栗より甘い……
一枚の葉が風に吹かれてはらりと木から離れ、ベンチに腰掛けた少年の文庫本の上に着地した。
少年は木の葉をつまみあげ、顔をあげてふっと息をかけて吹き飛ばす。
赤い葉はふわりと舞って、地面に降り積もったたくさんの落ち葉にまぎれてしまった。
(この辺のヤツじゃないよなあ……)
飼い犬のマリーを連れていつもの公園を歩いていた浩太は、落ち葉の行方を眺めるふりでこっそり少年の横顔を眺めた。
少年の視線はもう本の上に戻っている。彼は昨日も一昨日も同じ場所で、文庫本を読んでいた。
この公園はちょっとした広さを誇るが、周囲は閑静な住宅街で地元の人間以外がわざわざ訪れる程の場所でもない。
少年はこの界隈の子ならほとんどが通っている学校でも見たことのない顔だ。
最近引っ越してきて、離れた私立にでも通っているのだろうか。
気になるのなら、声をかけてみればいいだけなのはわかっている。女の子ならともかく、浩太と似たような年の男なのだ。
いきなり話しかけたって、警戒はされないはずだ……たぶん。
そう思っていながら実行できないのは、白いシャツに淡いクリーム色のカーディガンを羽織り、プレスの効いた紺色のズボンをはいた少年があたかも一枚の絵画のように周囲の風景に溶け込んでいて、うかつに邪魔をしてはいけない気持ちにさせるからだ。
ああいうのを、静謐な、とか言うんだろう。
大体、膝の上にあるのがスマホでもゲーム機でもなく、文庫本って。
カバーがかかっていて何の本なのかわからないが、落葉樹のそばのベンチで、静かにページを繰る少年は、浩太とは生きる世界が違うんじゃないかという気にさえさせる。
うっかり話しかけたら、消えてしまいそうな……。いや、いくらなんでもそれは大げさか。
「ワン、ワンッ!!」
気がつけばほとんど立ち止まっていた浩太に、何をしているんですかとマリーが抗議の声をあげる。
「わっ! ばか、マリー! 静かに……」
慌ててなだめようとしたら、遊んでもらえると思ったらしくマリーはしっぽをさかんに振って、余計に吠えはじめた。
しかも勢いよく足にじゃれつかれて、後ろに滑って尻もちをついてしまった。
「いって……。おい、マリー。もうちょい加減しろよなあ」
「クゥ〜ン……」
つぶらな瞳で、マリーが申し訳なさそうな声で鳴く。こんな顔をされると、浩太はそれ以上強く出られない。
もちろんマリーもそのことをわかっているのだ。
しょうがないなあと耳の後ろをわしゃわしゃ撫でると、マリーは浩太の顔を嬉しそうにぺロぺろ舐めた。
「マリーって言うんだ。きみの犬?」
「へっ……? あ……はい、そうです。マリーは俺の犬です」
ベンチの少年が、こっちをじっと見ていた。
まさか彼の方から話しかけてくるとは思ってなくて、返事をするまでに妙な間が空いてしまった。
おまけに下手な英文和訳みたいな言葉づかいになってしまう。
これだけ騒がしくしてしまったら無理もないが、いつから見ていたんだろう。恥ずかしい。
「なんで敬語? 同い年くらいだよね。まさか、小学生?」
「や……中二、だけど」
「じゃ、やっぱり一緒だ」
少年はベンチから立ち上がって、浩太の方へやってきた。
文庫本は閉じてベンチの上に置いている。黄色い栞がページの間からのぞいていた。
「ふさふさで可愛いね。何ていう犬種?」
まだ尻もちをついた格好の浩太のそばに、少年は同じようにしゃがみこんで、浩太を……じゃなく、マリーを見て、尋ねた。
「何の犬種ってのは……雑種だから。あ、でもゴールデンの血は入ってるって聞いたような。よくわかんないけど」
「ああ、ゴールデンレトリバー? うん、言われてみるとそんな感じ。くりっとして優しい目だね」
「ワンッ!」
マリーがその通りです、と言わんばかりにひと声吠えた。しっぽがぱたぱた揺れている。
浩太は苦笑してマリーの背中を撫でた。
「でも、この目が油断ならないんだ。じいっと見つめられたら、怒れなくなっちゃうし」
「だから転ばされても、笑ってるんだ?」
やっぱり、見られていた。
気まずさで今頃のように火照ってきた首筋に、誤魔化すように手をそえた。
「あー……、飼い主としては、もっと、ビシッっとしなきゃいけないんだろうけど」
ちょっと恨めしい思いでマリーを軽く睨むが、マリーはしっぽを振るばかりだ。
構って構って! 全身で訴えてくるマリーの願いを、このままずっと叶え続けるわけにもいかない。
じゃれつくマリーをどうにかなだめ、浩太がようやく立ち上がった瞬間、どきりとする言葉が耳に飛び込んできた。
「大好きなんだ」
膝を抱え、しゃがみこんだままの少年が浩太を見上げ笑っている。
屈託のない、澄んだ秋の空のような笑顔だ。浩太はポカンと口を開けて固まってしまった。
大好きって? 誰が? 誰のことを……?
だが、ワンッとマリーがひと声吠えて、束の間の呪縛はすぐに解けた。
マリーの頭を――ありがとな、と心の中で礼を言って――撫で、
「……もちろん、マリーのことは大好きだよ」
どうしてだか、どぎまぎする心臓をなだめながら、なんでもない顔で答えた。
マリーはぱたんぱたんと大きくしっぽを振って、つぶらな瞳で浩太を見上げていた。それは、当然ですよ! と言っているようにも、礼には及びませんよ、と言っているようにも見えた。
「子犬の頃から俺が面倒みてきたし……なんかもう、妹みたいな感じ? つか俺ホントの妹もいるけど、本物の妹の数段可愛い」
「それ、本物の妹聞いたら怒るんじゃないの」
「いーんだよ、本当のことだし。あいつ最近、マジ生意気で可愛くないし。マリーの方がずっと可愛いよ」
「ふうん、そっか……そういうものなんだ。妹の方が絶対いいって思ってたけど、一概にそうとも言えないんだね。僕なんか………、あっ!」
少年はハッとした顔をして、言いかけた言葉を止めた。かと思うと、急に立ち上がって、出口に向かって駆けだした。
引きとめる間もなかった。浩太はただ呆然と遠ざかる彼の背中を見送った。
一体、どうしたのだろう。急用でも思い出したのだろうか。
「あーあ。もうちょっと……」
話してみたかったな。
浩太は名残惜しい思いで、ため息と一緒に残りの言葉を飲み込んだ。
たぶん浩太は彼の記憶の中で、公園でたまたま出会った犬の飼い主で終わってしまうのだろう。
いや、明日になったら忘れられてしまっているかも。
だって浩太は自分の名前も言っていない。少年の名前も聞かなかった。
マリーの事を聞かれた時、どうして一緒に聞かなかったのだろう。あんなに気になっていたのに。
苦笑いして散歩を続けようとした時、さあっと強く風が吹いた。梢がざわざわと音を立てる。
瞬きして目を向けると、木の葉がはらはらと舞い落ちていた。
それは誰もいないベンチの上にも降り積もっていた―――置き忘れられた、文庫本の上にも。
浩太は近づいて赤い落ちそっと葉を払いのけ、文庫本を手に取った。
「ワン!」
文庫本を胸に抱えたまま逡巡する主人に、マリーがせかすように吠えた。
昨日も一昨日もここに来たからって、明日も同じようにやって来る保障なんてどこにもない。
今なら、まだ間に合うかもしれない。いや、間に合わせてみせる。
リードをしっかり握り直し、浩太はマリーに声をかけた。
「マリー、走るぞ……!」
少年は拍子抜けするくらいあっさりと見つかった。
走る必要もなかった。公園のすぐ外にいたからだ。危うくうっかりそのまま追い越してしまうところだった。
「どうしたの…!?」
つんのめりそうになりながら止まった浩太を、少年が驚いた顔で見つめた。
急ブレーキをかけさせられたマリーも、不満げな顔で浩太を見ている。
浩太は目でマリーに目でスマンと謝ってから、少年に文庫本を差し出した。
「あ……! すっかり忘れてた! ありがとう……って言うか、ごめんね。話の途中で急に走っちゃって」
「いい、って。用事が、あったん、だろ……。俺は……その、ついで、だし」
「でも今、すごい全速力だったし、息もすっごい切れてるし……」
「ああ、おじちゃんもびっくりしたよ。弾丸みたいに坊主とワンコが走ってくるんだもんな」
「ワン!」
「ハハッ。このワンコは走り足りねえって顔してんなあ」
突然入ってきた第三者の声は、甘栗の屋台のおじさんのものだ。毎年この季節になるとこの辺りにワゴンカーで売りに来る。
ワゴンカーからはスピーカーで童謡のメロディーを流していて、この曲を聞くと甘栗を思い出すくらい耳になじんだものだ。
なじみ過ぎて意識したことがなかったが、さっき少年が急に走り出したのは、この曲が聞こえてきたからだろう。
その証拠に、少年は胸に甘栗の大きな袋を抱えていた。
「そうだ、甘栗食べる? 走らせちゃったお詫び」
「え……! いいよ! そんなつもりじゃなくて。そうじゃなくて、その……」
近距離ダッシュしたせいで起こった息切れはもう治まってきたのに、何故かまた動悸がする。
マリーがそんな主人を見上げて、ワン! と吠える。浩太は小さく息を吸い込んで、一気にしゃべった。
「俺は坂木浩太って言うんだ。君なんて名前……っ!?」
少年は浩太の勢いにきょとんとした顔をした後、はじけるように笑った。
甘栗屋のおじさんもびっくりしている。もっとも、おじさんが驚いたのは浩太の唐突な名乗りなのか、スピーカーの童謡をかき消すくらいの少年の笑い声なのか、どちらなのかわからなかったけど。
少年はひとしきり笑ってから、ようやく口を開いた。
「……そっか。お互い、名乗ってもなかったんだっけ。僕の名前は―――」
そこまで言って、少年は少し考える仕草を見せた。公園の中を指差して、にこっと笑った。
「あのさ、やっぱ、甘栗食べない? あっちのベンチで。これ、お姉ちゃんに頼まれたおつかいなんだ。去年知り合いにもらった、ここの屋台の甘栗がどうしてもまた食べたいって言いだしてさ。僕が代わりに遠征してきたんだよ。言いだすと聞かないんだウチのお姉ちゃん。
そのくせいつから売りに来るのかちゃんと知らなくてさ。おかげで三日も通い詰めるはめになっちゃったよ。
この本もゲームだと夢中になって屋台が来たのに気づかなくなるでしょって言われて、暇つぶしはこれでしなさいってムリヤリ持たされてさ。ようやく買えてほっとしたよ〜。
でね、少しなら先に食べてもいいって言われてるんだ。大量に買ったし。だから、気にしなくていいから……って、あれ? どうしたの、黙り込んで。もしかして、この後何か予定ある? それとも甘栗、苦手?」
心配そうに問われて、浩太は慌てて首を振った。
物静かに文庫本を読んでいた少年が、こんなにおしゃべりだとは思わなくて、ちょっと驚いただけだ。
どこで口を挟めばいいのか分からなかったというのもある。
「予定もないし、ここの甘栗は家族みんな好きだよ。クソ生意気なウチの妹も」
「ワンッ、ワン!」
「あはは、マリーも好きなんだね」
「うっ……。ホントはあんまりやっちゃいけないんだろうけど、つい……」
行儀よくお座りして、マリーがしっぽをぱたぱた振っている。
浩太が要らないと言っても、マリーはすでに栗をもらう気満々の姿勢だ。
あまりの遠慮のなさに赤くなった浩太が、コラ、マリー! と小さな声で叱っても、期待に満ちた目が返ってくるだけだ。
少年は朗らかに笑って、マリーの頭を撫でた。
「決まりだね。行こう。マリー、あっちのベンチまで我慢できる?」
「ワンッ!」
「あ……そうだ。公園の自販機にちょっと変わったジュースがあるんだけど、飲んでみる? おごるよ。甘栗だけだと喉つまるだろ」
「変わったのって、どんなの?」
「それは……って、ここで言ったら面白くないだろ。まあとにかく、飲んでみろよ」
賑やかにしゃべりながら、二人と一匹は並んで公園に向かった。
冷たい秋風が地面に落ちた枯れ葉を舞いあげ、甘い栗の香りがふわりと漂う。
浩太が少年の名前を知るまで、あともうちょっと―――。
Fin.
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