バッテリーSS( 巧&豪&青波)

雲のむこう

 まだ暗い、空を見上げて。
 巧は、手に馴染んだボールを、ぎゅっと握り締めた。
 早朝の空気は、冷たく、頬に、突き刺さるようだったが、気になるほどではない。
 通りの向こうから、新聞配達の、バイクの音が聞こえてくる。
 早く、行かなければ。
 まだ、十分、早い時間ではあったけれど、今朝は少し、遅れてしまったかもしれない。
 約束を、しているわけではないけど。
 たぶん、今日も、待っている。
 たった今、そこに現れたかのような顔をして、豪が。
 自分の、たったひとりの、キャッチャーが。
 どこか、せかされるような、気分で、巧は走り出した。
 いつもの、早朝ランニングコース。
 そこに、永倉豪は、今朝も、変わらず、立っていた。

「おはよう、巧。なんだ、今日は、青波も一緒じゃったんか?」

 言われて、巧は、初めて後ろを、振り返った。

「青波、お前……」

 間抜けなことに、ついてきていた青波に、全く気付かなかった。
 それだけ上手く、自分の後を、こっそり、走ってついてきていたのだろう、青波の頬は、赤く、上気していた。

「目、覚めちゃったんじゃ。そいで、お兄ちゃんが、走っていくの、見えたから。僕も、一緒に走りたく、なったんじゃ」

 言い訳するように、早口で。
 青波が言うのに、巧は小さく舌打ちする。

「……早く、帰れ」
「いやじゃ」

 間髪入れずに、返されて、巧は、ますます、渋い顔をする。

「何、言ってるんだ、お前。朝っぱらから、こんなとこまで、ついてきて。風邪、ひくだろ」
「ひかないよ!僕、ちゃんと、着込んできたもん!」

 そういう問題じゃない、と言ったところで、聴く耳もたないだろう。
 巧は、イライラする気持ちを抑えて、ため息をつく。

「…ええじゃないか、巧。ここまできたんじゃ。何も、追い返さんでも」

 とりなすように、豪が言って、青波がぱあっと顔を明るくする。

「今日だけ、だからな。今度から絶対、ついて、くるなよ?」

 仕方ないので、今日のところは折れてやるが、いつもこうだとたまらないので、釘をさしておく。
 青波は、わかった、とうなずいた。

「それじゃ、始めようか、巧」

 グローブを、取り出して、豪が言うのを合図に。
 巧は、ボールを、握った。

 白いボールが、まっすぐに、豪に向かって放たれていく。
 澄んだ空気の中、ボールが走る音は、昼間よりも、はっきりと耳に届く。
 巧は、この時間が好きだった。
 朝でも、昼でも、夜でも。
 部活の時でも、そうじゃない時でも。
 野球がやれるんだったら、何だって、構わない。
 それでも、早朝に、豪と二人だけでやる、キャッチボールは、少しだけ、違うように思えた。
 雑音が、少ないからかもしれない。
 空気もまだ、濁ってなくて。
 活動を始めたばかりの脳も。身体も。
 ただ、ボールを投げる。
 それだけの行為に、集中できる。
 そんな、気がして。

「なぁ、お兄ちゃん。僕も、豪ちゃんと、キャッチボール、したい」

 声を掛けられ、そうだ、今朝は、青波もいたんだっけ、と思い出す。

「ちょっとだけ、豪ちゃん、貸して」
「わかった…、ちょっとだけ、だぞ」

 言って、ボールを投げようと構えていた腕を、下ろす。
 その兄弟のやり取りを、黙って聞いていた、豪が、苦笑しながらこぼす。

「貸して、って…なんか、俺。巧の、持ち物みたいじゃなぁ」
「違うの?」
「同じことだろ」

 同時に返された、原田兄弟の言葉に、豪は、かなわんなぁ、とボヤきつつ、再び、グラブを構えた。

「豪ちゃん、ちゃんと取ってね?」
「心配せんでも、大丈夫じゃ」

 どんな球でも取ってやる。

 そう、笑って。
 青波の投げたボールを、豪はキャッチした。
 それを、眺めるとはなく、眺めながら。
 自分なんかより、よっぽど、豪の方が、青波の兄みたいだな、と巧はぼんやりと思った。
 青波は、変わった。
 相変わらず、熱を出して、寝込むことは、あるけれど。
 前よりずっと、風邪をひかなくなったし、夜中に、苦しそうな咳をすることも、少なくなった。
 それは、こっちの空気が、青波にとって、よかったせいもあるかもしれない。
 それとも。

(野球を始めたから、だろうか)

 こっちに来てから、青波は、野球を始めた。
 寝込みがちで。体育を、校庭の片隅で、見学していたような、弟が。
 野球は、楽しむもんじゃ。
 祖父の言葉が、蘇る。
 青波は、きっと、野球を、楽しんでやっているのだろう。
 それが、青波の身体にも、いい影響を、与えているのだろう、たぶん。
 今も、楽しそうに、ボールを投げている青波を見て。
 自分はどうなんだろう…、と、巧は、思った。
 くだらない。
 野球が、楽しいか、だって?
 そんなこと、どうだっていいじゃないか。
 野球は、楽しむものじゃない。
 わかりきったことだ。
 それなのに、そんな、くだらないことが、あたまをよぎるのは、祖父に言われた言葉が、どこかに、ひっかかっているせいだろうか。
 楽しむだめの野球だったら、誰にだって、出来る。
 でも、自分がやりたい野球は。
 そういうものとは、違う。
 それだけは、確かだ。
 楽しむためだけのものだったら、どうして、こんなにも、胸の、奥から。
 こみ上げてくるような、衝動かあるのだろう。
 いや、焦燥、だろうか。
 青波が、楽しい野球をやるのは、全く構わない。
 いや、青波には、そういう野球が、似合うのだろうと、思う。
 だけど、自分は違う。
 そこまで考えて。
 巧は、笑いながら、青波のボールをキャッチしている、豪を見つめた。

(豪は……)

 あいつは、楽しそうに、野球をするのが、似合っている。
 楽しかったんじゃ、と。
 豪は言っていた。
 過去形で。
 だったら、今は?
 そう、聞くことは、出来なかった。
 そんな風に、聞くのも、らしくない、と思った。
 いちいち、相手のことを、考えながら、野球ができるわけない。
 少し前の自分なら、ためらいなく、そう言い切れたのに、今は違うのは、どうしてだろうか。

(バカ、みてぇだな……)

 こんなふうに、ごちゃごちゃ、考えてしまう自分は。

「おい、青波。そろそろ、返してもらうぞ」
「え〜っ!お兄ちゃん、あと、ちょっとだけ!」

 はずんだ息で、答える弟を。
 少しだけうらやましい、と思ってしまう自分が、信じられない。

「ダメだ。そいつは、俺のなんだからな」

 だけど、もう、後戻りはできないから。

「お兄ちゃんのケチ!」

 イーッと、口を広げて抗議する青波と、巧のやり取りを、やっぱり、黙って見ていた豪は。

「俺の意向は無視なんじゃな……」

 そう言って、力なく、笑った。

 東のほうから、少しずつ、空が明るくなってきている。
 空の向こうを見上げながら。
 ただ、野球がしたい。
 そう、思った。
 理由なんか、どうだっていい。
 ただ、こいつと。
 豪と、野球が―――。


Fin.