010: 失うと言う事



 うすく開いたカーテンの隙間から、朝の光が差し込むのがまぶしくて、祥太郎は目が覚めた。
 まだはっきりと覚めきっていない、寝ぼけた頭でぼーっとしていると、ピピピ、と目覚まし時計が鳴り始める。
 音を止めて、もそもそとベッドから起き上がった。

「あれ……?」

 立ち上がって、ふと目をこすろうとして、祥太郎はようやくその違和感に気づいた。
 頬が、濡れている。

「何で……」

 あくびをしたわけでもないのに、何故涙が出ているのだろう。
 いや、そもそも、これはあくびくらいで出るような、涙の量じゃない。
 祥太郎が意識していなかっただけで、涙はまだ、はらはらと、目から零れ落ち続けていた。

「何で俺、泣いてるんだろう……?」

 怖い、夢を見た。
 哀しい、夢を見た。
 何か、大切なものを、失う夢………。
 
 だが、たいていの夢がそうであるように、朝の光と共に、夢は儚く消えてしまう。
 祥太郎は、何故、自分が泣いているのか、わからなかった。
 


 部活のない日が重なるときなんてめったにないんだけど、そういう時、祥太郎は、小中学校からの幼馴染でもある、クラスメイトの幸彦と一緒に帰ることにしている。
 幸彦とは、高校になってから仲良くなった。
 実は、小中学校の時は、一度も同じクラスになったことがなかったのだ。
 お互い、一応、顔は知っている、程度の中だったのが、高校になってたまたま同じクラスになったことで、一気に親しくなった。
 こんなに気が合うやつなら、小学校や、中学校の時にも、もっと親しくしておけばよかった。
 そう思えば、少しだけ悔やまれるが、クラスも、部活も違えば、中々接点を持ちにくいものだ。
 むしろ、単なる顔見知り、で終わらなかったことに感謝すべきなのかもしれない。

「ユキ、今日、バスケ部、休みなんだろ?」
「ああ。顧問が研修とかで、居ないんだ。ショウは?」
「ウチは、まだホンがあがってないんで、休みー」
「何やんの?今年は」
「それもまだ決まってない」
「ええ?文化祭まで、あと1ヶ月ちょいだろ?間に合うのかよ」
「そうなんだよなー。なんかいきなり、部長が今年は俺が脚本を書き下ろす!とかはりきってて。その割には、取り掛かり遅いんだよな。文化祭にしかハレの日がない演劇部だっつーのに」
「はは、そりゃ、大変だな。ショウは、出るのか?」
「男少ねーもん。問答無用で役者兼雑用だよ」
「がんばれよー。俺も見に行くから」
「いや、こないでいいから。つか、見ないで」
「見るに決まってるだろ。お前の、晴れ舞台」
「やーめーてー!」

 HRが終わったばかりで、まだざわついている教室で、気安いやり取りを交わす、こんな瞬間が、祥太郎は好きだ。
 携帯も、メールもあるけれど、やっぱり、顔を見て話すのが一番だと、思うから。
 黙っていると、ややとっつきにくい印象のある、無愛想な幸彦の顔が、祥太郎と話している時は、小さくうなずいたり、方頬に笑みを浮かべたりと、やわらかい印象になる。
 幸彦としゃべってて、楽しいのは、自分だけじゃないんだ、ってわかって、何だか嬉しくなる。
 もちろん、こんなこと、本人には言わないけど。

「じゃ、今日はユキも俺と一緒に帰れるんだよな?」
「あー。それが今日委員会があってさ。美化委員」
「そっか、じゃあ……」
「あ、でも。ほんとは今日、部活の予定だったから、浅井が一人で出てくれるって、言ってたから。今日はこっそり、帰っちゃおうかな、ショウと」

 ちらっと、まだ教室に残っている、女子の浅井の方を見て、幸彦は小声で言った。
 委員の集まりは、放課後にたまに行われるが、とりあえず参加しとけばいい、くらいのものだ。
 サボるヤツも、結構いる。
 あまりにも目立つような場合は、三年の委員長から注意されるようだが、1、2回集まりに出なかったくらいでは特に問題とされない、そんなゆるいものだった。

「だ……駄目だ!俺、待ってるから、行ってこいよ、美化委員!」
「え?でも……」
「あとで、ほんとは部活なかったんでしょ、とか浅井に言われるほうが面倒だろ。大した時間がかかるわけでもないし。俺、ここで待ってるから」
「ショウがそう言うんなら……。けど、いいのか?それなら、わざわざ待ってなくてもいいんだぜ?」
「気にするなよ。どうせ俺、暇なんだし」
「わかった。じゃ、行って来る」
「うん。行って来い」

 幸彦は、不思議そうに、首をかしげると、もう一人の美化委員である、浅井の方へと歩いていった。
 二人そろって、教室を出て行く。
 扉のところでふりかえって、幸彦が小さく手を振ったのに、同じように振り返した。

「…………」

 少しずつ、人が居なくなっていく教室で、祥太郎は自分でも、首をかしげていた。
 幸彦が、不思議そうな顔をしていたのも無理はない。
 別に、一度くらいさぼったからって、特に問題のない委員会なのだ。
 もう一人の委員である浅井が出るのだから、このクラスの出席がゼロになるわけでもない。
 祥太郎自身も、逆の場合だったら、こっそり帰ってしまっていただろう。
 そんなに律儀でも、真面目でもないのだ。
 それなのに、今日は、何故か、幸彦が委員会をサボって、まっすぐに、自分と一緒に帰ってしまうのは、駄目だと思った。
 自分でも、わけがわからない………。

「でも、今帰ったら、きっと……」

 きっと、何なのだ?
 理由はわからないのに、そうしてはいけない、という、強い思いがあった。
 委員会をサボって一緒に帰ったりしたら、何か取り返しの付かないことが、起こりそうな気がする。

「だけど、何で……?」

 グラウンドから、サッカー部と野球部の、力強い掛け声が聞こえる。
 机の上にだらしなく腰掛けながら、祥太郎は、どこか不安な思いで、幸彦の委員会が終わるのを、待っていた。


「悪かったな、待たせて」
「いいって。言ったろ、暇だって」

 思ったよりも、委員会の終わる時間は、遅かった。
 下足箱は、がらんとして、自分たち以外の人気はない。
 だが、グラウンドからの声はまだ聞こえるので、部活は終わっていないようだ。

「遅くなったけど、どっか寄ってく?ショウ、CD欲しいって言ってただろ。駅前のショップ、のぞいてく?」

 靴を履き替えた幸彦が尋ねるのに、祥太郎は、急いで首を振った。

「いい……!別に、今日じゃなくてもいいから!そうだ、ホラ、今日はラーメン屋によってかねぇ?ちょっと回り道になるんだけど。なんか新しいとこが出来てて、結構美味いって、部長が言ってた」
「はは、ホンはあがってないっていうのに、そういうのはちゃんとチェック済みなんだな、お前んとこの部長」
「ホント、そうなんだよ。何でも、これもまたネタ集めの一環だ、とか言ってさ。でも実は単に、新しい店探すの好きなだけなんだよ、部長」

 たわいのない話をしながら、学校を後にする。
 二人の通う高校は、駅から少し離れたところにあり、生徒の大半は、電車か、バス通学だった。
 小中、と同じ学校だった祥太郎と幸彦は、バスで3つほど離れた、新興住宅地に住んでいる。
 バス停は、駅のある方向とは違うが、一緒に帰るときは、店が固まっている駅周辺に寄り道してから、帰っていた。

「で、そのラーメン屋って、どこ?」
「ああ、うん。駅の裏の方……。ほら、屋上に展望台のあるビルがあるだろ?あの裏あたりの路地」
「あー、なんか、あの辺のごちゃごちゃしてるとこか。いかにもラーメン屋がありそうな」
「なんだよ、そのいかにもラーメン屋がありそうって」
「そんな感じしない?」
「うーん、するような、しないような……」

 しゃべりながら、いつも駅に向かうコースとは、微妙に違う道順で歩く。
 先導するのは、もちろん、ラーメン屋の場所を部長から教えてもらっている、祥太郎だ。

(この道なら、大丈夫だよな。時間帯だって、違う………)

 何が大丈夫なのか。
 やはり、自分でも良く分からないまま、祥太郎は、心の中で何度も呟いていた。

「あっ、ここの角、曲がったとこだよ。あのビルが見えるし」
「ほんとだ。ふーん、裏から見ると、このビル、結構ボロっちいな……」

 そう、話しながら、路地を曲がろうとした、時。
 耳をつんざく様な、激しい音がして、祥太郎はドンっと、勢いよく、押された。
 


「何で………!!」


 そんなはずはなかった。
 だって、幸彦は、委員会をサボらなかった。
 駅前のCDショップがある、大通りだって、歩かなかった。
 交通量の多い時間帯も、場所も、避けた。
 だから、『今度』は、絶対、大丈夫なはずだった。
 それとも、自分が一緒だったから?
 そうだ、きっとそうだ。
 祥太郎が、幸彦と一緒に帰ってしまったから、そのせいで……!!


「違うよ」


 はっとして、祥太郎は振り返った。
 そこには、先ほどと寸部変わりない、幸彦が立っていた。


「ショウのせいじゃない。誰かのせいって言うんなら、居眠り運転してたヤツのせいだろ。……でも、それだって、まあ運が悪かったんだよな、きっと」


 だから、誰のせいでもないんだよ。
 幸彦は、そう言って、笑った。
 どうして、そこで笑えるんだろう。
 祥太郎は、信じられない思いで、彼を見た。


「何で、そんな風に言えるんだよ。何も悪いことしてないじゃないか、お前。何で、何でお前が……」


 涙でかすんで、幸彦の顔がゆがんで見えた。
 泣いちゃいけない。
 泣きたいのは、自分ではなくて、幸彦の方だ。
 それに、ちゃんと、幸彦の顔を見たい。
 しっかり、この目に焼き付けておかなくちゃ、そうじゃなきゃ……。


「そんなに泣くなよ。もう、いいから……」
「よくねぇよ!何で、何でお前なんだ。何で……、俺をかばったり、したんだよ!」


 目の前に、蛇行したトラックが突っ込んできた。
 車道側に居たのは、幸彦ではなく、祥太郎の方だった。
 それなのに、ぶつかる直前で、幸彦が、祥太郎を突き飛ばした。
 勢いよく転がって、尻餅をついて携帯ショップのショーウィンドウにぶつかった。
 そして、幸彦は……。
 

「何でって、とっさに身体が動いたんだ。不可抗力ってヤツ?」
「ユキ……、自分の方が運動神経がイイって言いたいんだろ。どうせ、俺はトロいよ!」
「そりゃ、俺、バスケ部だもん。文化部のお前より運動神経いいのは当然だよ」


 涙だけじゃなくて、鼻水まで出てきたのを、ポケットに突っ込んでいたハンカチでぬぐいながら、出てくる言葉は、見当違いなものばかりだ。
 本当に言いたいのは、こんな言葉じゃない。
 こんな、言葉じゃなくて……。


「俺も……、俺も、連れてけよ!ユキが、一人でいくこと、ないだろ!?俺も連れていけよ!!」


 祥太郎をかばって、幸彦が一人だけ、いってしまうなんて。
 そんなの、おかしい。
 そんなの、間違ってる。
 一緒に帰ろう、と言って、学校を出たのだ。
 だから、いくのは、二人、一緒だ。
 ひとりでなんて、いかせない。


「駄目だ」
「何で!?」


 即答されて、祥太郎は食い下がった。
 どうして、駄目なんだ?
 幸彦がいくのなら、祥太郎が一緒でもいいはずだ。
 いや、一緒じゃなくちゃ、駄目だ。


「そんなの、決まってる。好きだから。ショウが好きだから、つれていかない」


 きっぱりと。
 今まで、見たことがないくらいの、笑顔で、幸彦は告げた。


「ずるい……。そ、んな風に言われたら、俺………」
「うん、ごめんな。でも、それだけは、いくらショウの頼みでも、聞けないから。ほんと、ごめん」
「ばか。ユキの、大馬鹿野郎。俺だって……、俺だって、すき、なのに………」


 ひざから、力が抜けた。
 ぺたりと、地面に座り込む。
 駅裏の、路地だとばかり思っていたその場所は、いつの間にか、真っ白な、何もない空間に変わっていた。
 手のひらに触れる地面は、どこかひんやりとして、冷たい。
 ふと気配を感じて、顔を上げると、幸彦がしゃがみこんで、祥太郎を見ていた。
 涙で汚れた頬に、幸彦の手が添えられる。


「ショウを、置いてくことになって、ごめん」
「……謝るなよ。誰の、せいでも、ないんだろ………」
「うん、それでも、ごめん。それと………、」
 
 
 最後の言葉は、祥太郎の唇に、直接、吹き込むように、告げられた。
 抱きしめるように、ふわりと、幸彦の腕が動く。
 抱き返そうと、祥太郎が腕を伸ばす。


 その先には、もう、何も、なかった―――。



 差し込む光がまぶしくて、祥太郎は眉をしかめた。
 また、カーテンをきちんと閉め忘れたらしい。
 今度から、きっちり閉めるようにしないとな……。
 そう、思いながら、水底からふわりと浮き上がってくるように、ゆっくりと、意識が覚醒する。

「祥太郎!気が付いたの!?」

 枕元に、母親が張り付いているのに気づいて、祥太郎は目を瞬いた。
 しかも、母親の顔は、何だかどことなく、やつれている。

「お母さん……?何してんの」
「アンタ、何をのんきな……。覚えてないの?交通事故にあったのよ。怪我はかすり傷なのに、三日も眠ったままだったから、お母さん、気が気じゃなかったのよ!?」
「交通、事故……。………っ!お母さん、ユキは!?幸彦は、どうなったんだ!?俺、ユキと一緒にいたよな!?」
「幸彦君は………」

 うつむいて、口ごもった母親のその態度で、祥太郎は全てを悟った。
 それ以上を聞くことは、出来なかった。

(夢じゃ、なかったんだ………)

 トラックに轢かれそうになって、幸彦が、祥太郎を突き飛ばして、かばった。
 そして、幸彦は………。

「お母さん、先生呼んでくるから。アンタは、じっとしてなさいよ」

 痛ましげな顔で、祥太郎を見て、母親は病室を出て行った。
 途端に、辺りが静まり返る。
 四人部屋だったが、他のベッドは、皆空いていた。

「夢じゃ、なかったんだ………」

 言葉に出して、呟く。
 白い天井が、目に染みて、痛い。
 幸彦が――夢の中で――最後に言った言葉が、耳に蘇る。


『ありがとう』


「馬鹿野郎………」

 白い天井が、ぼやけて、滲む。
 目の淵から溢れた涙が、一筋、零れ落ちて、白いシーツに吸い込まれていった。


Fin.


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