鼓動〜『073: 不思議な言葉』前日談〜
兄貴だ。
よく見知った後ろ姿を雑踏でみかけて、オレは駆け寄ろうとした。
でも、すんでで踏みとどまった。
一人じゃなかったから。
兄貴の隣には、同じ高校の制服を着た女の子がいた。
頬を染めて、隣に立つ背の高い兄貴を見上げて、何かしゃべっている。はじけるような笑顔。
遠目に見ても、それは可愛らしい―――彼女、だった。
(なんだよ、ソレ。聞いてない……)
心臓が一瞬、ぎゅっと掴まれたように痛んだ。
なにそれ。知らない。聞いてない。
体の奥から、何か得体のしれない、真っ黒なものがどろどろ渦巻いて、吐きそうだった。
だけど頭のすみっこは冷えていて、そりゃそうだよな、と思っていた。
兄貴は弟のオレの目から見てもカッコイイし、彼女のひとりくらい、いるだろう。当然。
そしてそれを、いちいち弟に報告する義務もない。わかってる、ちゃんと。
わかってるのに、なぜか、裏切られたって思った。
だって、兄貴の一番は、いつだって、オレだって、思ってたから。
激しく高鳴っていた鼓動が、だんだんゆっくり、いつもと同じリズムを刻みだす。
オレはくったりと、兄貴の胸にもたれた。
兄貴はティッシュでオレのもので汚れた手を拭いて、無造作にくずかごに投げた。
狙い通りにまっすぐと吸い込まれていく。
いつもならそこで―――自慰を手伝ってもらった気まずさもあって―――そそくさと部屋を後にするんだけど、今日はなんとなく離れがたくて、そのままぴったり兄貴に抱きついた。
下から兄貴の顔を覗きこんだら、目があって、ふわっと微笑まれた。
「どうした? 今日はずいぶん、甘えただな」
そう言って、頭をなでてくる。
普段なら、もう小さな子じゃない、中学生なんだから、とその手を振り払うんだけど、黙って撫でられていた。
オレが何も言わないからか、兄貴は微笑をひっこめて、怪訝そうに顔を覗き込んでくる。
「マジで、どうした? 具合でも悪いのか?」
心配をかけるのは本意じゃないので、オレは兄貴にもたれかかったまま、重い口を開いた。
「そうじゃない。そうじゃなくて……」
昼間、一緒に歩いてた女の子って、兄貴の彼女?
たった、それだけ。
尋ねたら、兄貴はあっさりと答えてくれるだろう。そうだよ、と。
「兄貴は……」
いやだ。
そんなの、兄貴の口から、聞きたくない。
兄貴が、オレ以外のだれかのことを、大事そうに話すところなんて。
「兄貴は、オレのこと、どう思う?」
口から出たのは、全然違うことだった。
言ってから、ごめん、今のナシ! って叫びたくなった。
そんなこと聞いて、一体どうするって言うんだ、オレ。
案の定、兄貴は目を丸くしてちょっと驚くと、それから笑った。
「好きだよ。一番大事。たったひとりの、俺の可愛い弟だからな」
優しい口調でそう言って、またオレの頭を柔らかく撫でる。
聞きたかった言葉のはずなのに、オレはもっと、聞きたくなった。
ほんとに?
ほんとに、オレが一番大事?
昼間一緒に歩いてた、隣の可愛い女の子より?
そう尋ねたら、兄貴はなんて答えるだろうか。
聞きたい欲求が、口から飛びだしそうになるのを、オレは小さく唇を噛んでやり過ごした。
努めてなんでもなく、さりげなく聞こえるよう、あえて軽い感じでオレは答えた。
「オレも……、オレも、兄貴のこと、好きだよ。たったひとりの、オレの大事な兄貴だからね」
「そっか。じゃあ、両思いだな」
その言い方、なんかおかしくない?
笑って突っ込もうと思ったのに、なんでだか、出来なかった。
代わりに、背中に腕をまわして、ぎゅっとしがみついた。
トクトクと、少し速い音が聞こえる。
おさまったと思った心臓の音が、また高鳴りだしたんだ。
……いや、違う。違わないけど、違う。
これ、オレの心臓の音じゃなくて、兄貴の心臓の音だ。
兄貴の鼓動も、俺と同じくらい、速くなって、ドキドキしてる。
なんでかな。
わかんない。
わかんないけど、でも―――。
「なんだよ。ほんとに、今日のひとみは甘えっ子だなあ」
そう言って、兄貴がオレの背中に手をまわして、ぽんぽんって優しく叩くから。
もうなにも、それ以上、考えなくてもいいんじゃないかって思う。
目を閉じると、なじんだ兄貴の体温と、匂いに包まれる。
昼間見た、頬を染めて笑う女の子の姿が眼裏にぼんやりと映って、すぐに遠くなって、やがて消えていった。
Fin.
Fin.
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