勘違い


「どこ行くんだ……?」

 ベッドを出ようとしたら、寝ていたとばかり思っていた彼に腕をつかまれた。
 僕は彼の指をそっと離すと、散らばっていた服を拾って手早く身に付けた。

「じゃあね」

 シャツのボタンをとめ終えてから、ベッドの上に肩肘をついた状態で身を起こしている彼に声をかけた。
 明かりがなくても位置を覚えてしまった、ドアノブに手をかける。

「………泊ってけよ。終電、もう終わってるだろ」

 一度も泊って行ったことなんかないのに、毎回そう言う。
 僕は闇の中で小さく、笑った。

「迎えを呼ぶから」

 電話一本で、来てくれる相手がいるんだよ。
 君以外にも。
 これも、何度も言った台詞だ。
 彼はベッドから起き上がると、何も身につけないまま僕に近づいてきて、もう一度言った。

「泊れよ」

 また、腕をつかまれる。

「やだよ」

 するりと振りほどいて、僕は部屋を出る。
 ひんやりと冷たい廊下を歩いて、玄関へ行って、靴を履く。
 ガツン、と部屋の壁を叩くような音が響いた。
 だが、それもすぐにマンションのドアの向こうに、吸い込まれていった。

「お前……何時だと思ってるんだ。この不良め」
「いいじゃん。どうせ暇してたんだろ」
「ああ、暇で暇で、寝てましたよ!」

 文句を言いながらも、いつも電話一本で呼び出されてくれる。
 僕はくすりと笑って、助手席に乗り込んだ。
 車は、スムーズに夜の街を進みだす。
 だるい身体をもてあまして、ぼんやりと窓の外を眺めていたら、運転席から声をかけられた。

「お前さあ、なんで泊っていかないの?」

 まっすぐ前を向いて運転している姿をちらりと横目で眺めて、僕は答えた。

「勘違い、させたくないから」

 エッチして、そのまま泊って。
 朝になって、オハヨウ、とかそう言うの。
 そんなのが当たり前になったら、勘違いしてしまう。

「誰を?」

 運転席から、静かに問われる。

「誰を、勘違いさせたくないんだ?」

 意地悪な質問だなあ……。
 僕は、運転席を軽く睨んだ。

「そんなの、決まってるだろ」

 隣から、ふう、と大きなため息が聞こえた。
 苦笑する気配も。

「……ったく、ほんと、素直じゃねえなあ。俺の弟は」
「それ、言わないでよ、兄貴。せっかく離婚して、名字違うんだから」
「せっかくじゃないだろ。まあ、言うなっつうなら、言わないでおいてやるけどさ」

 絶対だよ、と釘を刺して僕は目を閉じた。
 自分名義のオートロックな高層マンションに住んでる彼と、ボロい2階建てアパートに住む僕。
 そんなふたりの関係が、いつまでも続くはずがない。
 今だけ。気楽な学生の、今だけなんだから。
 だから僕は、彼のマンションに泊ったりしない。
 これ以上好きになったりもしない。
 
 勘違い、させたくないから。
 僕自身を。


Fin.


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