ボタンとネクタイ


「なんで、こんなとこ、いるんだよ。探しただろ。受験でなまった身体、思い切り酷使させやがって……」
 
 ここにたどり着くまで走り回ったのか、先輩は膝に手をつき息を整えて恨めしげな眼差しを僕に向けた。
 別に探してくれなんて頼んでません。
 なんでわざわざ探したりしたんですか、と逆に問いたいくらいだ。
 
「なにその不満そうなツラ。それが先輩に向ける顔か?」
「これが僕の地顔なんです」

 いかにも不本意だという顔を作って言ったら、近づいた先輩にくしゃりと髪をかきまわされた。

「嘘つけ」 
 
 そのまま何かを確認するように顔をのぞきこまれて、表情が変わらないようキープして、一歩だけ後ろに下がった。

「ホントです」
 
 出来ればもっと下がりたがったが、あいにく後ろは壁だ。
 天井近くに窓があるけど、あそこをくぐるのはいくらなんでも無理だ。そもそもここは一階じゃない。
 元々狭い資料室にはいつ使うのかわからないような物まで雑多に置かれて足の踏み場も少なく、ドアはたった今先輩が入ってきた後ろのものがひとつだけ。
 先輩を押しのけてまで出て行くのもためらわれて、どうしたものかと目を伏せた時に気付いた。
 いつものように適当に着崩された紺色の制服から、なくなっているものがある。
 ネクタイじゃない。先輩がネクタイしてるのなんて見たことない。ジャケットの方だ。
 もしかして、これは例のアレだろうか……。

「ああ、これ?」

 視線に気づいた先輩が、かつてボタンがあった場所をつまんでひっぱった。
 二個しかないジャケットのボタンが両方消えている。

「気になる?」
「そうですね。先輩のボタンを欲しがるマニアックな子もいたんだなと」
「言うなお前……。ったく、可愛くねえな」

 自分でもそう思います。
 苦笑する先輩に向かって、僕は心の中で同意した。
 こんな日くらい、少しは素直になればいいのにと思わなくもない。これで最後なんだから。

「僕が可愛くてもしょうがないでしょう」
「ある。その方が、オレが嬉しい」
「…………」

 真顔で断言されても。なんだか今日の先輩はいやに強気だ。
 返答に困って黙り込んだ僕をよそに、先輩は左手を差し出してきた。
 握っていた手を上向けて、開いてみせる。

「ってワケで、受け取って」
「嫌です」
「即答かよ。だが残念だな! お前に拒否権はないんだ」

 とっさに両手を後ろに回そうとしたけど、その前につかまれた。

「要らないなら、捨てていいから」

 耳もとでささやかれて、束の間動けなくなる。その隙に素早く手のひらに落とされてしまった。
 校章の入った、二つのボタン。

「……わかりました」
 
 僕は渋々頷いた。
 本人がそう言っているのだから、ちょっと手を振って払い落してしまって構わないだろう。
 そしたらあっという間に転がって、ごちゃごちゃ置かれた備品にまぎれて、二度と見つからなくなる。
 いや、備品を取りに来た生徒の誰かが何かのはずみで見つけるかもしれない。
 でもその誰かも、わざわざこんなものを拾ったりはしないか。
 新品ならともかく、くたびれて小さな傷が入ったボタンなんて―――。

「捨てないのか?」

 手のひらのボタンを見つめたまま動かない僕に、先輩が静かに尋ねる。
 さっきみたいに即答することが、何故か出来なかった。こんなもの少しも欲しくないのに。

「ここで、というわけには。かといって、家に持ち帰ってからっていうのも……。ああそうだ。川に流すとか? 灯篭流しみたいに。あれって後で回収してるんでしょうか。今、環境問題うるさいですし」
「そこまでして捨てなくてもいいんだぞ」

 見透かすように言われて、カチンときた。
 
「押しつけって言うんですよ、こういうの。返します。謹んで返却します」
「だめ。返却不可」

 ボタンを握った手を先輩に向かってつきだしたら、先輩はさっと後ろに下がって笑った。 
 
「持ってろよ。オレさあ、好きな子にボタン下さいって言われんの、夢だったんだよ」
「昭和の乙女ですか、先輩。それにコレ。ボタン二つじゃなくて、第二ボタンだったと思うんですが」
「このジャケット、元々ボタン二個だろ。それで第一も第二もないなと。だからまとめて二個にしてみた」

 その方がお得だろ? とは言わなかったけど先輩の表情が語っていた。
 乙女なんだかアバウトなんだか。こういうところは先輩らしいなと思うけど。

「何笑ってんだよ。つーか、突っ込むのはボタンの数だけか?」
「他に何か。先輩が意外と乙女だったことですか」
「乙女じゃねえ! 卒業式のロマンだろ、浪漫! じゃなくて。人の告白スルーすんなって言ってんのオレは」
「…………」
「もしもーし。何か言えよ、こら」
「やっぱりこれ、返します」
「ああっ!?」

 避けられる前に、素早く先輩のブレザーのポケットにボタンを入れてぱっと離れる。
 逸らしそうになる顔をぐっと堪えて、先輩の目をまっすぐ見て一息で告げた。

「形に残るものなんて持ってたらいつまでも忘れられなくなりそうで嫌なんです」
「忘れる必要なんてないだろ」
「ありますよ。新天地に旅立つ先輩のことなんて、一刻も早く忘れたいんで。先輩のことだから……きっとすぐに誰とでも仲良くなって、楽しい新生活を送ってるでしょうし」

 ああ言ってしまった。こんなガキっぽいこと言わないで済むように、ここでひっそり時間つぶしてたってのに。台無しだ。
 いいや、もう。どうせなら全部言ってしまおうか。最後なんだし。

「ボタンなんか要りません。留年して下さいよ、先輩」

 目を丸くする先輩が見られたんだから、こんな情けないことを言った甲斐もあったというものだ。

「お前って、そういうキャラだったのか?」
「そうですよ。呆れましたか」

 本当はずっと嫉妬していたんですよ。先輩のクラスメイトに。先輩の同学年の人たちに。
 なんで僕はあと少し、早く生まれてこなかったんだろうか。
 一歳違いと言っても、先輩と僕は誕生日なんか一ヶ月も違わないのに。学年の区切りのせいで自分は『後輩』だ。
 どうしようもないことだとわかってても、理不尽だと思う。
 同じ学内、階が上下に分かれてるだけでもそんなことを思っていた。
 なのに、これからは移動するのに飛行機が必要なくらい物理的に離れてしまう。無理だ。
 自分に遠距離恋愛が出来るなんて到底思えない。

「……いや。驚いただけ」

 先輩はニヤッと笑って、何も握られていない手を伸ばしてきた。僕の胸もと目がけて。

「片手だと難しいな」
「せ、先輩? 苦しいんですけど……」
「悪い。触るの久々で、勝手が……ああ、取れた」

 嬉しそうに笑う先輩の手の中には、たった今まで僕の首にきっちり締められていたネクタイがあった。
 この流れで、何故ネクタイを強奪されるんだ?

「じゃあ、卒業祝いにもらってくな」
「なんでそうなるんですか。僕はまだ後一年はこの学校に通う予定なんですけど」
「ネクタイなくても問題ないだろ。オレなんて一年の二学期にはもうどっかいってたぞ」
「たしかにウチはその辺ゆるいですけど。僕はしてないと落ち着かないんです。返してください」
「嫌だね。オレのボタン受け取らないんなら、お前のネクタイはよこせ。落ち着かない? それは願ったりだ。襟元が落ち着かないって思うたびに、オレのこと思い出せよ」

 くるくると手首にネクタイを巻いて、先輩は腰に手をあて胸をそらした。
 あれは絶対、ネクタイの締め方忘れてるな……。

「来年の春、一年経ったら取りに来い。その時返してやるよ」
「先輩、無茶苦茶……」

 一年経ったらそのネクタイはもう要らなくなるんですが。
 おまけに『取りに来い』って。何で僕が追いかけてくること前提なんですか。しかも人の進路勝手に決めないでください。
 それに今まで外面つくろって一応イイ後輩やってましたが、実は相当ウザイですよ僕。
 メールの返信一日経ってからが基本の先輩に、一時間ごとに送り付けかねないくらいなんですよホントは。
 言いたいことは色々あったし、言わなきゃいけないことも色々あった。
 だけど何を言えばいいのかわからず黙り込む僕に、先輩は思ってもみなかったことを口にした。 

「このくらい言わないと、自己完結されそうだからな。オレのこと好きなくせにあっさり忘れようとするし。極端なんだよ、お前。卒業するオレの門出を見送らないで、オレと初めて会った場所にこもってるって。どうなんだそれ」
「お……覚えてたんですか?」
「じゃなきゃ探し当てらんないだろ、こんなとこ。崩れ落ちそうになったダン箱を支えて固まってたお前の姿が昨日のように目に浮かぶわー。あとで一緒に積みなおしたの、あの辺だっけ」

 先輩がちらりと目をやった場所には、綺麗に積まれた段ボール箱の山があった。
 担任に過去の問題集を持ってくるよう言われて、ここに来たのは入学してまだ間もない頃だった。
 段ボール箱にマジックで『数一過去問』って書いてあるからすぐわかると言われたそれは、絶妙に積まれた段ボール箱タワーの真ん中にあった。
 今思えば、上のをどけてから取ればよかったんだけど、さっさと用事を済ませたかった僕は目的の箱だけを引き抜こうとして、頭の上にずり落ちてきた結構重症のある箱を支えて身動きが取れなくなってしまったのだ。
 その時、たまたま通りかかって助けてくれたのが先輩だった。
 だが、それがきっかけで先輩と親しくなったわけではない。
 そのだいぶ後、秋の学祭の実行委員になって、一緒に大道具を担当したのが先輩と親しくなった直接のきっかけだ。

「学祭の時何も言われなかったので、てっきりもう覚えてなかったんだって……」
「忘れるかって。お前、あの時すっげー静かにパニクってたよな。オレ見て縋るような目したじゃん。アレ見てなんかゾクッときたんだよなー」
「してませんよそんな目。てかそんなこと考えてたんですか、先輩」
「うん、そう。呆れたか?」

 茶目っ気たっぷりに言われて、思わず笑ってしまった。

「……いいえ。驚いただけです」
「そうか。だったら問題ないな」

 手首に巻いていた僕のネクタイを自分の首に引っ掛けて、先輩は満足そうにうなずいた。


Fin.


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