「さあ、そろそろ次の街へ、行こうか!」
1週間ぶりに顔を見せたかと思ったら、いきなり調子よく言ったニコルに、僕は思わず、手にしていた空の盆で頭をはたいてしまった。
ガコン!と気持ちのいい音が響く。
ヤバイ、これ、店の備品!
慌てて確かめてみたけど、盆は凹んでも壊れてもいなかった。
ほっ。よかったあ……。
「おい……。俺の心配より先に、盆の心配してんじゃねえ……」
ニコルが頭を押さえて、恨めしげな声をあげているが、そんなの知ったことか。
ぜんっぜん、悪いなんて、思ってないからね、僕は!
というか、もう少し、強くやっとけばよかった。
いつも通りの、ふてぶてしいニコルの顔を見て、思いを新たにした。
「ちょっ……、オイコラ、アーティ。お前、今、何か不穏な事考えてるだろ!?」
そんな僕の様子を見て、何かを察したのか、頭を押さえたまま、3歩下がった。
ふん。
ちょっとくらい、神妙な顔して見せたって、ごまかされないんだからな。
「言いわけくらいなら、聞いてやらなくもないよ。ただし、手短に。僕、まだ勤務中なんだから」
僕は、この酒場――といっても、酒を出すのは夜だけで、昼はちょっとした食事しか出さない。忙しいのはもちろん夜で、昼の今は、比較的、暇だった――で、給仕として働いている。
働きだして、ちょうど三カ月目くらいかな。
給料はそんなによくはないけど、店の主人はいい人だし、やってくるお客さんも気のいい人が多くて、働きやすい職場だ。
まかないも出るので、食事代はかからないし、そう思うと、給料が安くても困ることはない。
僕としては、この職場で、もうしばらくは、働き続けたいと思っていた。
それなのに、この男。
今、何て言った……?
「わかった。手短に言う。マズイことになった」
「………また?」
地の底を這うような低い声が、僕の口から洩れてしまったのは、仕方のないことだと思う。
無言で続きを促す僕に、ニコルは、早口でわけを話した。
「今度は絶対大丈夫だと思ったんだよ!幸せを呼ぶ青いペンダントとかって!値段もそんな高くないし、出来はそこそこだし、若い娘に売れそうだなって思って。実際、途中までは上手くいってたんだよ!それが……」
ニコルは、そこでいったん言葉を切って、それ以上言いたくなさそうなそぶりを見せたが、もちろん、そのままで僕がすますわけはなく。
眼光鋭く、ニコルの顔を見つめ続けていたら、しぶしぶと、続きを切りだした。
「それが……盗品、だったみたいで。俺は、知らなかったんだ!それはマジだって!」
「はあ……」
ニコルは、いつだって、そうだ。
爪が、甘い。
うまい儲け話がある、なんて口車に容易く乗って、あっさりと騙されてしまう。
そのくせ、妙に悪運が強いと言うのか、要領がいいと言うのか、きわどいところで難を逃れ、捕まる、と言うところまではいかないのだ。
もういっそ、1回くらい、捕まっちゃった方が、本人のためにはいいんじゃないかって、気がしてきたよ、僕は……。
「で?逃げて来たんだ」
「うん……。顔、覚えられちゃったと思うから、この辺にいたら、マズイかなあって……」
「だから、そろそろ次の街、なんだ。それって、そろそろ、じゃなくて、すぐさま、じゃないの?」
「はい………」
心底、申し訳ありません、って顔で、しょんぼりとうなだれられると、なんだかんだで、僕はそれ以上、彼を責めることができなくなってしまう。
僕は、またひとつ、小さくため息をつくと、意外と頑丈な盆を抱え直して、奥で暇そうに新聞を眺めている、この店の主人の元へと歩いた。
「すみません。急で本当に悪いんですけど、今日かぎりで、店を辞めさせてもらいたいんですけど……」
「へ?そりゃ、構わないけど……。えらく急だねえ」
「はい。連れが、街を出なければならなくなったので」
「そうかい。まあ、事情があるっていうんなら、しょうがないねえ。アンタは働きものだったから、このままやってもらえると嬉しかったんだがね」
「僕も、このまま働かせて欲しかったです……」
店の主人であるおじさんは、ちょっと残念そうなそぶりを見せたものの、それじゃあ、今日のあがりはいつも通りでいいかい?と、その後は至ってドライに続けた。
給料の払いも、忙しい夜の時間が終わって、店が閉まる時分にもらうことにした。
「おーい。今、食事、いいかい?」
「はい!やってます〜!」
お客さんの声に、僕は返事をしてから、かけよった。
「俺、お前んとこで、終わるの、待ってる……」
「わかった。夜遅くなるけど、それまでに、僕の分まで支度、すませといてくれ」
「うん」
どこか悄然としたまま、ニコルは、店を出ていった。
僕とニコルの付き合いは、結構長くなる。
初めて会ったのは、10歳のころだっただろうか。
その頃の僕は、ふた親を早くに亡くし、親戚の家で厄介者扱いされていた。
理由はもうすっかり忘れてしまったけど、何か些細な失敗をしでかして、ご飯抜きで外に放り出されて、通りで一人でしゃがみこんで、泣くのをこらえていた時だった。
『泣いてんのか?』
僕の前に、影が落ちたかと思ったら、そんな声が、頭上から降って来た。
目をぎゅっと閉じて、涙の気配を遠ざけてから、目を開けて、顔をあげて、僕は怒ったように答えたのを、覚えている。
『泣いてない』
僕の前に立っていたのは、僕と同じくらいの年頃の少年だった。
ぼさぼさの赤毛に、ハシバミ色の瞳が印象的な男の子。
『そうか。じゃあ、はら、へってんのか?』
彼は、僕の不機嫌な様子にはまるで頓着せずに、続けて尋ねてきた。
怒った顔をするのも、なんだか馬鹿らしく思えた僕は、その問いには素直にうなずいた。
『うん……』
実際、お腹はぺこぺこだった。
『そっか!じゃあ、これ、やる』
彼は、肩に斜めにかけていた袋から、パンを取り出すと、僕に差し出して、にこっと笑った。
『え……でも……それ、きみのなんでしょう?』
『おれは、さっきくったからいいんだ。おまえに、やる』
『あ、ありがとう』
ずいっと付きだされたパンを、受け取って、一口かじった。
それはとても焼き立て、何て言えるものじゃなく、正直凄く硬かったけど、まずくはなかった。
『うまいか?』
『うん』
『そうか!』
彼は、僕が食べるのを、にこにこした顔で、見ていた。
僕がようやくそのパンを食べ終わったころに、彼は再び口を開いた。
『おれ、ニコル。おまえの、なまえは?』
『ぼくは、アーティ』
『アーティ、アーティ……いい名前だな!』
僕の名前を口の中で何度も確認してから、彼は嬉しそうに笑った。
その笑顔につられるように、僕も笑った。
泣きたい気持ちは、もうすっかり、遠ざかっていた。
あの時から、僕は、ニコルと一緒にいる。
出会ってから数年経った頃、僕らがいた小さな街を出て大きな街で働きたい、と言ったニコルに、ついて行ったのは、成り行きと言うか何と言うか……。
いつまでも、厄介者扱いされてる親戚の家にいる事も出来ないし、家を出なきゃいけないと思ってたから、ちょうどよかったってのも、ある。
ニコルは、父親と二人暮らしだったけど、ニコルの父はニコルに輪をかけていい加減で、しかも弱いのに博打好きと言うどうしようもなさで、そのままいたら、遅かれ早かれ、いずれ、ニコルにも災いが降りかかってきただろう。
だから、生まれ育った街を出たのには、何も異存はないんだ。
ただ、問題は、その後。
ニコルは、ちっとも、ひとつところに落ち着こうとしないんだ。
いや、落ち着きたくても落ち着けない事態にしょっちゅう陥ってしまう、と言った方が正しいな……。
すぐに、眉つばで、胡散臭い商売にひっかかって、にっちもさっちもいかなくなってしまう。
で、ようやく落ち着いてきたかな〜と思ったところで、また次の街へ、ということになる。
今度の、3カ月は、これでも長い方なんだ。
ひどい時は、1週間しかいられなかった時もあるんだから。
真面目に、こつこつ働くのが、遠回りに見えても、一番確実なんだよ、と口がすっぱくなるくらい言っても、いや、今度こそ大丈夫だって!と全く根拠のない自信を打ちだしては、止める間もなく、飛び出して行ってしまう。
どうしてニコルは、懲りる、っていう言葉を、知らないかな……。
忙しい夜の時間が終わり、今まで世話になった礼を言って、ちょっと色をつけてもらった給料をもらい、僕は店を出た。
夜風が、冷たい。
そろそろ、本格的な冬がやってくる。
何もこんな時に、次の街へ行くことにしなくったって。
いや、そもそも、選択権なんてないんだけどね……?
はあ、っと手のひらに息を吹きかけて、夜空を見上げた。
雲の隙間から、細い月がのぞいている。
店が立ち並ぶ通りを抜け、安い下宿が続く通りにくると、辺りはすっかり静かになった。
外階段を使って、部屋のドアを開ける。
この部屋とも、今夜でさよならだ。
「ただいま。用意、すんだ?」
「お帰り、アーティ。一応、全部、まとめたぜ」
ベッドに腰かけていたニコルが、床に置いた、大きめのカバンを2つ指して、答えた。
元々、物の少なかった部屋は、旅支度を済ませたせいで、がらんとしていた。
僕は外套を脱ぐと、黙って、ニコルの隣に腰かけた。
「確認、するか?」
「いい。明日の朝で。……もう、寝る」
靴を脱ぐと、ベッドに横になった。
ニコルはまだ、ベッドに腰かけている。
僕に背中を見せたままで、ニコルが話しかけてきた。
「ごめんな……いつも。今度こそは、って、思ってるんだけど……」
「うん……わかってるよ」
不毛な言い争いをしたくなくて、僕はただうなずいた。
それをどう思ったのか、ニコルは、振り返って僕を見ると、意を決したような顔で、言った。
「ここが気に入ってるんなら、アーティはこのままここに残るか?そもそも、出ていかなきゃならないのは、俺だけなんだから」
「何言ってんだよ、僕も行くに決まってるだろ」
このやり取りも、今が初めてではない。
そして、僕の答えも、毎回同じ。
「どんなに気に入った場所だって……、ニコルがいない場所になんて、いたくないよ、僕は」
ニコルのシャツの裾を、そっと握りしめて、言った。
何日間か、ふらりと姿を見せなくなるくらいなら、我慢できる。
でも、ずっと、は嫌だ。
彼が、僕を見つけてくれた、あの時から。
僕の居場所は、ニコル、君がいる場所なんだから……。
「そうか……」
「うん、そうだよ」
僕の髪を撫でながら、ニコルは身をかがめた。
額にキスして、囁く。
「俺も、アーティを残して、行きたくないって、思ってたんだ」
僕の隣にもぐりこんで、額を合わせると、ニッと笑った。
頬を撫でられて、そのまま胸に抱え込まれる。
「どこかに行く時は、いつも一緒だよな、俺たち」
「そんなの、当たり前だよ」
1週間ぶりの、ニコルの、匂いがする。
背中に手をまわして、ぎゅっとしがみつく。
ひとつところで、安定した、落ち着いた暮らしができれば、それが一番なんだろうけど。
でも、それは、そこにニコルが一緒にいることが、大前提だ。
だから僕は、君が行く場所になら、どこにだって、行く。
抱きついたまま、目を閉じた。
どこに行っても、どんな場所にいても。
この、腕の中が、僕の一番好きな、安心できる場所なんだ――――。
Fin.
Copyright(c) 2010 all rights reserved.