ハロウィンの甘い夢


 透明な糸が口と口の間をつたって消えていく。
 彼はわずかに開いた口からため息のように小さく息をはいて、とろんとした目でオレを見ている。
 そんな顔をさせているのが自分なのだと思うと、ぞくぞくする。
 もっと、もっと彼のいつもと違う顔を引き出して見たい。
 湧き上がってきた衝動に押されるように、オレは彼のシャツに手をかけた。
 一番上から順番にボタンをはずしていき、3番目まではずしたところで戸惑う声が降ってきた。

「な、なんで脱がしてんの……?」

 さすがにぼーっとしたまま、全部脱がさせてくれるわけはないか。
 4番目のボタンをはずしかけた手を止めて、彼に顔を合わせる。
 赤い顔は、どうやら怒ってはいないようだ。

「イヤ?」

 じっと目を見て尋ねると、耳まで赤い顔をそらして、もごもごと口を動かした。
 これだけ近づいていなければ聞こえないくらいの声で、彼は答えた。

「や……っていうか、こ、心の準備が……っ。展開早すぎっつーか……」

 キスは心の準備なく流されてくれたのに、それ以上のことは、そうではないらしい。
 その気持ちはわからないでもないけど、この状況で、じゃあ今日はここまで、というのは出来れば無しにして欲しい。
 狙ったわけじゃないけど、他の家族は出かけていて、夜まで帰ってこないという絶好の機会なのだ。
 もちろん無理強いするつもりなんてないから、どうしても嫌だと言われたら、あきらめるけど。
 でも、こういうのって。

「改めて心の準備した方が、かえって恥ずかしくないか?」

 こういうのって、そんな雰囲気になった時に流れでやった方がスムーズにやれそうって言うか……。
 それに、彼との付き合いは――もちろん、友人としての付き合いだが――オレが小5の時にこっちに来てから、高1の今日まで6年間に及ぶ。展開は早いと言うよりも、むしろ遅いくらいだと思うのだが。

「それは……そうかもしれないけど。で、でも、いきなり……も、もうちょっと、段階踏んでからでもいいんじゃない?」

 赤い顔でしどろもどろに言う彼は、普段のちょっと勝気な感じとは全然違って、なんかもう、食べたいくらいに可愛い。
 唇が濡れて艶々してるのも、壮絶に色っぽい。舐めたい。

「おい、何、笑ってんだよ?」

 すねた口調で言われて初めて、自分が笑っていることに気付いた。

「だって、あんまりおまえが可愛いから」
「は……? な、何言ってんの。目ぇ悪いんじゃねーの!?」

 あせった口調がまた可愛い。
 ヤバイ。何言われても、されても、可愛いってしか思えない。
 つくづく、末期だな、と思う。
 オレは今、すごく浮かれてるんだと思う。
 ずっと片思いだと思ってた相手が、白昼夢なのかパラレルワールドに紛れ込んだのかわからないが、とにかく奇妙な体験を通して、オレのことを好きだって、わかって。キスしても、逃げなくて。服のボタンも3番目までははずさせてくれて。
 これで、浮かれるなって言うのは無理だと思う。

「ずっと友達として付き合ってきて、お互い好きだってわかって、キスして。これ以上他に、何か踏まなきゃいけないような段階って、あるのか?」

 そっと手を握って、尋ねる。
 嫌なら、この手を振り払って、逃げればいい。そう、思いながら。
 でも彼は、握った手を振り払ったりしなかった。
 きょろきょろと視線をさまよわせ、返事を探すように口をはくはくさせている。

「どうしても、嫌だって言うなら……」

 自分の先走った気持ちの都合で、あんまり性急に追い詰めるのもどうなんだと思って、オレが今日のところは残念ながらあきらめようとした時。
 怒ったような声で、彼はぽつりと言った。

「嫌じゃないから、困ってんじゃねえか……」

 最後の方は、オレの首筋に顔をうずめるようにして。
 繋いだ手を、ぎゅっと握り返してきて。

「いいよ、もう。好きにしろよ」

 ヤケクソにも聞こえるその口調とは裏腹に、握った手は熱く、汗で湿っていた。
 彼が愛しいと、心から思った。

「ありがとう」

 耳元で囁くと、ばーか、と小さな声が返ってきた。



 それから、数十分後。
 しばらく二人で、はあはあと荒い息を吐きながら、全力疾走した後のような心臓をなだめていた。
 ようやく息が整ってきたころ、彼がおずおずと、遠慮がちに尋ねてきた。

「えっと……今日は、これで終わり、だよな……?」

 その様子が震えるハムスターみたいだったから、意地悪を言おうなんて気はさらさら起きなかった。
 もちろん、もっと彼を味わいたいと言う、欲望はあったけれども。

「そうだな」

 うなずくと、彼はあからさまにほっとした様子を見せた。
 それがちょっとだけ悔しくて、オレは澄ました顔でこう続けた。

「ゴムとか、ローションとか。次はちゃんと用意しておくから」

 生々しいその言葉に、彼は顔だけじゃなく、体全体をうっすらと赤く染める。
 でもやっぱり、嫌だとか、駄目だとかは口にしない。
 それどころか、わかった、と小さな声でうなずきさえしてくれて。
 わーっと、叫び出したいくらい、胸がいっぱいになる。
 オレは叫び出す代わりに、今日何度目かわからないキスをした。
 唇を離したとき、彼がこらえきれないといった様子で笑った。

「お前、顔、ゆるみすぎ」

 言われるまでもなく、自覚があった。
 おそらく今、オレは最高にしまりのない顔をしていることだろう。
 でも、それはしかたない。

「おまえから、甘いお菓子をしこたまもらったから。ハロウィンがこんなにいいものだなんて、知らなかった」

 キャンディよりも甘い、ハロウィンのお菓子を。
 ゆるみきった顔で、そんな益体もないことを言うオレに、彼は照れ臭そうに笑いながら言った。

「そりゃ、いたずらされたくなかったから、な。……いや、されたのかな、俺」

 どう思う?
 首をかしげて問う彼の口をぺろりと舐める。
 甘い、甘い、味がした。


Fin.


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