バッテリーSS(巧&瑞垣)
曇り空の向こう
「よお。お宅の奥様、お元気?」
家で、じっとしていられなくて、公園まで来たのは、失敗だったかもしれない。
本当は、走り込みでもしたかったのだが、空は曇り空だ。
降られるとイヤなので、近場の公園にしたのだが―――降られても、走っていれば、よかった。
小さなブランコを、漕ぐでもなく、ただ腰掛けていた巧は、心から、そう思った。
「んだよ?無視かよ。海音寺ってば、後輩に、一体どーゆー教育してるんでしょうねぇ?」
「……こんにちは」
嫌な相手に見つかった、と思ったが口にはせずに、ただ挨拶くらいはしてみる。
このまま無視しても、黙って見逃してくれるような相手ではないことくらいは、わかっていた。
「まあ、とってもステキな挨拶。…で、奥サンは?元気?」
「俺、まだ、一応、独身なんですけど」
「やーねー、わかってるくせにぃ。あ、それとも何?ダンナって言った方がいい?」
「………」
「こ、わーい。無言で睨むのは、ヤメテ。せっかくの美人が台無し」
「…そんなに、気になるなら、自分で確かめに行ったらどうです?
ここまで来たのなら、アイツの家も、すぐそこですよ」
「つまんねーな。ボケてんだから、突っ込めよ」
「そういうのは、吉貞辺りに、頼んでください」
そう、素っ気無く言うと、わざわざ校区外まで何しに来たんだが、知りたくも無い、横手の野球部部員―――ああ、三年だから、もう引退してるか―――瑞垣は、ゲ、と顔をしかめた。
「俺、あいつキラーイ。生意気」
「ああ、似たもの同士だからですか」
「……ヘコんでんのかと思えば、結構言うね、お姫さんも」
「……どうも」
姫じゃないです、と訂正するのも、いい加減面倒になってきた。
呼びたいのなら、好きに呼べばいい。
どう呼ばれても、俺は、俺なのだから。
「絶不調なんだってね、お宅の女房」
女房―――ピッチャーに対してのそれは、もちろん、キャッチャー、ということだ。
巧のキャッチャーは、一人しか、いない。
豪。
病院の跡取で、母の親友の息子で、人がよくて、人望があって、野球が…いや、巧の投げる球が、好きな、豪。
「…それが、どうかしたんですか」
「うわ、冷たっ!下々に一々気をかけぬのが姫とはいえ」
「好都合なんじゃ、ないですか?その方が」
「まあね」
幾分皮肉気に言うと、瑞垣は、しれっと答えた。そして、
「でも、こうも上手く行きすぎると、つまんねーな。
見かけと違って、繊細じゃ。お前んとこの、キャッチャーは」
初めて、まともな言い方をして、苦笑した。
さっきまでの、からかうような笑みとは違って、それは気遣うようにも、見えた。
情けねぇな、と思った。
こんなに簡単に、同情されてしまう、豪が。
そしてそれを、黙って聞いてしまう、自分が。
自分たちは最高の―――バッテリー、のはずなのに。
「見かけって…どう見えるんですか」
「んー?そうじゃなー。フトコロが広くて、お姫さんのワガママなんか、笑顔で受けとめちゃう。下々と馴れ合わない、気ぐらいの高いお姫さんと、世間の橋渡し役もしちゃう、お人よし」
つらつらと答えた瑞垣は、どうだ、とばかりに、胸を張った。
今度は、巧が、苦笑した。
「…よく、わかるもんですね」
「お前んとこの女房は、単純じゃからな、基本的に。
ムカつくくらいに、真っ直ぐ。ウチんとこの、誰かさんみたいに」
「門脇さん?」
「やーねー。ぼかして言ってんだから、はっきり言うんじゃねーよ。
そうそう、ウチの単純野球バカの、門脇秀吾みたいに、ね」
「…俺は、全然、わからない。豪が、何を考えているのか」
「ばーか。キャリアが違うんじゃ、キャリアが。俺なんか、あの天才単純野球バカと、何年も付きおうとるんじゃ。わからん方が、どうかしとる」
そういう、もんなのか…。
自分には、決してもてない、確かな、絆、のようなものを、あっさりと見せられて、
巧は少しだけ、うらやましい、と思った。
親の仕事の都合で、何度か転勤を繰り返した巧には、幼馴染み、と言えるような存在はいない。
今までは、それを残念だとか、悔しいとか、思った事はなかったのだけど。
もし、そういうものだったら、自分は今、少しでも、わかったのだろうか。
彼が、何を、迷っているのかを。
「つまんねーこと、考えとるじゃろ。よせよせ」
何時の間にか、隣りのブランコに立って、勢いよく漕ぎ出した瑞垣が、からかうように、言った。
「何か出来るなんて、思ってるんじゃ、ねーよ。望んじゃねえだろ、アイツは。
一人で勝手にドツボにはまっとるんじゃ。お姫さんは、ただ待ってりゃええ」
瑞垣の起こす風が、頬をなぶる。
目を細めて、巧は、瑞垣を見上げた。
「自分の力で、這い上がるしか、ねぇんだ、よッ!」
一際高く、ブランコが舞った。
曇り空を、突きぬけるように。
それは、ここにはいない、絶不調の、話題の主にむけて言ったというより、むしろ自分自身に…いや、自分たちに、言っているように、巧には思えた。
瑞垣はそのまま、勢いをつけて、飛び降りた。
危なげなく、すとんと、着地する。
「10,0」
ポーズをつけて、言ってから、くるりと、顔だけ振り返った。
思わず呆然としてしまった巧を、ニヤリと見てから、ひらひらと、小さく手を振った。
「またな、お姫さん」
「……何しに、来たんですか」
とりあえず、それだけ言うと、
「敵情視察」
と、至極真面目な――真面目すぎて、却ってわざとらしい――顔で、言って、歩き去っていった。
「わかんねぇ………」
わかりたくも、ないが。
定住する、ということは、あんな宇宙人みたいな人間とも、何年も付き合わなければならなくなったりするのか。
だとしたら、そう、うらやましがるようなものでも、ないのかもしれない。
埒もないことを考えて、立ちあがると、水滴が、頬に落ちた。
どんよりした雲が、ついに我慢し切れなくなったらしい。
「……帰るか」
呟いて、巧も公園の出口へと、歩き出した。
今はたぶん、この空のようなものなのかもしれない。
降り出す前の、何とも具合の悪い、空。
だとしたら、やはり、どうにかする事など、出来ないのだ。
「さっさと降って、とっとと止んで……早く、晴れろよ」
誰にともなく呟いて、走り出した。
雨が、巧の背中を、押した。
Fin,