011: 砂上楼閣



 それは、喫茶店の名前だ。
 俺が勤めている会社があるビジネス街の、やや奥まった通りに、築年数が判らないくらい古い4階建てのビルがあって、その2階にある。
 営業時間は、午前11時から、午前2時まで。
 ちょっと見、年齢不詳の、でもよく見たら実は結構若いマスターが1人で切り盛りしている。
 カウンター席が5、6席くらいある他は、テーブル席が3つだけ。
 その分、店内はゆったりしている。
 クラシックがBGMで流れていて、内装もこげ茶色でシックに纏められていて、落ち着いた雰囲気だ。
 だが、店はたぶん、あんまり流行ってない。
 ってか、この立地条件では、知る人ぞ知る、って感じの店にしかなり得ないだろう。
 とは言え、全く客が居ないわけでもなく、俺が行くときは、何故か必ず、奥のテーブル席に、あと少しで後期高齢者って感じのじいさんが、文庫本片手に1人でコーヒーを飲んでいる。
 昼行っても、夜行っても、だ。
 もしかしてあのじいさん、開店にやってきて、閉店までコーヒー1杯で粘ってんのか?まさかな。

 チリン。

 古ぼけたドアベルが、可愛らしい音を鳴らす。

「いらっしゃいませ」

 いつも通り、マスターの穏やかな声が、俺を迎えてくれる。
 客は、奥のテーブル席のじいさんを除くと、誰もいない。
 もうすぐ日付も変わろうって言うような時間に、居酒屋でもバーでもなく喫茶店に行く変わった客は、そうは居ないってことだろう。
 場所も場所だし、サラリーマン(と、謎のじいさん)以外の客はあまり見込めないだろうし。

「フレンチトーストと、コーヒー。ブレンドで」
「かしこまりました」

 いつものカウンター席に座って、注文を済ますと、早速マスターが、フライパンでフレンチトーストを焼き始めた。
 卵とバターの、甘い匂いが、ふんわりと漂ってくる。
 少し遅れて、コーヒーの、香ばしい匂いも。
 俺はその間、ケータイの画面をチェックしていた。
 メールは、やっぱり着ていなかった。

「お待たせいたしました」

 コトリ、と目の前に、フレンチトーストの皿とコーヒーのカップが置かれる。
 少し遅れて、サラダの入ったボウルも。

「あの……」

 注文してない、というか、サラダはメニューになかったはず。

「実は私の夕飯の残りなんです。よかったら、食べてください」
「はあ……」

 残り、と言う割には、今用意したばかりのように瑞々しかったが、ありがたくいただくことにした。
 今夜の、遅すぎる夕飯はこれで終了の予定だったから。

『よく、そんな甘いモノが、飯の代わりになるな』

 呆れた声が、耳の奥でよみがえる。
 大きなお世話だ。
 俺は、甘党なんだよ。

「ありがとうございます、いただきます」

 改めて、礼を言って、ぺこりと頭を下げると、マスターは、おっとりと笑って、いえいえ、お気になさらずに、と答えた。
 彩りよく盛られた生野菜に、マッシュポテトが添えられていて、さっぱりとした和風のドレッシングがかけられている、そのサラダはとても美味しかった。
 黄金色の蜂蜜がかかった、きつね色のフレンチトーストは、いつもながらに絶品だ。
 家では、この味は出せない。
 俺が、この知る人ぞ知る?喫茶店に通うのも、このフレンチトーストあってこそだ。
 パンケーキも美味いけど。

「コーヒーのお代わりはいかがですか?」

 食べ終わって、ほっと一息ついた、さりげないタイミングで薦められる、コーヒーのお代わりは1回目だけは、タダだ。
 つまり、コーヒー1杯分の値段で、2杯分飲めるってこと。
 ってことは、あのじいさんのコーヒーは……って、じいさんがコーヒー何杯飲んでるかなんて、どうでもいいんだけど。

「お願いします」

 もちろん、お代わりもいただく。
 タダだし。
 それだけじゃなくても、ここのコーヒーは美味い。
 ちなみに、俺は甘党だが、コーヒーはブラックだ。

『砂糖もミルクもガバガバ入れるんじゃねぇの?変なヤツ』

 またしても、耳奥に余計な声がよみがえる。
 甘党だけど、苦いのが駄目ってんじゃないんだよ、俺は。
 コーヒーはブラックだし、紅茶はストレートだ。
 それに、甘いものを食べるんだから、飲み物は甘くなくても良いんだ。

「マスターは………」

 カップに注がれる、2杯目のコーヒーを見つめながら、俺は余計な声を追い出すように、マスターに話しかけた。

「はい、なんでしょう?」

 にこっと微笑みかけられて、なんだかドギマギする。
 マスターは、よく見ると、結構男前でもある。

「あの……、なんで、マスターしてるんですか」
「……それは、喫茶店を始めたワケ、ですか?」
「はあ、まあ……」

 黙ってたら、余計な声とか、ケータイとか気になってしまうから、何でもいいから話したかっただけで。
 我ながら唐突な質問だと思う。

「あの……、失礼な、質問だったらすみません」

 サラダをサービスしてもらいながら、詮索めいたことを尋ねたことが恥ずかしくなって、俺は慌てて謝る。
 だが、マスターは、穏やかな笑みを浮かべたまま、首を振った。

「いえ、別に構いませんよ。……そうですねえ。お店をやってみたいなあというのは、昔から思ってたんですよ。小さな頃読んだ絵本でね、ハリネズミが森でコックさんしてて。そこに出てくるフレンチトーストが美味しそうで、こういうお店があったらいいなあって」
「そ……それは、メ、メルヘンでいいですね……」

 意外な理由に、なんとコメントして良いものか、迷う。
 ギリギリ、マスターが言うと何とか様になる?が、女性ならともかく、男が言うにはメルヘンチックと言おうか、ロマンチストすぎる……。

「と、言うのは、後付です。いくらなんでも、そんなこと本気で考えてたほどロマンチストではありませんので。ま、直接の理由は、会社が倒産して、失業したから、ですね」
「は、はあ……」

 マスター……。
 だったら、最初からそう言ってください……。

「会社が倒産したっていっても、失業保険はおりるし、まだ30前だったし、転職しようって思えば、たぶん出来たって思うんですよ。知ってます?T証券。あそこに勤めてたんです」
「T……!大手じゃないですか。まさか、あそこがつぶれるなんて、思ってもみなかった……って、あの、すみませんっ!」
「いえ、いいんですよ。勤めてた人間だって、そう思っていたんですから。それで、会社が倒産して。もうこの街にもしばらくは用はなかったんですけど、何となく来てみて。普段歩かないこの辺りまで来てみたら、このビルを見つけて、ちょうど貸し店舗募集の張り紙があって。それで、そうだ、喫茶店を開こう!と思い立ったわけです」
「そ、それは……」

 い、意外だ。
 見た目は、もっとこう、堅実そうなのに。
 なんか、マスターって、思ったよりもギャンブラーな生き方、してる?

「つまり、衝動です。店を喫茶店にしてみたのは、最初に言ったように、ハリネズミのコックさんの絵本が好きだったのを思い出したので。学生時代に、喫茶店でのバイト経験もありましたし」
「なるほど……。って、あれ?貸し『店舗』が募集されてたんですか?貸し『事務所』なんじゃなくて」
「ええ、貸し『店舗』です。何でも、2階は、以前も飲食店だったようで。その頃は、何だったかな、居酒屋か何かが入っていたようです」
「俺、不思議に思ってたんですよね。このビルって、貸事務所用って感じなのに」

 外から見ても、このビルに、飲食店が入っているようには見えない。
 かろうじて、1階に、看板は出ているのだが、この喫茶店以外は、皆どこかの事務所のようだし。

「ほんと、そうですよね。そこは、私も不思議に思いました。でも、何だか面白いな、と思って。……それに、ここだけの話なんですが、テナント料も、安いんです。だから、まあ、細かいことは気にしなくて良いかな〜と」

 ふふっと、笑う、マスターの顔はちょっとだけ、いたずらっ子のようだった。
 ここを発見し、通うようになって、1年近く経つわけだが、今夜は思いもかけないことがわかった。
 人は、見かけによらないって、本当なんだな。

「お店はじめて……よかったって、思いますか?」

 俺は、ちょっと考えてから、思い切って、聞いてみた。
 お気に入りの喫茶店のマスターの、予想外に思い切った、しかも結構行き当たりばったりな行動、っていうか、生き方に、俺は興味がわいた。
 マスターは、にっこりと笑った。

「はい。……明日にはなくなっている店かもしれませんけど、ね。
 だけど、なくならないって思ってた会社だって、結局はなくなったんですから。
 だったら、今、やりたいなって、少しでも思うことをやっておこうか、と。それに、いつなくなるかって思うと、ドキドキしませんか?」
「もしかして、この喫茶店の名前って……」
「お察しの通りです」

 シュールだ、マスター……。
 一口残ったコーヒーを、味わうように、飲んだ。
 今飲んだこのコーヒーも、明日には、飲めなくなっているのかもしれない。

「いつかなくなるかもしれない、って言ったら、いい加減だって言われそうですが。でも、ほんとは、逆なんです。いつか、なくなってしまううものだから、今この時、大事にしようって、思うんじゃないかなって。そうじゃないですか?」

 コーヒーカップを、ソーサーに戻す。
 さっきまであった、琥珀色の液体は、もうどこにもなくて、そこには白いカップがあるだけだ。

「……やっぱり、マスターはロマンチストですよ」

 ごちそうさま、と言って、俺は席を立った。


 チリン、とドアベルを鳴らして、外に出た。
 寒々としたビルの廊下には、誰もいない。
 2階なので、エレベーターは使わずに、階段を下りる。
 ビルを出て、駅に向かって歩き出す。
 終電は、まだ終わってないはずだ。
 ……いや、あいつん家方面のは、もう終わってたっけ?
 ケータイに伸びそうになった手を止める。
 今頃何しに来たんだって言われても、気にしない。
 俺は、タクシーを捕まえるために、路上に向かって、手をあげた。


Fin.


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