夏思う5題

03 海の中のこども

 人であふれかえっていた海は、日が傾くにつれて次第に閑散としてきた。
 日焼けした子供も、ビキニの女の子も、紫外線対策万全の大人も、みんな遊び疲れ満足した様子で帰って行く。
 夏樹もその群れに混ざって帰ってしまいたかったが、残念ながらそういうわけにはいかなかった。

「あと、それ片付け終わったらあがりなー」
「……ふぁい」

 畳んだパラソルを軽々と両腕に抱えた先輩に声をかけられ、かすれた声で返事をしたら、ぷっと吹き出された。

「なんだその面白い声。お前はどっかのゆるキャラか」

 ゆるキャラは基本的にしゃべりませんよと夏樹が力なく突っ込むと、そういやそうだなと先輩は愉快そうに笑った。
 学部の先輩に頼まれ、急きょ海の家のバイトを一日こなした藤川夏樹はすっかりへばっていた。
 まさか海の家のバイトがこんなにハードだったとは思ってもみなかった。
 普段のバイトが空調の効いた教授のゼミ室で事務手伝い。夏期休暇に入ってからはアパートでただ暑さをやり過ごしていただけ。そんなインドア大学生には、炎天下の浜辺で朝から夕方まで働くのは想像以上のものだった。
 少なくともお世辞にも体力があるとは言い難い文系学生が『なんか楽しそう』くらいの軽い気持ちでやるバイトじゃないことだけは確かだ。
 代打が今日一日だけで本当に良かったと、夏樹は心から思った。
 焼ける砂浜の上を軽やかに往復しつつ、老若男女問わず客と陽気に接客トークまでしていた先輩が信じられない。
 同じ学部、同じ文系学生なのにこの違い。それとも、夏樹もあと数年経ったらこの先輩のように―――。

「無理だな」

 抱えると言うより抱きつくようにパラソルを運びながら夏樹がぼそりと呟くと、まだあと一仕事くらい楽にこなせそうな先輩がはつらつとした笑顔で聞きかえした。

「ん? どうした?」
「……先輩の偉大さに思いを馳せていました」
「なんだ、今頃気づいたのか。もっと褒め称えても構わないぞ後輩。……ってのは冗談として。マジであがっていいよ。店長にはオレから言っておくし」
「まだあっちの方、片付けてませんが」
「へろへろの後輩を鞭打つより、俺がちゃちゃっと行ってぱぱっとやった方が早い」
「すみません先輩、不甲斐ない後輩で……。あのう、ひとつお聞きしたいんですが、先輩は何故そんなに元気なんですか」
「慣れよ慣れ。オレこのバイト高校の時から皆勤賞だし。客多い時はきついけど、その分水着姿の可愛いお客さんともたくさんしゃべれて楽しいしな」
「そうですか……」

 夏樹もこのバイトを始める前は、少しはそんな風に思っていた。楽しい夏のアレコレ的な。だがそんな余禄は、夏の陽射しに瞬く間に焼きつくされてしまった。
 先輩の域に夏樹が達するには、ひと夏どころか、ふた夏海の家でバイトしても厳しい気がする。

(それより、寝たい……)

「おい、パラソル抱き枕にすんな。転ぶぞー」
「うわっ、す、すみません!」

 砂に滑って傾いたパラソルを、マジでバテバテだなと苦笑しながら先輩が横から支えてくれた。
 洒落じゃなく、気を抜いたらこのまま寝落ちしそうだ。

「気にするなって。無理言って来てもらったのこっちだしさ。店長も、助かったって言ってたよ。シフトミスなんて、若松さんも何年ここで海の家やってんだって。なあ?」

 若松とは、海の家の店長の名前だ。
 このバイト常連の先輩は店長ともかなり親しいようだが、夏樹は今日が初対面である。
 コメントしようがないんですがと思わず言いそうになったが、先輩の口ぶりがあまりに楽しそうだったので曖昧に笑って誤魔化した。

「だからもうこの辺で、あがっていいよ。そのパラソルもオレがまとめて片付けておくから」
「いえ、せめてこのくらいは最後まで」
「いいって、いいって」

 先輩はニヤリと笑って夏樹の言葉を遮った。視線だけをそっと動かして、それよりも……と思わせぶりに続けた。

「早く行った方がいいんじゃねえの。さっきからすっげー顔してこっち見てるぞー、あの子。藤川の知り合いなんだろ」

 先輩の視線の先にいたのは幼なじみの道秋だった。手持無沙汰に波打ち際に立っている。
 ラッシュパーカーからのぞく腕は、今日一日でずいぶん日焼けしたようだ。
 
(まだ帰ってなかったのか、あいつ……) 
 
 海の家でバイトすることになったと道秋にメールしたのが昨夜。
 おもちゃの金魚を持って幼なじみがアパートにやってきてから、三日後のことだ。
 すぐに俺も行きたいと返信が来て、たぶん相手は出来ないと思うがそれでもいいなら、と返しておいた。
 だから来るにしても誰か友達でも誘ってくるのだろうと思っていたが、道秋は一人だった。
 海の家にちらりと顔を見せた後、店が忙しそうなのを見て取ると「適当に泳いでくる」と元気に海に走って行った。
 道秋とは結局それっきり。休憩時間に暇を見て少しくらいなら泳げるんじゃないかと考えていた夏樹だが、そんな余裕も体力もなく、幼なじみが泳ぐ様子を遠目に眺めただけで終わってしまった。

「可愛いねえ。色んな意味で成長期って感じ? 数年後が楽しみだなあ」
「あの……念のため言っておきますが男ですよ」
「オレは浜辺のお客様を、そんな些細なことで区別しないタイプだから」

 にっこり笑って告げる先輩の真意がイマイチつかめない。
 この発言も、溢れるバイト愛からきているのか。それとも……。

「そんな警戒するなって。冗談だよ、冗談。オレの本命は若松さんだし」
「えっ、店長!?」

 眠気も疲れも一瞬吹き飛ぶ。店長はいかにも海の男といった感じのちょっと強面のオヤジ……いやたぶんまだお兄さんだ。先輩は目を細めて滔々と語った。
 
「藤川は店長の水着姿を見たことがないからな。あれは本当に―――いや、言わないでおこう。ライバルが増えると困るからな。まあそういうわけだから、オレは将来有望な少年の水着姿を愛でても、手を出そうなんて思ってないから。安心しろ」

 どこまでが冗談で、どこから本気なのか謎だ。しかし今は追求する気力もない。
 そもそも突っ込んでいいことなのかもわからないし。

「そうですか……その、わかりました。えーと、すみませんが、これ、お願いしていいですか」

 とりあえず夏樹は神妙にうなずいて、抱えていた片付け途中のパラソルを先輩に託した。

「おう、まかせとけ」

 先輩は快く受け取り、ついでにさらりと付け足した。

「じゃ、年下の彼氏と仲良くな」
「……幼なじみですが」
「えー。でもアレ、あっちはそう思ってないんじゃねえの」
「あー……、その、そう見えますか?」
「見えるねえ。って、何? 実はバイト先まで押しかけられて迷惑してるとか?」
「来ていいって言ったのはおれですから。それはないですけど……」
「けど?」

 軽く問い返されて、ここ数日迷っていた思いがぽろりとこぼれ落ちる。

「ずっと弟みたいに思ってきたから。どうすればいいのか、よくわからないんですよね」
「ふうん。微妙な関係なわけだ」

 ついこの間まで、彼女がいるものと思いこんでいた相手だ。
 距離を置こうと思って、初めて意識したと言ってもいい。
 どうやら向こうもからも好かれているらしいとわかっても、夏樹の中ではまだ道秋は可愛い弟分なのだ。
 簡単に気持ちは切り変わらない。道秋相手に今さらどうこうなんて、想像の範疇外だ。
 一応これまで通りにしているつもりだが、本当は少し気まずい。
 
「とりあえず、やってみたら?」

 とりあえずって、そんな即物的な。口にはしなかったが、内心の思いが顔に出ていたらしい。先輩はまあ待て、と真面目な顔つきで言った。

「弟みたいってのは、イコール弟じゃないってことだ。オレのこと牽制するくらいには気にかけてるし、気に入ってるんだろ。それにたとえ上手くいってもいかなくても、それでもあの子がお前の可愛い幼なじみだってことは、これからも変わらないんじゃねえの。だったら、思い切ってやっちゃうのも一つの手だと思うよ、オレは」
「それは……」

 距離を置こうと思っていた時でさえ、幼なじみを止めようとは――そもそも止められるようなものでもないが――思ってはいなかった。
 たとえ離れてしまっても、今まで築いてきた関係までもがどこかに消えてなくなったりはしないのだと、夏樹は漠然と信じていた。いや、過去形じゃない。今だってそうだ。先輩の言うことは確かに一理あるのかもしれない。

「あんまり考え過ぎんなって」

 パラソルを3本まとめて軽々と抱え直し、先輩は夏樹の背中を軽く押した。
 
 
「バイト、終わった?」

 夏樹が声をかける前に、気づいた道秋が駆け寄ってきた。そのまま並んで砂浜を歩く。浜辺にはもう数えるほどしか人がいなかった。

「ああ。終わったっつーか……おれがあんまりへばってたから、終わらせてくれた」
「大繁盛だったもんね、夏樹くんのバイト先。お疲れ様」
「悪いな、マジ全然構えなくて。休憩時間に少しは泳ぎたかったんだけどなあ」
「今からちょっと泳ぐ? まだ間に合うよ」
「いや……やめとく。今泳いだらヤバイ。体力エンプティーだし」
「そっか。じゃあ、帰ろうか。そこのバス停までだけど」

 ここからだと道秋の家へはバスと電車を乗り継がないと帰れない。
 夏樹のアパートとはバスの路線も全く違う。必然的に、一緒に帰れるのは海から近いバス停までになる。
 そうだなとうなずいてもよかった。でもそれじゃ、いつまでも座りが悪いというか、落ち着かないままだ。
 考え過ぎるなと言った先輩の言葉が頭をよぎる。
 夏樹は意を決して、カラカラに乾いた唇を舐め、進行方向に目を向けたまま努めてさり気なく口を開いた。

「帰るのか?」
「え……」
「アパート、寄ってかないのか」  
「今から夏樹くんのアパート寄ったら、俺、家に帰れなくなっちゃうんだけど」
「泊っていけばいいだろ」
「それ、意味分かって言ってる?」
「……たぶん」
「たよりないなあ」
「道秋が嫌なら、別に来なくても構わないけど」
「えっ! 行くよ、行きます。嫌なワケないよ。いつかは絶対、夏樹くんのアパート泊るつもりだったし。でもまさか、夏樹くんの方から言ってくれるなんて思ってなかったから。ちょっとびっくりした」
「まあな。おれも自分がこんなこと言うとは思ってなかった」

 休憩時間や雑用の合間に海に目をやると、波間の向こうに幼なじみの姿が見えるのが人であふれた中でも自然とわかった。不思議でもなんでもない。道秋は海に来ると、遊泳区域ぎりぎりまで泳ごうとするからだ。
 あの島まで泳ごうよ、なんて遊泳区域以前にどう見ても距離的に無茶なことを言って実行しようとしたのは、確か道秋が小学生で夏樹が中学生の頃だった。あの時も止めるのが大変だった。そんなことをふいに思い出し、夏樹は苦笑した。

「しかも、河童相手にな」
「なんでそこで妖怪?」
「お前、今日もこれでもかってくらい泳いでただろ。波かきわけてさ。あれは最早人間と言うよりも河童に近かった。や、河童って川にしか出没しないんだっけ? でも人魚って感じじゃないしな。平泳ぎする人魚なんて聞いたことねーし」

 砂浜から道路に通じる階段を上ると、バス停が見えてきた。行ったばかりなのか、バスを待つ人影はない。
 だから急がなくても大丈夫だとわかっているのに、夏樹は足早に歩を進めた。
 ほどなく人気のないバス停に着いたが、気づけば隣を歩いていたはずの幼なじみの姿がない。
 振り返ると道秋はまだのんびりと階段を上っているところだった。

「変わらないよね、夏樹くん。照れると、歩くの速くなるの」

 目が合って、幼なじみがくすりと笑った。
 体が熱い。やっぱり泳いでくるんだったと、夏樹は眼下に広がる海に目を逸らした。
 ぬるい潮風が頬をなぶる。バスはまだ、当分来そうになかった。


Copyright 2013 All rights reserved.