたいに、言うつもりはなかったのに……。
そうっと顔をあげると、孟徳はきょとんとした顔で、花を見ていた。
そして、くすりと笑った。
「まあ、俺も、他の女の子に、可愛いって言った事がない……、とは、言わないけど」
やっぱり、言ってるんだ……。
そう思って落ち込みそうになった花の、顔を、孟徳はすくい上げるように右手で包み込んで、続けた。
「花ちゃんと会ってからは、他の、誰にも、言ってないよ?」
「……っ!」
顔を寄せられて、耳元に息を吹き込むように囁かれて、花の心拍数が跳ね上がった。
「俺が、嘘、つかないってこと。花ちゃん、君も、知ってるよね?」
「………はい」
「よかった、信じてもらえて」
「私は……、孟徳さんを、疑ったりなんか、しません」
「うん、そうだね」
孟徳は、花と目を合わせると、にっこりとほほ笑んで、片目を瞑った。
「さっきのは、俺を疑ったんじゃなくて、ちょっとヤキモチを焼いたんだよね?」
「そ、それは……っ! ち、違いますっ!!」
花は慌てて否定したものの、誤魔化せたかどうかは、微妙だ。
孟徳は、花に、決して嘘をつかない。
「本当に、花ちゃん、君は可愛いよね」
そして、花の嘘も、たちどころに、見破ってしまうのだから。
了。