017: さあ、行こうか



「さあ、そろそろ次の街へ、行こうか!」

 1週間ぶりに顔を見せたかと思ったら、いきなり調子よく言ったニコルに、僕は思わず、手にしていた空の盆で頭をはたいてしまった。
 ガコン!と気持ちのいい音が響く。
 ヤバイ、これ、店の備品!
 慌てて確かめてみたけど、盆は凹んでも壊れてもいなかった。
 ほっ。よかったあ……。

「おい……。俺の心配より先に、盆の心配してんじゃねえ……」

 ニコルが頭を押さえて、恨めしげな声をあげているが、そんなの知ったことか。
 ぜんっぜん、悪いなんて、思ってないからね、僕は!
 というか、もう少し、強くやっとけばよかった。
 いつも通りの、ふてぶてしいニコルの顔を見て、思いを新たにした。

「ちょっ……、オイコラ、アーティ。お前、今、何か不穏な事考えてるだろ!?」

 そんな僕の様子を見て、何かを察したのか、頭を押さえたまま、3歩下がった。
 ふん。
 ちょっとくらい、神妙な顔して見せたって、ごまかされないんだからな。

「言いわけくらいなら、聞いてやらなくもないよ。ただし、手短に。僕、まだ勤務中なんだから」

 僕は、この酒場――といっても、酒を出すのは夜だけで、昼はちょっとした食事しか出さない。忙しいのはもちろん夜で、昼の今は、比較的、暇だった――で、給仕として働いている。
 働きだして、ちょうど三カ月目くらいかな。
 給料はそんなによくはないけど、店の主人はいい人だし、やってくるお客さんも気のいい人が多くて、働きやすい職場だ。
 まかないも出るので、食事代はかからないし、そう思うと、給料が安くても困ることはない。
 僕としては、この職場で、もうしばらくは、働き続けたいと思っていた。
 それなのに、この男。
 今、何て言った……?

「わかった。手短に言う。マズイことになった」
「………また?」

 地の底を這うような低い声が、僕の口から洩れてしまったのは、仕方のないことだと思う。
 無言で続きを促す僕に、ニコルは、早口でわけを話した。

「今度は絶対大丈夫だと思ったんだよ!幸せを呼ぶ青いペンダントとかって!値段もそんな高くないし、出来はそこそこだし、若い娘に売れそうだなって思って。実際、途中までは上手くいってたんだよ!それが……」

 ニコルは、そこでいったん言葉を切って、それ以上言いたくなさそうなそぶりを見せたが、もちろん、そのままで僕がすますわけはなく。
 眼光鋭く、ニコルの顔を見つめ続けていたら、しぶしぶと、続きを切りだした。

「それが……盗品、だったみたいで。俺は、知らなかったんだ!それはマジだって!」
「はあ……」

 ニコルは、いつだって、そうだ。
 爪が、甘い。
 うまい儲け話がある、なんて口車に容易く乗って、あっさりと騙されてしまう。
 そのくせ、妙に悪運が強いと言うのか、要領がいいと言うのか、きわどいところで難を逃れ、捕まる、と言うところまではいかないのだ。
 もういっそ、1回くらい、捕まっちゃった方が、本人のためにはいいんじゃないかって、気がしてきたよ、僕は……。

「で?逃げて来たんだ」
「うん……。顔、覚えられちゃったと思うから、この辺にいたら、マズイかなあって……」
「だから、そろそろ次の街、なんだ。それって、そろそろ、じゃなくて、すぐさま、じゃないの?」
「はい………」

 心底、申し訳ありません、って顔で、しょんぼりとうなだれられると、なんだかんだで、僕はそれ以上、彼を責めることができなくなってしまう。
 僕は、またひとつ、小さくため息をつくと、意外と頑丈な盆を抱え直して、奥で暇そうに新聞を眺めている、この店の主人の元へと歩いた。

「すみません。急で本当に悪いんですけど、今日かぎりで、店を辞めさせてもらいたいんですけど……」
「へ?そりゃ、構わないけど……。えらく急だねえ」
「はい。連れが、街を出なければならなくなったので」
「そうかい。まあ、事情があるっていうんなら、しょうがないねえ。アンタは働きものだったから、このままやってもらえると嬉しかったんだがね」
「僕も、このまま働かせて欲しかったです……」

 店の主人であるおじさんは、ちょっと残念そうなそぶりを見せたものの、それじゃあ、今日のあがりはいつも通りでいいかい?と、その後は至ってドライに続けた。
 給料の払いも、忙しい夜の時間が終わって、店が閉まる時分にもらうことにした。

「おーい。今、食事、いいかい?」
「はい!やってます〜!」

 お客さんの声に、僕は返事をしてから、かけよった。

「俺、お前んとこで、終わるの、待ってる……」
「わかった。夜遅くなるけど、それまでに、僕の分まで支度、すませといてくれ」
「うん」

 どこか悄然としたまま、ニコルは、店を出ていった。


 僕とニコルの付き合いは、結構長くなる。
 初めて会ったのは、10歳のころだっただろうか。
 その頃の僕は、ふた親を早くに亡くし、親戚の家で厄介者扱いされていた。
 理由はもうすっかり忘れてしまったけど、何か些細な失敗をしでかして、ご飯抜きで外に放り出されて、通りで一人でしゃがみこんで、泣くのをこらえていた時だった。

『泣いてんのか?』

 僕の前に、影が落ちたかと思ったら、そんな声が、頭上から降って来た。
 目をぎゅっと閉じて、涙の気配を遠ざけてから、目を開けて、顔をあげて、僕は怒ったように答えたのを、覚えている。

『泣いてない』

 僕の前に立っていたのは、僕と同じくらいの年頃の少年だった。
 ぼさぼさの赤毛に、ハシバミ色の瞳が印象的な男の子。

『そうか。じゃあ、はら、へってんのか?』

 彼は、僕の不機嫌な様子にはまるで頓着せずに、続けて尋ねてきた。
 怒った顔をするのも、なんだか馬鹿らしく思えた僕は、その問いには素直にうなずいた。

『うん……』

 実際、お腹はぺこぺこだった。

『そっか!じゃあ、これ、やる』

 彼は、肩に斜めにかけていた袋から、パンを取り出すと、僕に差し出して、にこっと笑った。

『え……でも……それ、きみのなんでしょう?』
『おれは、さっきくったからいいんだ。おまえに、やる』
『あ、ありがとう』

 ずいっと付きだされたパンを、受け取って、一口かじった。
 それはとても焼き立て、何て言えるものじゃなく、正直凄く硬かったけど、まずくはなかった。

『うまいか?』
『うん』
『そうか!』

 彼は、僕が食べるのを、にこにこした顔で、見ていた。
 僕がようやくそのパンを食べ終わったころに、彼は再び口を開いた。

『おれ、ニコル。おまえの、なまえは?』
『ぼくは、アーティ』
『アーティ、アーティ……いい名前だな!』

 僕の名前を口の中で何度も確認してから、彼は嬉しそうに笑った。
 その笑顔につられるように、僕も笑った。
 泣きたい気持ちは、もうすっかり、遠ざかっていた。


 あの時から、僕は、ニコルと一緒にいる。
 出会ってから数年経った頃、僕らがいた小さな街を出て大きな街で働きたい、と言ったニコルに、ついて行ったのは、成り行きと言うか何と言うか……。
 いつまでも、厄介者扱いされてる親戚の家にいる事も出来ないし、家を出なきゃいけないと思ってたから、ちょうどよかったってのも、ある。
 ニコルは、父親と二人暮らしだったけど、ニコルの父はニコルに輪をかけていい加減で、しかも弱いのに博打好きと言うどうしようもなさで、そのままいたら、遅かれ早かれ、いずれ、ニコルにも災いが降りかかってきただろう。
 だから、生まれ育った街を出たのには、何も異存はないんだ。
 ただ、問題は、その後。
 ニコルは、ちっとも、ひとつところに落ち着こうとしないんだ。
 いや、落ち着きたくても落ち着けない事態にしょっちゅう陥ってしまう、と言った方が正しいな……。
 すぐに、眉つばで、胡散臭い商売にひっかかって、にっちもさっちもいかなくなってしまう。
 で、ようやく落ち着いてきたかな〜と思ったところで、また次の街へ、ということになる。
 今度の、3カ月は、これでも長い方なんだ。
 ひどい時は、1週間しかいられなかった時もあるんだから。
 真面目に、こつこつ働くのが、遠回りに見えても、一番確実なんだよ、と口がすっぱくなるくらい言っても、いや、今度こそ大丈夫だって!と全く根拠のない自信を打ちだしては、止める間もなく、飛び出して行ってしまう。
 どうしてニコルは、懲りる、っていう言葉を、知らないかな……。
 忙しい夜の時間が終わり、今まで世話になった礼を言って、ちょっと色をつけてもらった給料をもらい、僕は店を出た。
 夜風が、冷たい。
 そろそろ、本格的な冬がやってくる。
 何もこんな時に、次の街へ行くことにしなくったって。
 いや、そもそも、選択権なんてないんだけどね……?
 はあ、っと手のひらに息を吹きかけて、夜空を見上げた。
 雲の隙間から、細い月がのぞいている。
 店が立ち並ぶ通りを抜け、安い下宿が続く通りにくると、辺りはすっかり静かになった。
 外階段を使って、部屋のドアを開ける。
 この部屋とも、今夜でさよならだ。

「ただいま。用意、すんだ?」
「お帰り、アーティ。一応、全部、まとめたぜ」

 ベッドに腰かけていたニコルが、床に置いた、大きめのカバンを2つ指して、答えた。
 元々、物の少なかった部屋は、旅支度を済ませたせいで、がらんとしていた。
 僕は外套を脱ぐと、黙って、ニコルの隣に腰かけた。

「確認、するか?」
「いい。明日の朝で。……もう、寝る」

 靴を脱ぐと、ベッドに横になった。
 ニコルはまだ、ベッドに腰かけている。
 僕に背中を見せたままで、ニコルが話しかけてきた。

「ごめんな……いつも。今度こそは、って、思ってるんだけど……」
「うん……わかってるよ」

 不毛な言い争いをしたくなくて、僕はただうなずいた。
 それをどう思ったのか、ニコルは、振り返って僕を見ると、意を決したような顔で、言った。

「ここが気に入ってるんなら、アーティはこのままここに残るか?そもそも、出ていかなきゃならないのは、俺だけなんだから」
「何言ってんだよ、僕も行くに決まってるだろ」

 このやり取りも、今が初めてではない。
 そして、僕の答えも、毎回同じ。

「どんなに気に入った場所だって……、ニコルがいない場所になんて、いたくないよ、僕は」

 ニコルのシャツの裾を、そっと握りしめて、言った。
 何日間か、ふらりと姿を見せなくなるくらいなら、我慢できる。
 でも、ずっと、は嫌だ。
 彼が、僕を見つけてくれた、あの時から。
 僕の居場所は、ニコル、君がいる場所なんだから……。
 
「そうか……」
「うん、そうだよ」

 僕の髪を撫でながら、ニコルは身をかがめた。
 額にキスして、囁く。

「俺も、アーティを残して、行きたくないって、思ってたんだ」

 僕の隣にもぐりこんで、額を合わせると、ニッと笑った。
 頬を撫でられて、そのまま胸に抱え込まれる。

「どこかに行く時は、いつも一緒だよな、俺たち」
「そんなの、当たり前だよ」

 1週間ぶりの、ニコルの、匂いがする。
 背中に手をまわして、ぎゅっとしがみつく。
 ひとつところで、安定した、落ち着いた暮らしができれば、それが一番なんだろうけど。
 でも、それは、そこにニコルが一緒にいることが、大前提だ。
 だから僕は、君が行く場所になら、どこにだって、行く。
 抱きついたまま、目を閉じた。
 どこに行っても、どんな場所にいても。
 この、腕の中が、僕の一番好きな、安心できる場所なんだ――――。


Fin.  


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