25pieces
タイムリミット
「ただいま」
約一ヶ月ぶりに、家に帰ってきた。
バイトにもようやく慣れて楽しくなってきたところだったし、本音を言えばこのままシーズンが終わるまで働いていたいくらいだった。
最初から、そういう約束だったんだからしょうがないけど。学校も始まるし。
だったら、ギリギリまで仕事して……と思ってたのに。
『お疲れさん。早く帰って、ゆっくり休めよ』
そう言って高内さんから、朝イチでバイト代とお弁当を手渡され、笑顔で送り出されてしまった。
おかげで家にたどり着いた時間は、まだ時計の針がてっぺんを回ったくらいだった。
予定では、日もとっぷりくれて、飯食って寝るだけ、という時間になるはずだったのに。
でもこの時間なら、家には誰もいないだろう。
このまま部屋に直行して、疲れたふりをして眠っていればいいか。
父さんと母さんは仕事だし、智里は、受験生の兄はこの夏ずっと予備校通いだと言っていた。
それなのに、誰もいない家の鍵を開け、ドアを開けたら自然と声が出ていた。
たった一ヶ月くらいじゃ、これまで培ってきた習慣って変わらないものなんだな。
オレは自嘲気味に笑って、ドアを閉めた。
けたたましい音が階段から聞こえてきたのは、あがりかまちに座り込んでくたびれた靴を脱いでいた時だった。
「勇一郎……っ!?」
兄が、転び落ちるんじゃないかってスピードで階段をかけおりてきた。
最後の一段を踏み外しそうになって、慌てて手すりをつかんだが、その目はまっすぐにオレを見ている。
むしろ凝視している、と言っていいくらいだ。
「た……ただいま?」
兄のめったにない慌てぶりに、オレは座ったまま兄をぽかんと見上げて、もう一度、そう言った。
なんとなく、語尾が疑問形になる。
「よかった……もう、帰ってこないのかと、思った……っ!」
兄はその場にへなへなとしゃがみこんだかと思うと、いきなり泣きだした。
ひとまず兄をリビングに連れて行って、ソファに座らせた。
兄はティッシュをつかんでしばらく鼻をぐずぐず言わせていたが、それもやがて治まったようなので、冷蔵庫から麦茶を取ってきた。
コップに注いで渡すと、兄はありがとう、と小さく呟いて受け取ると、ごくごくと飲んだ。
ローテーブルの上に、ことん、とコップを置く。
オレは一体、これからどうすれば……。
戸惑いながら、とりあえず隣に座る。
「ええっと……。落ち着いた?」
そう言えば荷物、まだ玄関に置きっぱなしだったっけ。
お土産にもらったジャムは、早く冷蔵庫に入れた方がいいよな……。
そんなことをぼんやり思い出しながら、オレは兄に尋ねた。
「ごめん、急に……。驚かせたよね」
うなだれた様子で、兄が口を開く。
ここはやはり否定するべきだろうか。
ちらっと、そう思った。
「そりゃあ……。顔見た途端に、泣きだされたら、さすがに」
だけどつい、正直に答えてしまった。
あんな風に兄に泣かれたことなんて、初めて会った6年前から今まで、一度もなかったから。
「その……どうしたの? 予備校は?」
「予備校なんか行くわけないだろ! ちゃんと今日、帰ってくるか心配で……! 勇一郎が、いきなりいなくなるから……!!」
兄は顔をあげると、噛みつくように叫んだ。
「いや……。言ったよね、オレ。夏休みの間、バイトするって」
「泊りこみだなんて、聞いてない!」
「K山のペンションで、バイトするって言っただろ」
K山のペンションでバイトするのに、家から通いで行くのはどう考えても不可能だ。
なので、そこは言わなくてもわかっているものだと……。
ちなみにそこは父さんの知り合いの高内さんという夫婦がやっているペンションで、6年前の夏にも家族みんなで泊ったことがある。
あの頃は、正確にはまだ家族ではなかったけど。
「でも、夏中ずっとだなんて、聞いてない! 連絡もくれないし……」
「あそこ、電波の入り悪いんだよ。それにバイトしてる時は携帯はずっと部屋に置きっぱなしだし。朝が早いから、夜も家にいる時よりも早く寝ちゃってたから」
それは半分本当で、半分は嘘だ。
ペンションの周囲は確かに電波の入りが悪いが、場所によっては問題なくちゃんと繋がる。
いくら住み込みのバイトだからって、電話やメールをする暇さえないって事はない。
知り合いの、しかも高校生バイトをそこまで休みなく使うほど、高内さんの人使いはひどくない。
「だからって、俺のメールに返信くらい、くれたっていいだろ……」
「あ〜……。どうせ使わないしって思って、電源切ってて。見てない」
家から緊急の用があったら、父さんが高内さんに直接連絡取るだろうし。
友達には、オレはこの夏、山に籠るから連絡してくんなって言ってあったし。
何の修行してくるんだよお前は、って突っ込まれたけど。
「………じゃあ、見てよ。今すぐ」
聞いたこともないくらい低い声で、兄は言った。
泣いたばかりで赤い目が、オレをじっと見据えている。
兄の静かな迫力に背中を押されて立ち上がると、オレは玄関まで戻って、バッグに入れっぱなしにしていた携帯を取り出した。
ついでに高内さんお手製のジャムも出して、冷蔵庫に入れる。
500リットルの大型冷蔵庫にもたれて、オレは恐る恐る携帯の電源を入れた。
ずらりと並ぶ着信履歴は、ほとんどが兄のものだ。未開封のメールの、送信元も。
「読んだ?」
リビングから、兄の声が届く。
オレはうなずいて、すぐにそれじゃ向こうには見えないかと気づいて、声に出して答えた。
「読んだ」
予想通り、メールの内容は、ぜんぶ同じ。
オレがバイトに出かける前、兄に伝えた言葉の真意を問うものだった。
まあ、な。
言い逃げしていったようなもんだから、そう言うメールは来るだろうなと思ってた。
思ってたから、夏中顔を合わせないで済む場所でバイトして、連絡を断った。
我ながら、ズルイとは思う。
オレは観念してリビングに戻ると、兄の座るソファの脇に立った。
「だったら……、答えてよ、今すぐ」
目じりに涙を浮かべて、兄はオレを問い詰めた。
一ヶ月くらいインターバルがあけば、何もなかったことにならないかな、と都合のいいことを考えてたんだけど、甘かったらしい。
本当は、あんなことを言うつもりは、微塵もなかった。
夏の間にペンションのバイトを入れたのは、長い休みの間、兄と一緒に過ごす時間が増えるのを避けたかったからで、決して言うだけ言って、しばらく姿をくらませようとか、そんな思惑あってのことじゃない。
ただ、結果的にそうなってしまったと言うだけで。
限界だった。だから、夏のバイトを、あえて住み込みで探した。
「………答えるも何も。そのままだよ」
勇一郎は、どこの大学を志望してるの。
きっかけは、夏休みに入る前の、そんなささいな兄の一言だった。
兄は地元の大学も受けるが、志望しているのは東京の大学だ。
合格すれば、当然、家を出ることになる。
兄は、再来年、オレも東京の大学を受ければいいと言った。
そして、今みたいに、兄弟で一緒に暮らそうよ、と。
だからオレは、思わず言ってしまった。
一緒に暮らすなんて、無理。オレは智里を、兄弟だなんて思ったことは、一度だってないんだから――――、と。
「なんで? ねえ、なんで!? そんなに俺のこと嫌いだったの? 夏中ずっとペンションでバイトして、顔も見たくないくらい!? 俺はずっと、勇一郎のこと、大事な兄弟だって、家族だって、思ってたのに……!」
悲痛な声で言われて、ああやっぱりそう取られたか、とオレは思った。
オレはソファに座らずに直接カーペットに膝をつくと、手を取って、智里の顔を覗き込んだ。
目のふちにとどまっていた涙が、ぽたりとオレの手に落ちた。
「ちがう。そうじゃない。オレだって、智里のことは、大事だよ。初めて会った時から、ずっと」
『これから新しく家族になるお母さんと、お兄ちゃんだよ』
―――そう、父さんに紹介されて、初めて会った、6年前のあの時から。
あれはちょうど、今頃のことだった。
お互いのことをよく知りあえるようにと父さんの提案で、夏休みに入ってすぐに、高内さんのペンションに皆で泊った。
本格的に家族になる前の、プレ家族旅行。
物心ついた時には父さんと2人っきりだったオレは、こんな風に家族で旅行したことがなくて、それだけで凄く楽しかった。
ひとつ違いの智里は、ずっと兄弟が欲しかったんだと、嬉しそうにオレに言った。
見惚れるような、きれいな笑顔で。
ねえ、勇一郎くんは……? 智里にそう尋ねられて、オレはわけもわからずに、ただうなずいた。
兄弟がいたらいいなとか、欲しいとか、それまで考えたことはなかった。
でも、兄弟になったら、このきれいな笑顔が、ずっとそばにいてくれるんだ。
そう思ったら―――、何故だか胸がいっぱいになった。
あの時は、どうしてそう感じたのかわからなかった。
だけど、今はもうわかっている。
オレは一度だって、智里のことを兄弟だって思って、兄だと思って、見たことはないのだと。
ただ、それを智里が望んでいるのは知っていた。
だからオレは、自分は弟なんだって、なんとか思いこもうとした。さっきも。ただいまって、この家に帰って来てからも。
少しでも、智里が望む―――兄弟でいられるタイムリミットを、のばしたくて。
結局、無駄なあがきだと、再認識しただけだったけど。
「智里が好きだよ。だからオレは、智里が東京の大学行って、その後、もしオレも東京に行くことになったとしても、オレは智里とだけは一緒に暮らせない。無理なんだよ」
重なった手をそっと握って、オレはすっかり赤くなった智里の目を見つめて、答えた。
智里は納得がいかないと言う顔で、すぐに反論してきた。
「なんで……!? 一緒に住んだ方が下宿代だって安く済むじゃないか。それに、まだ仮定の話なのに……どうして最初から無理だって言うの? 俺が好きなら、嫌いじゃないなら、なんで兄弟なんて思ってないって、」
全部言いきる前に、オレは膝をカーペットから浮かせて、智里の口をふさいだ。
手を伸ばして、首の後ろに手を回す。
言葉を発するために開いたままだった、智里の口の中に、自分の舌をさし込む。
歯の裏をくすぐるようになぞったら、智里が腕をつっぱってきて、始まった時と同じくらい唐突にそれは終わってしまった。
「いきなり、何するんだよ……!」
顔を赤くして抗議する智里に、オレは笑った。
ほら、な。
やっぱり、無理だったんだよ。
「勇一郎? なに笑ってるんだよ。まだ俺の質問に答えてないだろ……!?」
「答えるも何も……」
今のがその答えなのに、どうして智里はそれがわからないんだろう。
オレが、智里の弟だから?
「キスしても伝わらないなら、最後までしないとわからないんだろうか……」
だけどこれ以上、無理やり智里をどうこう、とかしたくない。
今だって、智里が止めなかったら、ちょっとヤバかったし。
「さっきから何言ってんだよ。おかしな誤魔化し方しないで、ちゃんと俺にもわかるように、説明しろよ!」
イラついた智里の声が、オレを責め立てる。
オレはちょっと考えると、もう一度、智里にキスをした。
今度は、触れるように、軽く。
「智里が、好きだ。家族だから、兄弟だから、じゃなくて」
吐息が重なる距離で言って、顔を離した。
そして智里の顔を、近くからじっと見つめる。
「わかった?」
これでわかってもらえなかったら、もう本当に無理だ。
東京に出て一緒に暮らす以前に、このままこの家で一緒に暮らすのも無理な気がしてきた。
本当はこんなこと言わずに済むように、ふっ切ろうと思ってたんだ。この夏の間に。
「……………わかった」
智里は耳まで赤くなると、小さな声でうなずいた。
きょろきょろと、視線が泳ぐ。
「わ、わかったけど、あの、えっと、俺……っ」
「いいよ、別に。無理して何か言おうとしなくても」
わかってたけど、でもここできっぱり振られるのもイヤで、オレは智里の言葉を遮って立ち上がった。
携帯は取りに行ったけど、荷物自体はまだ玄関に置きっぱなしだ。
とりあえず、自分の部屋に運ばないと。
オレはそれ以上何か言われる前に、リビングから出て行こうとした。
「ま、待ってよ……!」
智里に呼びとめられて、オレは足を止めて振り返った。
一か月前みたいに、言い逃げさせてはくれないか。
今度は、顔を合わせずに済む場所に姿をくらませることなんて、出来ないもんな。
「兄弟だから……! 弟だから、ずっと一緒にいられるんだって……、好きでいてもいいんだって、そう、思ってた、んだけど………」
智里はオレを見つめて、不安そうな、迷うような声で言った。
予想していたものとは、全然違う言葉だった。
オレはまたしてもちょっと考えてから、言った。
「………兄弟って。ずっと一緒にいられるのって、大抵、子供の頃だけだって思うんだけど」
「え……なんで!?」
どうやら智里は、素で驚いていた。
いや、そっちの方が何で? だよ……と内心突っ込みながら、オレは答えた。
「進学もそうだし、就職とか……結婚とか。兄弟って、最終的には別々に暮らすだろ」
「勇一郎、結婚したらこの家、出ちゃうの!?」
「二世帯で住むほど、この家デカくないし。つか、智里が結婚して出てくことだってありえるだろ。まあ、智里が嫁と一緒にこの家で暮らすことになったら、オレは出て行くけど」
「えっ! ヤダよ俺、そんなのっ! 俺、結婚しないから、勇一郎も出てかないでよ……!」
智里はソファから立ち上がって、オレの腕をつかんだ。
痛いくらいに、強く。
オレは、慎重に尋ねた。
「智里はオレが一緒にいないと、嫌なのか?」
「そんなの、決まってるだろ!」
智里は、即答した。オレは続けて尋ねた。
「それって……智里も、オレのことが、好きってこと?」
「それは……。あ、当たり前だろ。じゃなかったら、さっき舌入れてきた時に、殴ってるよっ!!」
そう言えば、手で押しのけられはしたけど、ひっぱたかれたりはしなかったな。
あれって、驚いたけど、別に嫌がってたわけじゃなかったってこと?
「じゃあ、もっとちゃんと、キスしてもいい? 兄弟じゃ出来ないような」
「………いいけど。兄弟じゃないなんて、言うな」
「なんで?」
どうしてそこまで、こだわるんだろう。
不思議に思って首をかしげていると、智里はちょっと怒ったような顔でオレを見上げた。
「兄弟になったから、勇一郎が、俺の弟になったから! だから俺は、勇一郎と、一緒にいられるようになったのに……」
最後に智里は鼻をくすんと鳴らして、声を震わせた。
そっか、逆だったんだ。オレはようやく、気付いた。
今みたいに、兄弟で一緒に暮らそうよ……って、あの言葉は。
あれは智里がオレのことを、弟として、ただの家族としてしか、見ていなかったからじゃなくて―――――。
「わかった。二度と言わない。だからキスさせて、お兄ちゃん」
「お兄ちゃんなんて……、一度も呼んだことないだろ」
智里は見惚れるようなきれいな笑顔で笑って、目を閉じた。
Fin.
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