春なんて


「春なんて、永遠に来なければいいのに」

 ここ数日でだいぶ春めいてきた放課後の教室の陽気さえも恨めしく、俺は重いため息をつく。
 そんな俺の思いとは裏腹に、中庭には白いつぼみをたくさんつけた樹が日差しを浴びて心地よさそうに立っている。
 あれは、なんていう花の樹だっけ。
 そうだ、先輩が教えてくれたんだ。あれは、確か―――

「ハクモクレン、ずっとこのまま、つぼみのままでいてくれよ……」

 窓際の席でひっそりと呟いていたら、それまで黙々と黒板を消していた友人がくるりとこちらを振り返った。

「鬱陶しい」

 ひとこと言って、すぐにまた黒板消しを再開させる。
 特に背伸びせずとも、上のほうにまで楽に手が届いてるのがなんかムカツク。
 俺なんかさあ、かなり伸びあがらないと、あの角っこのあたり、手ぇ届かないんだよなー……じゃなくて!

「オイコラ。ひとが悲しみをこらえて春の訪れを嘆いてるっていうのに、なんだよその言葉! だいたい俺はなあ、お前が週番終わるの待ってるのであってなあ」

 非情な友人をなお糾弾しようとしたら、俺の言葉をさえぎって、彼はさらにざっくりと非道な言葉を告げた。

「別に待ってなんて、頼んでねえし」

 くっ……! 確かにそうだが! 俺が勝手に待ってるだけだけが!
 今日はめずらしく俺もこいつも部活ないし、たまには一緒に帰ろうかなーなんて思っただけで。
 だってさあ、このぽかぽかあったかーい日差しを浴びて一人家路についちゃったりなんかしたら、街のあちこちで否応なく春の足音を実感せざるを得ないわけで。
 こいつがいたら、そういうの気にしないでいられるっつーか、余計なこと考えなくて済むっつーか……ああそうですよ! 俺の都合ですよ!

「なんだよ……俺が待ってちゃダメないのかよう……」

 俺たち以外、他のクラスメートはみんな帰っちゃってガランとした1−Bの教室で、俺の情けない言葉は予想以上にはっきりと響いた。
 自分の耳に返ってくる、自分の声の力の無さにびっくりだ。
 机に突っ伏して半ば屍と化していると、頭上からそっけない声が降ってきた。

「駄目じゃない」

 顔を上げると、いつの間にか黒板を消し終わったらしく、小脇に週番の日誌を抱えた友人が立っていた。
 俺のひとつ前の席に座ると、何を考えているんだか、いきなり日誌で俺の頭をぱこんと叩いた。

「中身が詰まってない音がするな」
「………」

 あまりの言い様に反論する気も起きず、俺は下から眇めた視線を投げつけると、再び机に沈殿する。

「悪かったよ。ふざけすぎた。機嫌直せって」

 小さな子にするみたいに頭をくしゃくしゃ撫でられたが、そんなもんで俺のこの傷ついた心が直せると思うなよ……!
 って、思うのだが、友人の大きな手が頭を撫でるのは、実はちょっと心地いい。
 なんかこー、猫か犬にでもなった気分? 頭皮マッサージっていうの? や、俺は髪の毛ふさふさだけどね!
 などとしょーもないことを考えていたら、友人が耳をくすぐってきた。
 やっ、ちょっ、耳! 耳はダメだって耳は……っ!!

「あ、起きた」
「起きるわ! 耳さわんなよ! 俺が耳弱いの知ってんだろー!!」

 耳を押さえて起き上がると、友人はふてぶてしく笑っていた。

「無防備にオレの前に弱点をさらすおまえが悪い」
「なんじゃそりゃ。意味わからん」

 なんか今日こいつ、やけに性格悪くないか? いつもはこうじゃないんだけどなあ。
 気のせいか、ちょっとイラついてる……ような、いないような。

「意味わかんないのは、おまえの方だろ」

 あ。やっぱ、ちょっと怒ってる?
 愛想ないのは、割といつもなんだけど、それとはちょっと違うっぽい……。でも、なんで?

「永遠に春が来なきゃいいなんて。なに安っぽいありきたりなアイドルソングの歌詞みてーなこと呟いてんだよ。らしくないんだよ。平安貴族かっつーの」

 アイドルと平安貴族って、同列で語るものか? いやいや、突っ込みどころはそこではなく。

「しょうがだいだろ! 安いアイドルにも平安貴族にもなるっつーの。だって、春になったら、春になったら……!!」

 ああ、今のくだらないやり取りでちょっとだけ忘れていた残酷な事実がよみがえってくる。
 そう、春になったら、そうしたら―――。

「先輩が卒業しちゃうんだぞ……!!」

 口に出してしまったら、改めて俺の胸に現実が突き刺さってきた。
 春になったら、三年生は卒業する。それはもうわかりきった、逃れられない事実だ。
 わかってるけど、ちょっとばかし現実逃避するくらい、いいだろ。
 四月になったら、部室にはもう先輩の姿はない。その悲しい現実が遠ざかるなら安いアイドルにも雅な平安貴族にもなるよ俺は!
 なのに人の心、いや俺の心を知らない友人は、

「だから?」

 と、さくっと返してきやがった。そして、

「おまえの大好きな先輩が、卒業するのはわかってるよ。だったら実現不可能なこと湿っぽく呟いてる暇に、やることあるんじゃねえの? 言ってたよなあ、おまえ。今日先輩、部室に顔出すかもって。三年はもう自由登校だろ。今いかなきゃ、マジで次会えるのは、卒業式になるんじゃねえの?」

 淡々と、事実だけを並べた。
 よく覚えてたな、こいつ……先輩が今日学校来て、部室に寄るかもって言ったこと。
 先週ぽろっと口にした時は、聞いてるのか聞いてないのかわかんない感じだったのに。

「行ってこいよ。先輩が今日来るから、おまえ、わざわざ残ってたんだろ?」
「うう……っ」
「とりあえず、好きって。言うだけ言っておけば? 卒業式より今日の方がチャンスだと思うぞ」

 卒業式って結構バタバタするしな、なんて続ける友人の口調は、さっきとは違って柔らかいものだった。
 イラついていたのは、普段らしくない俺の態度で、つまりは俺のことを心配してくれていたんだろう。
 やっぱりこいつは、イイヤツだ。俺が見込んだ友人なだけある。
 入学式で意気投合。同じクラスになってから今日まで、部活以外の学校での時間をほぼ共に過ぎしてきた、一番の友人だ。
 口に出してはこっぱずかしくて言えないけど、俺の親友は間違いなくこいつだろう。
 もう本当に、心からそう思う。だけど。

「そんな簡単に言えるなら、こんなとこでぐずぐずしてるか、ばかー。他人事だと思ってさあ……。あっ、そーだ。おまえは? おまえはどうなんだよ? 俺に告ってこいって言うんなら、おまえも告ってこいよ。そうだ、一緒に告ろう!」

 「一緒にマラソン走ろうね!」って言う女子かよ俺、と心の中で自分に突っ込んだ。
 無茶言ってる自覚はある。でもこいつ、あんまり涼しい顔して正論吐くんだもん。
 人の心はそう簡単にはいかないんだよ……って、そういや俺、こいつが誰好きなのか聞いたことないな。
 俺は四月に部活勧誘で先輩の美しいお点前を見たあの日から、先輩本人には言えない先輩の美しさを折に触れ友人に語ってきたのだが、友人は俺の話を聞く一方だった。友人が誰を好きかはもちろん、どんなタイプが好みなのかも知らない。
 あんま色恋には興味ないのかな。一年近く一緒にいてそんなことにも気づかなかったとは、友としてどうなんだ、俺……。

「いいよ」
「ごめん、俺が悪かった……って、えっ? いるのおまえ、好きな子!?」

 密かに反省していたので、友人の返答をうっかり聞き逃してしまった。しかも間抜けなことに、ひっくり返った声で問い返してしまう。

「自分で聞いておいて、なんだよその反応。オレだって、好きなヤツくらいいる」
「あ、ああ、うん。そうだよな。あー、ほら、俺と違っておまえそーゆー話しないからさ。そういうこと興味ないのかなー、なんて……」

 何故かしどろもどろになってしまう。
 全然気づかなかったけど、一体誰だろう。同じクラスのヤツ……じゃないよな。どの女子とも当たり障りない感じでしゃべってるとこしか見たことないし。部活繋がりで、女子バスケの誰かとかかな。うーん文化部と運動部じゃ接点ないから予想つかないなあ。

「そりゃあ……おまえに話したって、しょうがないからな」
「えー、なんだよ、それ。さびしいこと言うなよー。おまえが話せば、俺ちゃんと聞くよ?」

 力になれるかって言われたら、微妙なところではありますが。聞くだけくらいなら!
 こういうのって、聞いてもらうだけでも楽になれるってとこあるじゃん。
 事実俺はこの一年、先輩トークをこいつに聞いてもらうだけで、救われてた部分があるわけで。

「そうだな。おまえはちゃんと、聞いてくれるよな」

 俺の言葉を聞いた友人は、どこか痛みをこらえるような、そんな苦い表情を一瞬見せた。でも、気のせいだったかもしれない。
 すぐにいつも通りの穏やかな声のトーンで、こう言ったからだ。

「おまえがどうしても、ふんぎりがつかないって言うんなら、オレも一緒に告白してやるよ。同じ相手じゃないから、正確には一緒ってわけにはいかないけど」

 確かにそれはそうだ。こいつも先輩が好きだったら困る!
 ……って、だったらどうやって一緒に告るんだろ。
 あれかな、俺が部室に向かうタイミングで、こいつは好きな子(だから、誰なんだろう?)を呼び出すとか……?
 俺が首をかしげていると、友人は何故かこちらに手を伸ばしてきた。
 右耳にかすめるように触れて、頭をつかむ。俺の顔をわずかに仰向かせたかと思うと、そのまま引きよせた。 
 形の良い鼻が近づいてくる。身を引こうとしたが、がっちり頭を固定されていて上手く動けない。俺は思わず目をつぶった。
 
「好きだ」 
 
 鼻はぶつからなかった。代わりに口に何かがふわっと触れて、すぐに離れていった。同時に、頭をつかんでいた手の感触も消える。
 目をあけると、いつもと変わらない顔で友人が笑った。

「ほら。次はおまえの番だ」
「え、ああ、うん」

 うながされて、俺はガタンと音を立てて席を立った。
 何か言うべき事がある気がするが、何を言えばいいのか分からない。

「早く行かないと、先輩、帰っちまうぞ」
「そ、そうだな……」

 反射的に立ち上がったものの、馬鹿みたいに突っ立ったままだった俺は、友人の言葉に再度うながされて動き出した。
 そうだよ。行くなら早くしないと、先輩と行き違ってしまう。
 なのにどうして、このまま行ってしまってはいけないような気持ちになるんだろう。
 教室を出る時、一度だけ振り返った。
 友人はぴらぴらと左手を振って、がんばれ、と声は出さずに口だけを動かした。


 大した時間はかかっていなかったが、俺が教室に戻って来た時、友人はまだ残っていた。
 もしかしたら先に帰っているかも……と思った、俺の予想は外れた。
 いや、一緒に告ろうって言ったの俺だし。結果も聞かずにさっさと帰ったりするようなヤツじゃないのは知ってるけど。
 さっきと同じ場所で、スマホや雑誌を見るでもなく、友人は窓の外を見ていた。まだつぼみの、ハクモクレンの樹のあたりを、ぼんやりと眺めている。俺が帰って来たのに気づいて、ゆっくりと視線をこちらに向けた。
 俺は小さく息を吸い込んで、結果を報告した。

「告ってきた。……先輩、他校に彼氏いるんだって」
「そうか」

 短く一言、そう頷くと、友人は席を立った。俺のカバンと、自分のカバンをまとめて持って、こっちにくる。
 週番日誌は見当たらなかったので、俺が部室に行っている間に職員室に持って行ったんだろう。

「帰るか」
「……だな」

 カバンを受け取って、俺は友人と並んで教室を後にした。
 一年の教室は二階なので、廊下を通って階段を下り、昇降口に向かう。大した距離じゃないので、お互い黙り込んだままでも、あっという間につく。
 並んで靴を履き替えながら、俺はちらりと横をうかがった。

「あのさあ……」

 口を開いてみたものの、どう続けていいものか迷う。
 さっき部室のドアを開けて先輩の姿を見た瞬間に、好きです! って潔く言った俺はどこいった。
 まあその後、『ごめんね、私、他校に彼氏いるんだ』って速攻玉砕したわけですが。
 でも先輩は、ありがとうって言ってくれた。
 それだけで、俺は胸がいっぱいになって、ああ先輩を好きになってよかったなあって思ったんだ。
 だから、俺も。何にも言わないままってわけには、いかないんじゃないかって。
 このまま、何もなかったことにした方がした方が、お互いのためにはいいのかもしれないけど、それでも―――。

「……してから、告るとか。順番、逆じゃね? 俺だからいいけどさあ、そうじゃなかったら、殴られてるよ、おまえ」

 口とついて出たのは、なんとも微妙な恨みごとだった。
 緩んでもいない靴ひもを結びなおし、立ち上がって隣の男を軽く睨む。
 友人は束の間、ぽかんとした顔で俺を見て、それからふっと真顔になった。

「じゃあなんでおまえ、殴らなかったんだよ」

 そう返すか。そうだよな。あの時、力いっぱい押しのけてもよかったのに、俺はそうしなかった。
 不意打ち過ぎたっていのあるけど、そうじゃなくて、それだけじゃなくて。
 俺はトントン、と靴を鳴らしてから、校舎の外に向かって先に歩き出す。

「ちゃんと聞くって、言ったし。殴ったら、聞けないだろ」
「……それだけかよ」

 追いついた友人が、どことなく呆れたように返した。
 くそっ、今からでも殴ってやろうか?
 いや待て、やりなれないことしても、俺の拳が痛くなるだけって気がするから、やめとこう。
 俺は根っからの文系だ。平安貴族にはなれても坂東武士にはなれないタイプだ。
 それに一発殴って終わらせるってのも、やっぱ、なんか、違うし。

「あのさ……」

 続きの言葉を考えないまま、またさっきと同じ言葉で呼び掛ける。
 俺が先輩に言われたみたいに、ありがとう、って言おうとして―――やめた。
 一瞬でも殴ろうかと思った相手に礼を言ってどうする。
 そうじゃなくて……口に出す言葉を迷う俺の視線の先に、校庭の並木が映った。
 今はまだわびしい枯れ木状態だが、あとしばらくしたら、淡いピンク色でいっぱいになる、桜の木だ。
 入学式の時、あの下でクラス写真を撮った。その時も、こいつが隣にいたんだっけ……。

「なあ、春休みになったら、花見に行かねえ? 野点してやるよ。俺の一年の成果をとくと披露してやろう」

 次に桜が咲くころには、先輩は卒業して、俺たちは二年になる。
 俺とこいつが一緒のクラスになるかどうか、現時点ではわからない。
 別のクラスになっちゃったら、今みたいには、つるんでいられないかもしれない。
 やべー、全然考えてなかった。俺、一度にいくつものこと考えられないタイプなんだよな。

「春なんて、永遠に来ない方がよかったんじゃないのか?」
「そうだけど。30分前の俺にとってはそうだったけど。絶対来るってわかったから、楽しまないと損だってことに気付いたんだよ。だって俺たち、次またクラス同じかどうかわかんないんだぞ。今のうち一緒に遊んどかないと、もったいないだろ! 部活休みの日ちゃんと空けとけよ……って、あれ? おい、なんでおまえ笑ってんだよ」

 くすくす、なんて可愛い笑い方じゃなく、涙浮かべるくらい笑うってどういうことだ。しかもしゃがみこんでって。
 脇腹を押えてようやくといった感じで笑いを抑えた友人は、悪い、とちっとも悪そうには見えない顔で謝って、座り込んだまま俺を見上げた。

「おまえ、オレと、これからも一緒にいるつもりなんだって思ったら………嬉しくて」

 ぽつりと、最後の一言は地面に向かって語りかけるように言った。
 おい、そこは俺の顔見て言う台詞だろ。

「そんなの、当たり前だろ」

 俺は友人の腕をつかむと、勢いよく引っ張って立たせた。反動で後ろに転びそうになったのを、友人が俺の背中に手をまわして素早く支えた。
 半分だけ抱きあってるみたいな、そんな中途半端な態勢で、俺たちはしばし無言で見つめあった。
 微妙な沈黙に堪えられなくなったのは、俺の方が先だった。

「失恋したばっかなのに友達まで無くしたら、俺がかわいそすぎるだろ」
「………友達………」

 うっ。そうか、こいつにとっての俺は、友達枠じゃないことになるのか……?
 でも俺、今日まで、こいつのこと気の置けない一番の友達って枠でしか考えたことないし。

「あー、そっちはさっき聞いたばっかだし、これからちゃんと考える。考えるから、勝手に俺との付き合いフェードアウトさせんなよ!? おまえ俺が何も言わなかったら、そのつもりだったんだろ……」

 俺は今さらのように気づいた。言うだけ言って、俺からの返事を何も求めなかったのは、だからなんだ、と。
 なんだよそれ、ちくしょー。不意打ちでキスされたことよりムカつくぞ、それ。

「おまえに嫌われてまで、そばにいたくない」
「嫌わないし! つかなんで嫌うの前提なんだよ。そりゃ、びっくりはしたけど、それだけで、むしろ……」

 むしろ、なんだ……?
 言いかけて途中でやめた俺を、友人はじっと見つめている。やめろ! 穴が開く!!

「とにかくだ! どうしても春が訪れるのなら俺はおまえと一緒に満喫することにしたんだよ! わかったか!?」

 向かい合って立ったら、少々上の位置にくる友人の顔を見上げて早口でまくし立てた。
 俺の勢いに驚いたのか、友人は軽く目を見張ってから、口元をゆるめる。

「支離滅裂だな……。うん、でも、いいや、それで。おまえがそうしたいんなら。オレもそうする」

 俺の背中に添えたままだった手を引きよせて、友人は俺をぎゅっと抱きしめた。
 ここ、まだ学校なんですけど……。ちょっとだけ、そう思った。
 でもすぐに、まあいっか、と俺も友人の背中に手をまわした。
 訪れる春をこいつと楽しむって、決めたんだしな。


Fin.

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