降水確率80%
「降ってきたな」
朝からどんよりと曇っていた空を窓際の席から見上げて、俺はつぶやいた。
もしかしたら、このまま家に帰り着くまで、持つんじゃないかと思ったけど。
「そりゃ、そうだよ。降水確率、午前中60%、午後は80%だったし」
つぶやきが聞こえたのか、右斜め後ろの席から声をかけられた。
俺は振り返って、まだ教室に残っていた室井に答えた。
「でもそれって、午前中は40%、午後は20%降らないってことだろ」
「確率的にはそうだけど……。降る可能性のが高いって。何? まさか、北川、カサ、忘れたとか」
まさかね。
朝から思いっきり曇ってたし。
言わなかったけどそんな感じの、反語調で問われた俺は苦笑しながらうなずいた。
「うん。忘れた」
「ウソ。マジで?」
「うん、マジで」
まじめに答えると、室井はあきれた顔で俺を見た。
まあ、確かに。
梅雨前線停滞中で、体育はもれなく体育館、みたいな季節にカサ忘れたとか、ないよな、フツウ。
「………どうするの?」
降り始めは小降りだった雨は、ちょっとしゃべってる間にもザアザアと――こういうの、篠突く雨、とか言うんだっけ――激しく降ってきていた。
俺は雨で霞んで見えにくくなったグラウンドにちらっと視線をやってから、室井に向かって肩をすくめた。
「濡れて帰るさ。別に、今の季節、ちょっと濡れたからってなんでもないだろ」
机の上のカバンを取って肩に掛け、すっかり人が少なくなった教室の、開きっぱなしのドアへと足を向けた。
途中、なにお前、カサ忘れたの、ダサー! なんてまだ帰ってないヤツらに突っ込まれながら。
「北川……!」
教室を出ようとしたところで、室井に呼び止められた。
「なに?」
立ち止まって振り返ったら、こっちを見ていた室井と目が合った。
室井は俺を見て、口をあけて、何かを言おうとして……結局何も言わずに口を閉じた。
「室井。お前、部活あるんだろ。早く行けよ」
「あ……、うん」
「じゃあ、またな。ばいばい」
返ってくる言葉は待たずに、俺はさっさと教室を後にした。
一応俺も部活やってるけど、今の季節、グラウンドがメインの運動部(ちなみに陸上部だ)は、体育館が使えないときは自動的に休みになる。
廊下使ってダッシュしてるヤツもいるけど、俺はそこまで熱心じゃない。
先輩も特にうるさく言わない……というか、雨の日の体育館練習自体に先輩あんま来ないしな。
そろそろグラウンドが恋しいので、早く梅雨明けしてほしい。
下駄箱に上履きを突っ込みながら、俺は心からそう思った。
いい加減洗わないとヤバイ靴を、片足履いたところで、後ろから声がかかった。
「北川」
デジャブ。
ってか、さっきとまったく同じ。
右足を靴に突っ込んでから、横を見る。
そこにいたのは、さっき教室で別れたはずの、室井だった。
「なに?」
やっぱりさっきとまったく同じやりとり。
室井は下駄箱で急いで靴を履きかえると、カサ立てに走って、青いカサを持って戻ってきた。
「こんなに雨降ってるのに、濡れて帰るの、よくないと思う。夏カゼ、とか……」
カサを両手でぎゅっと握って。
続きの言葉を待ったけど、室井は急に口が重くなって、うつむいてしまった。
しかたないので、俺が続きを口にする。
「カサ、入れてくれんの?」
室井はパッと顔を上げて、こくこくとうなずいた。
なんかやけに必死で、思わず笑いそうになったのをぐっと堪えた。
「サンキュ」
下駄箱でやり取りしているうちに、今度は少し小降りになっていた。
雨が他の音を吸収してしまうからなのか、通学路はいつもよりしんとしていた。
俺と室井の並んだ足音が、水をはじく音とともに響いて聞こえる。
「……カサ。もっと、そっち寄せたら。室井、肩、濡れてる」
「けど、そしたら、北川が濡れちゃう」
身長差あるから、室井は背を伸ばして俺の方にカサを差しかけている。
肩が濡れてるだけじゃなくて、歩きづらそうだ。
俺は室井の手からカサを奪うと、腕をつかんでこっちに引き寄せた。
「わっ……!」
「おっと」
びっくりしたのか、たたらを踏んだ室井の肩をとっさにつかむ。
水がはねて、制服のズボンの裾が濡れた。
「悪い。大丈夫か?」
顔を覗き込んで尋ねたら、室井はぽかんとした顔で見上げて、それから慌てて俺から離れようとした。
「だ、大丈夫だから……! ち、近いって、離れろって……っ!!」
そう言われると、逆に離したくなくなるのが人情だと思う。
俺はがっちりと室井の肩に腕を回すと、くっついたままで歩き出した。
「き、北川……!?」
「この方が濡れないだろ」
「そ、そうだけど、これはちょっと……」
「それよりさあ、室井は部活、出なくてよかったの?」
俺は強引に話題を切り替えた。
室井は天候に左右されない、美術部員だ。
雨が降ってても、グラウンドと違って、当然美術室は使える。
室井は目をそらすと、もごもごと言った。
「あ、雨の日は、絵の具の乾きも悪いし、筆も乗らないし……だから今日は……」
「サボリ?」
「う、うん」
室井って、どっちかって言うと鉛筆デッサンのが多くなかったっけ?
小学生のときから絵が上手かったけど、スケッチブックに鉛筆で描いてることの方が多かった。
美術室の隅においてある描きかけの絵も、確かそうだった気がする。
そう突っ込もうと思ったけど、やめておく。
もしかしたら新しい絵は、水彩とか油彩とかで描くつもりなのかもしれないし。
だけど、こっちは聞いておきたい。
俺は視線をそらしたままの室井の伏せたまつげを見ながら、言った。
「……室井さあ。ロッカーに置きカサしてたよね。折りたたみ。あっち、貸してくんないかな〜って、思ってたんだけど」
「あ、あれは……」
室井がロッカーから辞書出してたときに、見えて。
いつもそれ置いてんの? って聞いたら、うん、って。
そういうとこ、用意いいんだよな、室井って。小学生のころから。
「か……、貸したんだ。北川のほかにも、カサ、忘れたってヤツがいて!」
室井はちょっと詰まって、それから早口で答えた。
「ふうん。そうなんだ?」
「そう、そうなんだよ。さすがに、2本も置きカサしてなくてさ。だから、貸せなくて……ごめん」
その声は次第に雨にかき消されそうなくらい、小さくなった。
ぴったりくっついて歩いてるから、ちゃんと聞こえたけど。
こんな朝から曇り空で、梅雨前線停滞中で、午後からの降水確率80%の日に。
俺以外にも、カサ忘れたヤツ、いたんだ……?
だけどやっぱり、それも口にしない。代わりに、
「いや、忘れた俺が悪いんだし、室井が謝ることないだろ。人をあてにした俺が悪いんだし?」
軽い調子でこう言った。
まあ、事実だからな。
「そ、そうだよ! 大体、こんな日にカサ忘れてくるなんて、うっかりにも程があるだろ。天気予報くらい、ちゃんとチェックしなよ」
室井は俺の言葉にようやく勢いを取り戻すと、顔をあげて言った。
至近距離で目が合うと、再び急いで視線を反らされてしまったが。
俺は隣に見えないように小さく口元だけで笑うと、隣にだけは届くくらいの声でつぶやいた。
「天気予報くらい、ちゃんとチェックしてる」
「………え?」
問い返すようにこちらに顔を向けた室井が、また視線をそらさないように、少し湿った髪に手を添えて。
「たまには、一緒に帰りたいじゃん」
室井は驚いたように目を丸くして、俺を見上げた。
小学生のころはいつも一緒に帰ってたのに。
中学でもせっかくまた同じクラスになったのに、部活違うからか、ちっとも一緒に帰れなくて、つまらない。
「雨の日くらい、もっと俺を構ってよ。ちーちゃん」
肩をくっつけて、甘えるように耳元でささやく。
20%の……いや、80%の確率で、絶対ちーちゃんは追っかけてきてくれるって、思ってたよ。
俺をびしょ濡れで帰させたりしないって。
「ちーちゃんって言うな。もう中学生だろ……」
ちーちゃんは顔を赤くして、俺をにらんだ。
そんなこと言ったって、たった3ヶ月くらいじゃ、何も変わらないと思うんだけどな。
Fin.
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