それは、喫茶店の名前だ。
俺が勤めている会社があるビジネス街の、やや奥まった通りに、築年数が判らないくらい古い4階建てのビルがあって、その2階にある。
営業時間は、午前11時から、午前2時まで。
ちょっと見、年齢不詳の、でもよく見たら実は結構若いマスターが1人で切り盛りしている。
カウンター席が5、6席くらいある他は、テーブル席が3つだけ。
その分、店内はゆったりしている。
クラシックがBGMで流れていて、内装もこげ茶色でシックに纏められていて、落ち着いた雰囲気だ。
だが、店はたぶん、あんまり流行ってない。
ってか、この立地条件では、知る人ぞ知る、って感じの店にしかなり得ないだろう。
とは言え、全く客が居ないわけでもなく、俺が行くときは、何故か必ず、奥のテーブル席に、あと少しで後期高齢者って感じのじいさんが、文庫本片手に1人でコーヒーを飲んでいる。
昼行っても、夜行っても、だ。
もしかしてあのじいさん、開店にやってきて、閉店までコーヒー1杯で粘ってんのか?まさかな。
チリン。
古ぼけたドアベルが、可愛らしい音を鳴らす。
「いらっしゃいませ」
いつも通り、マスターの穏やかな声が、俺を迎えてくれる。
客は、奥のテーブル席のじいさんを除くと、誰もいない。
もうすぐ日付も変わろうって言うような時間に、居酒屋でもバーでもなく喫茶店に行く変わった客は、そうは居ないってことだろう。
場所も場所だし、サラリーマン(と、謎のじいさん)以外の客はあまり見込めないだろうし。
「フレンチトーストと、コーヒー。ブレンドで」
「かしこまりました」
いつものカウンター席に座って、注文を済ますと、早速マスターが、フライパンでフレンチトーストを焼き始めた。
卵とバターの、甘い匂いが、ふんわりと漂ってくる。
少し遅れて、コーヒーの、香ばしい匂いも。
俺はその間、ケータイの画面をチェックしていた。
メールは、やっぱり着ていなかった。
「お待たせいたしました」
コトリ、と目の前に、フレンチトーストの皿とコーヒーのカップが置かれる。
少し遅れて、サラダの入ったボウルも。
「あの……」
注文してない、というか、サラダはメニューになかったはず。
「実は私の夕飯の残りなんです。よかったら、食べてください」
「はあ……」
残り、と言う割には、今用意したばかりのように瑞々しかったが、ありがたくいただくことにした。
今夜の、遅すぎる夕飯はこれで終了の予定だったから。
『よく、そんな甘いモノが、飯の代わりになるな』
呆れた声が、耳の奥でよみがえる。
大きなお世話だ。
俺は、甘党なんだよ。
「ありがとうございます、いただきます」
改めて、礼を言って、ぺこりと頭を下げると、マスターは、おっとりと笑って、いえいえ、お気になさらずに、と答えた。
彩りよく盛られた生野菜に、マッシュポテトが添えられていて、さっぱりとした和風のドレッシングがかけられている、そのサラダはとても美味しかった。
黄金色の蜂蜜がかかった、きつね色のフレンチトーストは、いつもながらに絶品だ。
家では、この味は出せない。
俺が、この知る人ぞ知る?喫茶店に通うのも、このフレンチトーストあってこそだ。
パンケーキも美味いけど。
「コーヒーのお代わりはいかがですか?」
食べ終わって、ほっと一息ついた、さりげないタイミングで薦められる、コーヒーのお代わりは1回目だけは、タダだ。
つまり、コーヒー1杯分の値段で、2杯分飲めるってこと。
ってことは、あのじいさんのコーヒーは……って、じいさんがコーヒー何杯飲んでるかなんて、どうでもいいんだけど。
「お願いします」
もちろん、お代わりもいただく。
タダだし。
それだけじゃなくても、ここのコーヒーは美味い。
ちなみに、俺は甘党だが、コーヒーはブラックだ。
『砂糖もミルクもガバガバ入れるんじゃねぇの?変なヤツ』
またしても、耳奥に余計な声がよみがえる。
甘党だけど、苦いのが駄目ってんじゃないんだよ、俺は。
コーヒーはブラックだし、紅茶はストレートだ。
それに、甘いものを食べるんだから、飲み物は甘くなくても良いんだ。
「マスターは………」
カップに注がれる、2杯目のコーヒーを見つめながら、俺は余計な声を追い出すように、マスターに話しかけた。
「はい、なんでしょう?」
にこっと微笑みかけられて、なんだかドギマギする。
マスターは、よく見ると、結構男前でもある。
「あの……、なんで、マスターしてるんですか」
「……それは、喫茶店を始めたワケ、ですか?」
「はあ、まあ……」
黙ってたら、余計な声とか、ケータイとか気になってしまうから、何でもいいから話したかっただけで。
我ながら唐突な質問だと思う。
「あの……、失礼な、質問だったらすみません」
サラダをサービスしてもらいながら、詮索めいたことを尋ねたことが恥ずかしくなって、俺は慌てて謝る。
だが、マスターは、穏やかな笑みを浮かべたまま、首を振った。
「いえ、別に構いませんよ。……そうですねえ。お店をやってみたいなあというのは、昔から思ってたんですよ。小さな頃読んだ絵本でね、ハリネズミが森でコックさんしてて。そこに出てくるフレンチトーストが美味しそうで、こういうお店があったらいいなあって」
「そ……それは、メ、メルヘンでいいですね……」
意外な理由に、なんとコメントして良いものか、迷う。
ギリギリ、マスターが言うと何とか様になる?が、女性ならともかく、男が言うにはメルヘンチックと言おうか、ロマンチストすぎる……。
「と、言うのは、後付です。いくらなんでも、そんなこと本気で考えてたほどロマンチストではありませんので。ま、直接の理由は、会社が倒産して、失業したから、ですね」
「は、はあ……」
マスター……。
だったら、最初からそう言ってください……。
「会社が倒産したっていっても、失業保険はおりるし、まだ30前だったし、転職しようって思えば、たぶん出来たって思うんですよ。知ってます?T証券。あそこに勤めてたんです」
「T……!大手じゃないですか。まさか、あそこがつぶれるなんて、思ってもみなかった……って、あの、すみませんっ!」
「いえ、いいんですよ。勤めてた人間だって、そう思っていたんですから。それで、会社が倒産して。もうこの街にもしばらくは用はなかったんですけど、何となく来てみて。普段歩かないこの辺りまで来てみたら、このビルを見つけて、ちょうど貸し店舗募集の張り紙があって。それで、そうだ、喫茶店を開こう!と思い立ったわけです」
「そ、それは……」
い、意外だ。
見た目は、もっとこう、堅実そうなのに。
なんか、マスターって、思ったよりもギャンブラーな生き方、してる?
「つまり、衝動です。店を喫茶店にしてみたのは、最初に言ったように、ハリネズミのコックさんの絵本が好きだったのを思い出したので。学生時代に、喫茶店でのバイト経験もありましたし」
「なるほど……。って、あれ?貸し『店舗』が募集されてたんですか?貸し『事務所』なんじゃなくて」
「ええ、貸し『店舗』です。何でも、2階は、以前も飲食店だったようで。その頃は、何だったかな、居酒屋か何かが入っていたようです」
「俺、不思議に思ってたんですよね。このビルって、貸事務所用って感じなのに」
外から見ても、このビルに、飲食店が入っているようには見えない。
かろうじて、1階に、看板は出ているのだが、この喫茶店以外は、皆どこかの事務所のようだし。
「ほんと、そうですよね。そこは、私も不思議に思いました。でも、何だか面白いな、と思って。……それに、ここだけの話なんですが、テナント料も、安いんです。だから、まあ、細かいことは気にしなくて良いかな〜と」
ふふっと、笑う、マスターの顔はちょっとだけ、いたずらっ子のようだった。
ここを発見し、通うようになって、1年近く経つわけだが、今夜は思いもかけないことがわかった。
人は、見かけによらないって、本当なんだな。
「お店はじめて……よかったって、思いますか?」
俺は、ちょっと考えてから、思い切って、聞いてみた。
お気に入りの喫茶店のマスターの、予想外に思い切った、しかも結構行き当たりばったりな行動、っていうか、生き方に、俺は興味がわいた。
マスターは、にっこりと笑った。
「はい。……明日にはなくなっている店かもしれませんけど、ね。
だけど、なくならないって思ってた会社だって、結局はなくなったんですから。
だったら、今、やりたいなって、少しでも思うことをやっておこうか、と。それに、いつなくなるかって思うと、ドキドキしませんか?」
「もしかして、この喫茶店の名前って……」
「お察しの通りです」
シュールだ、マスター……。
一口残ったコーヒーを、味わうように、飲んだ。
今飲んだこのコーヒーも、明日には、飲めなくなっているのかもしれない。
「いつかなくなるかもしれない、って言ったら、いい加減だって言われそうですが。でも、ほんとは、逆なんです。いつか、なくなってしまううものだから、今この時、大事にしようって、思うんじゃないかなって。そうじゃないですか?」
コーヒーカップを、ソーサーに戻す。
さっきまであった、琥珀色の液体は、もうどこにもなくて、そこには白いカップがあるだけだ。
「……やっぱり、マスターはロマンチストですよ」
ごちそうさま、と言って、俺は席を立った。
チリン、とドアベルを鳴らして、外に出た。
寒々としたビルの廊下には、誰もいない。
2階なので、エレベーターは使わずに、階段を下りる。
ビルを出て、駅に向かって歩き出す。
終電は、まだ終わってないはずだ。
……いや、あいつん家方面のは、もう終わってたっけ?
ケータイに伸びそうになった手を止める。
今頃何しに来たんだって言われても、気にしない。
俺は、タクシーを捕まえるために、路上に向かって、手をあげた。
Fin.
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