バッテリーSS(海音寺&豪)
その指の先へ…
「野球、やめるのか?」
久し振りに、野球部に顔を見せた、キャプテンの――三年は、もう引退しているが、どうしても、その印象がまだぬけない――海音寺は、豪の顔を見るなり、言った。
唐突な、でも、今の彼の状態からすれば、当然といえば当然の、質問に、豪は途惑った顔をした。
「野球部、じゃねぇぞ。野球、じゃ」
繰り返されなくても、海音寺の言う事は、よくわかっていた。
部活に所属する、という事自体はそれほど、大した問題ではない。
問題なのは……
「いいんか?吉貞が、キャッチャーになっても。お前、見捨てるのか?……原田を」
見捨てる?
俺が、巧を?
言われた言葉に、豪は呆然とした。
「見捨てられるのは、巧じゃ、ないです。見捨てられるのは……俺の、方です」
悄然と呟く豪に、海音寺は、皮肉げに、方眉を動かした。
そして、豪の顔を、真っ直ぐに見つめた。
いい訳など、許さない、強い眼差しで。
「本当にそうなのか?そう、思っているんか、永倉」
「海音寺さん、俺は…」
俺は―――。
豪は、言いたい言葉が見つからなくて、もどかしく、唇を噛んだ。
なんといえば、伝わるのだろうか、この、言いようのない、焦燥感は。
覚えている、まだ。
巧の投げる球を、初めて見たときの、胸の高鳴りを。
あの球を、受けてみたいと、心の底から、渇望した。
そして、それが、本当になった時の喜びも。
無口で、無愛想で、素っ気無い…およそ、可愛げというものからは程遠い、彼が、マウンドに立つあの瞬間だけは、彼は自分のものだ、と確信していた。
あのしなやかな、指の先から放たれる、球を受ける、自分だけが。
だけど…一度でも、思ってしまったから。気付いて…しまったから。
今、この瞬間に、最高の、球。
それは、明日にはもっと、凄い球になる。
その次の日は、もっと。
でも、自分は…?
自分は、彼の、その『最高の球』を受けつづけることが、出きるのだろうか。
明日も、明後日も、その次の日も――――?
それに、気付いてしまったら、動けなくなってしまった。
自分の、そんな迷いは、マウンドの巧には、すぐに伝わってしまう。
よくも悪くも、自分たちは、最高のバッテリーなのだから。
そして、豪の迷いは、巧の球から、力を失わせる。
全力で、投げるのを、躊躇わせてしまう。
そんな球はもう、巧の球ではない。
豪の、胸を熱くさせた、巧の球では――――。
「…ったく、お前ら、一体、なにしとるんじゃ」
なにも言えない、豪の様子を見て、海音寺は呆れたように言った。
豪の肩を、ばしん、と叩く。
その思いの外強い力に、豪が顔を顰めるのに、海音寺は笑った。
「甘えすぎとるんじゃ、お前らは、お互い。大体、原田は、確かに凄いピッチャーかもしれん。その球を受ける、お前もな。………でも、な」
そこで言葉を切ってから、海音寺は、ゆっくりと、言った。
「どんなに凄いピッチャーだろうと、原田は、ただの、一年坊主じゃ。こないだまで、小学生じゃった、ひよっこじゃ」
「でも、巧は―――!!」
ただの、中学生なんかじゃ、ない。
そんな言葉で、片付けられてしまうような存在などでは、決して、ない――!
豪の言わんとするところなど、百も承知、といった顔で、海音寺は、豪を目線で黙らせた。
「それでも、じゃ。原田が一年坊主で、お前もそうなのは、事実じゃ。どんなに凄くても、だから……完璧じゃ、ないんだぞ」
わかってるのか。
そう、言われて。
豪は、ハッとした。
そんなことはわかっている…わかっている、つもりだったのに。
今、海音寺に指摘され、初めて気がついたような、気がした。
いつでも、ベストの状態でいなければならないと。
そう、思い込んでいなかったと、言えるのだろうか……?
俯く豪を、海音寺は、やれやれ、といった風に、首を振って見た。
「お前らみたいに、早々と、『ウンメイの相手』っちゅーヤツに合うんも、考えもんじゃな」
「か、海音寺さん…っ!?」
らしくない口調に、豪が顔を赤くするのを、海音寺は、愉快そうに眺めた。
「はは、横手の瑞垣の、悪影響じゃ。姫と王子の、運命の出会い、って言わんだけ、ましじゃろ?」
人の悪い笑みを浮かべながら言う、海音寺に、豪は、ウイルスみたいなヤツがいるもんだ…と、ため息をついた。
なんだか、色々、考え込むのが、バカらしくなってきた。
「吉貞に、大事な姫さん、かっさわれても、いいんか?」
「…よく、ないです」
「だったら、早く、復活するんだな」
そう言うと、海音寺はさっさと、行ってしまった。
何しにきたんだ、あの人は…と、豪は、その後姿を見送りながら、思った。
不甲斐無い後輩を、励ましにきたのだろうか。
「そうじゃとしても……瑞垣流は、やめてほしい……」
情けなく呟く豪の背中に、しだいに集まってくる部員の、騒々しい声が近付いてきた。
冬を感じさせる、冷たい風が吹いていたが、グラウンドに響く声の主たちには、ちっとも堪えいないようだった。
豪は、自分の指の先を、じっと見つめた。
この指が、受けとめるのは。
あの、指の先から放たれるものだと―――そうでなくてはいけないのだと、きつく、きつく、手を握り締めながら、豪は、心に誓った。
Fin.