恋するふたりの10title

03.キスしていい?

 窓を雨がそっと叩いている音を、聞くともなしに聞きながら、彰宏は本のページをめくっていた。
 何の予定もない、休日の午後。
 梅雨時は、雨ばかりで鬱陶しいけれど、彰宏はこんな風に静かに過ごす休日が、結構好きだった。
 しとしと、と降る雨音と、ぱらぱら、とめくられるページの音。
 平和だなあ、としみじみと思う。

「…………」

 今日は一日、何もしゃべらずに過ごしてもいい。
 一人の時間を、心置きなく満喫するのだ。

「…………」

 そうだ、ゴールデンウィークに実家に帰ったときに持たされたお茶が、まだ残っていた。
 梅雨冷え、と言うんだろうか。
 今日は少し冷えるので、温かいお茶も悪くない。
 電気ポットのコンセントは抜いたままだったから、薬缶でお湯を沸かそうか。
 だけど、ちょっと面倒くさいな……。

「あの、アキちゃん……?」

 おずおずと自分の名前を呼ばれて、彰宏はふと目を上げる。

「ああ、何だ。悟史か。いたんだ」

 そういえば、一人じゃなかったんだっけ。
 彰宏は、一人を満喫するあまり、部屋に訪問者がいたことを、すっかり忘れていた。

「いたのか、じゃないよー。さっきから話しかけてたのに、全然反応してくれないしさ。ひどいよ」

 どうやら、雨音とページをめくる音以外を、シャットアウトしていたようだ。
 一応、自分の名前には反応したが、その前にも悟史は自分に話しかけていたらしい。

「あー。悪い悪い。本に集中しててさ。忘れてた」
「忘れないでよ〜!!」

 思いっきり、情けない顔で言う悟史に、悪いと思いつつ、つい吹き出す。

「あ、何でそこで笑うかな!?」
「だってさ、お前……」

 これ以上笑ったら、本格的にすねそうだと思って、彰宏は何とか笑いをこらえる。
 しおりを挟んで、本を置くと、立ち上がって、一人暮らしのアパートらしく申し訳程度につけられたキッチンへと向かう。

「お茶淹れてやるからさ。機嫌直せよ」
「それは構わないけど……。お茶淹れるんなら、俺、やるよ?俺の方が上手いし!」
「そうだな」

 あっさり機嫌が直ったらしい悟史は、いそいそと立ち上がると、勝手知ったる部屋とばかりに、急須、湯のみ、茶筒と手際よく出して準備を始めた。
 その様子を、どこか微笑ましい思いで見ながら、彰宏は薬缶を火にかけた。

「お前もさ、退屈なら勝手に帰ってもよかったんだぜ?俺は気にしないし」
「気にしてよ!……って、俺別に、退屈じゃないよ?」
「だって、話し相手もしてやってないんだし」
「そうだけど。でも、俺、アキちゃんの顔、見てるだけでも、楽しいよ」

 にこにこと、害のない顔で笑う悟史を見て、こいつは……と、彰宏は苦笑した。
 本気で言ってるんだから、性質が悪い。
 照れもなくそんなことを言われたら、こっちはどう反応していいのか、困るではないか。

「………物好きだよな、お前」
「そうかな?」

 沸騰したお湯をポットに移す。
 どんな顔で自分を見ているのか、容易に想像がつくから、悟史の顔は、見なかった。

「そうだよ」

 ポットを悟史のいるところに運びながら、小さく答える。
 お茶を淹れ始めた悟史の手元を、ぼんやりと眺めて、こっそりと息を吐いた。
 無自覚、って言うのがまたありえないんだよな、と思いながら。

「俺さ、アキちゃん自身も、もちろん大好きなんだけど、アキちゃんの顔も好きなんだ。まつげ長いなあとか、鼻の形が綺麗だなあとか、唇がさくらんぼ色だなあとか、キスしたいなあとか思って、見てる」
「ふうん……」

 背中がかゆくなりそうだ。
 が、極力、何でもない顔で、彰宏は相槌を打った。
 緑茶の、いい香りが、ふわっと広がって、鼻先をくすぐった。

「お前、キス、したいの?」
「え、あ、あの、そ、それはっ……!」

 あまりにさらっと言われたので、らしくなくナチュラルに誘ってるなあと思ったが、単に口が滑っただけだったらしい。
 ちょっとだけ、ほっとする。
 ただでさえ、自覚なくこっぱずかしいことを言ってくる相手が、誘い上手にまでなられたりしたら、何だか、色々と……、困る。
 だけど、つい滑ってしまった言葉に、わたわたと慌てている相手を見ていたら、むくむくと、悪戯心がわきあがってきた。

「すればいいじゃん」
「え……?」
「すればいいだろ、キス。したいんなら、さ」
「い、いいの……?」

 ごくり。
 つばを飲み込む音が、はっきりと聞こえてきて、彰宏はまじめな顔を保つのが難しかった。

「ああ、いいよ」
「ホントに!?」

 ぱっと、顔が輝く。
 そして、そのまま顔が近づいてきて……。

「ただし」

 むにゅ、と悟史の唇を、人差し指で押さえた。

「俺がその気じゃなかったら、容赦なく張り倒すから」
「アキちゃん〜〜……」

 がくっと、悟史が脱力するのを見て、今度は遠慮なく笑った。
 涙まで浮かべて笑っている彰宏を、悟史が恨めしそうに見ている。

「それは、キスしていい、って言わないと思うよ……」
「そうか?わかんないだろ。俺が張り倒すかどうかなんて」

 笑いを収めて、じ……っと、悟史の顔を見つめる。
 どうする?と挑発するように。

「じゃ、じゃあ……、今は?………キスしても、いい?」
「だから、言ってるだろ。試してみれば、って………」

 悟史の手が伸びて、彰宏の頬を包む。
 大きな手だな、と思った。
 
 
 淹れたての温かいお茶は、二人の間でゆっくりと、飲まれることなく冷めていく。
 さっきより、ほんの僅かに勢いを増した雨が、変わらず窓を叩いていた。


Fin.
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