「マイ・ラブ! 久しぶりだね、会いたかったよ……!!」
鹿毛の馬から颯爽と下りて、両手を広げてやってきた若い男がこっちに駆けてくる。
畑で土の様子を見ていたバートは、しゃがみこんだまま、素っ気なく答えた。
「午前中に、お会いしました」
「そんなの、3時間も前じゃないか!」
バートはようやく立ち上がって、膝についた土を払う。
汚れた手をつかまれそうになったので、さっと後ろによけた。
当然、男の手はスカッと空を切ったが、めげずに、その手をバートの肩に置いた。
「ひどいよ! 僕に何も言わずに帰ってしまうなんて!!」
この世の終わりが来たみたいな、悲しみに満ちた目でバートを責める。
バートは、小さくため息をついた。
一歩、後ろに下がって、肩に置かれた手を外す。
「俺は、クリスティ様の勉強を見に行っただけで、あなたに会いに行ったわけではありませんから」
「同じ城に居るんだよ!? クリスの相手をするなら、僕の相手もしておくれよ!」
「だから……」
オールウィン家の特徴である、澄み渡った湖のような青い目で切々と訴えるように見られると、別に間違った事を言っているわけではないのに、何故か罪悪感を覚えてくる。
向こうが言っているのは、子供ですか、と突っ込みたくなるような事なのに、だ。
「俺がクリスティ様の勉強を見るのは、先代様との約束で、それはあなたもご存じでしょう」
「そうだけど……。さびしいじゃないか! クリスばっかり、ズルいよ!」
「ズルいって……。セオドア様、子供じゃないんだから」
心の中だけにとどめておくつもりの言葉が、思わず口をついて出た。
これで、このセオドアが、このあたり一帯の当代の、領主だと言うのだから、言いたくもなるというものだろう。
「バートに関しては、クリスにだって譲れないんだよ! それと、セオドアだなんて水臭い呼び方はやめて、テディって呼んでよ」
「セオドア様。それで、ご用件は?」
まるっきり無視して正式に呼ぶと、セオドアは青い目を悲しそうに揺らした。
うっかりほだされそうになるが、ここで甘い顔を見せるとつけあがらせるだけだ、とバートは心を鬼にした。
「視察を兼ねて、ここらを回っていたんだ。そろそろ、ブドウの収穫時期だろう?」
温暖なこの辺りは、質のいいブドウが取れるため、ワイン作りが盛んだ。
領主にとってワインは重要な財源だから、様子を見て回っていたのだろう。
バートに会いに来た、などと言う事を言いださなかったのには安心した。
そんな事を言おうものなら、即、追い返していたところだ。
「今年は、天候に恵まれた事もあって順調ですよ。質のいいワインが作れると思います」
「そうか。それはよかった」
にっこりと笑いあって、はたと気付いた。
バートの家のブドウ畑は、ここではない。
今いるこの畑は、土壌を改良したり、ブドウの交配を試すためにバートが使っている、少し離れた場所にある畑だった。
「ウチの畑は、向こうですが……」
「ああ。それは、先にそっちに行ったら、バートがいるのはこっちだって、アニーが言ったから」
アニーは、バートの2つ下の妹だ。
領主が来ても、バートの事は何も教えなくていい、と言ってあるのに……!
とはいえ、それが守られたためしは、めったにないのだが。
だって、あの青い目で悲しそうに見つめられたら、無視なんて出来ないでしょ? とアニーはしれっと言う。
「……とにかく、用件が済んだのなら、お帰り下さい」
そう告げて、肥料を取りに行こうと、歩き出した。
その背中に、セオドアの声が追いかけてくる。
「僕の所に、来てはくれないのかい? バート……」
足を止めて、振り返った。
「それは、お断りしたハズです。先代には、感謝しています。大学にまで、行かせていただいて……」
「そんな事は、どうでもいいんだ。だって僕が、君と一緒じゃなきゃ、都の大学になんか行きたくなかったんだから」
代々ワイン農家である家に生まれた彼が大学にまで行けたのは、ひとえに先代領主のおかげだった。
村の学校で、誰よりも勉強ができたバートを、上の学校に行かせてやりたいと言った教師の言葉に、耳を傾けてくれた。
セオドアと初めて会ったのも、勉強嫌いのセオドアに、勉強相手として引き合わされたのが最初だった。
頭は悪くないのに、決定的に集中力のかけたセオドアに、バートはいい影響を与えたようで、バートと共に学ぶようになって、セオドアの学力も向上した。
それもあって、バートは先代の援助で、セオドアと一緒に上の学校に通わせてもらったのだ。
貴族や富裕層ばかりが通う学校で、バートは居心地の悪い思いもしたが、天真爛漫なセオドアがいつも一緒にいてくれたため、思う存分学問に打ち込む事が出来た。
それには、今も深く感謝している。
恩を返さなければ、とも思っている。
それでも……。
「あなたの周りには、すでに優秀な人材がそろっているでしょう。俺には、クリスティ様の勉強を見てさしあげるので、精一杯です」
「それは違う。君は、自分の能力を過小評価しているよ、バート」
「…………」
大学まで行ったのに、農夫になるの?
アニーにも、言われた。
いいじゃないか、大学を出た農夫がいても。
それに、大学で得た知識は、ブドウの生育にも、ワイン作りにも役立っている。
そんなの、領主さまの元にいたって、出来るじゃないの。
アニーはそう言って、困ったお兄ちゃんだこと、と言って苦笑する。
往生際が悪いんじゃないの、と。
「………俺は、まだやる事がありますので、これで」
そう言って、踵を返した。
声は、それ以上、追ってはこなかった。
先日配合した肥料の詰まった袋を、よいせ、と掛け声をかけて持ち上げ、畑まで運ぶ。
土を変えた方が、きっと交配も上手くいくはずだ……。
畑に戻ってきた時には、すでにセオドアの姿は無かった。
『僕のもとで、働いてほしいんだ。秘書として。僕を支えて欲しい』
すでに引退した、先代からも頼まれた。
なのに、バートが引き受けたのは、セオドアの年の離れた弟のクリスティの勉強を、見る事だけ。
セオドアは、早々に、自分の跡は弟のクリスティに継がせると言っている。
それがどういう意味なのかを知らないものは、領民には誰もいない。
『マイ・ラブ……! 会いたかったよ、僕のバート!!』
あの領主は、人目をはばかる、という言葉を知らないからだ。
村一番の美人の、宿屋の看板娘のフラニーから、『あら、まだお城で暮らしてなかったの? もうてっきり、嫁いだのかと思ってたわ』と、朗らかに言われた時には密かにショックだった。
第一、嫁ぐってなんだ、嫁ぐって。
そう思うが、お隣のおばさんも、従弟のチャーリーからも似たり寄ったりな認識を受けている事を、最近知った。
(一体、俺何かのどこがいいんだ……?)
バートは不思議でならないのだが、そう尋ねたら、笑顔全開で、
『どこがって、すべてだよ、マイ・ラブ……!』
という言葉と共に抱きしめられたので、もう二度と聞くまい、と思った。
セオドアの事は、多少……どころじゃなく、年の割に無邪気すぎるきらいはあるが、領主としての仕事もそれなりに真面目にこなしているし、嫌いではない。
多大なる好意を寄せられているのだって、本当は、そんなにイヤでは……少なくとも、アニー相手に愚痴って見せている程には、迷惑に思っているわけでもないのだ。
だが……。
(秘書を引き受けて。ずっと、一緒に居るようになったら……)
学生の頃のように。
青い目が、自分だけを見ているのが、心地よかった。
セオドアは貴族のくせに気取ったところがなくて、誰からも好かれていた。
お高くとまった貴族だって、セオドアが笑いかけると、険が取れて柔らかくなった。
今だって、気さくにあちこちに出歩いて、声をかける領主として、領民に愛されている。
学生の頃は、よかった。
身分が違うと分かっていても、それでも『同じ学生』だったから。
だけど、今は違う。
領主と、領民。
貴族と、農夫。
それでも、よかった。
遠くから姿が見られて、時々声をかけてもらって。
その方が、よかった。
だって、秘書として傍に居たら、違う事を意識しながら、それでも傍にいなければならないではないか。
学生の頃だって、セオドアとバートの身分の違いを口にして、彼らが親しい事を揶揄する者がいた。
そんな風に、セオドアが言われるのは、嫌だ。
だが、バートが傍に居れば、セオドアはいつでも、誰よりも親しい者としてバートを扱うだろう。
隠すそぶりさえ、見せないで。
(囲い者になりたいわけじゃないけど……)
もうちょっと、人目をはばかって、控えめにして欲しい、とは思う。
だからバートは、釣り合いを保つべく、必要以上に素っ気なくせざるを得ないのだ。
バートだって、セオドアの青い目が悲し気に伏せられるのを見たいわけではない。
「あら、お兄ちゃん。セオドア様、来なかったの?」
アニーがやってきて、あっけらかんとした口調で尋ねるのに、バートはぶすっと答えた。
「来たよ。ってかアニー。いちいち、俺の居場所教えなくてもいいんだよっ!」
「えー。だって、あんなに切なそうに聞かれたら、知りません、なんて言えるわけないじゃない」
「それでも、言わなくていいんだ!」
「ったく、お兄ちゃんったら……」
アニーは苦笑すると、はい、と言って、カゴに入っていた瓶を渡した。
「お兄ちゃんが交配した、早摘みのブドウで作ったワイン。さっき渡し忘れたの。領主さまに、どうぞって」
「アニー……」
「お兄ちゃんは、つまんないことに、こだわり過ぎだと思う」
「うっ……」
身内だからか、アニーは容赦なく、バッサリと兄を切り捨てた。
こだわっているのは、バートだけ。
セオドアはもちろん、先代も、弟のクリスティも、その他の領民たちでさえ、何もこだわっていない。
セオドアの人徳なのか、あの性質は周囲に伝播するのか、セオドアがあまりに大っぴらに愛を謳うので、もうそういうものだと認識されている。
クリスティという後継が決まっていることも大きいのだろうが……。
(だからって、俺が全然、気にしないって言うのもどうなんだ……)
セオドアの事は、嫌いじゃない。
嫌いじゃない、むしろ……。
「わかった。いってくる」
瓶を受け取って、観念したように、バートは言った。
あの、時々鬱陶しいくらいのまっすぐな愛に。
いつかは、逃げないで、正面から向き合わなければならないのだろう。
バートは畑を後にして、歩き出した。
「がんばって〜!」
アニーが、後ろで手を振って応援している。
それをちらっと見て、他人事だと思ってるな、アニーのヤツ、とこっそりぼやいた。
領主の城に行くのなら、一度家に帰って、馬を取ってきた方がいいだろうか、と思いながらしばらく歩いた頃。
見覚えのある、鹿毛の馬が道のわきで、草を食んでいた。
当然、その傍には……。
「か、帰ろうと思っていたんだ! だけど、ダンテがどうしても、道草したいってきかなくて……!」
「道草の意味が違いますよ、セオドア様。……だけど、ちょうど良かった」
「え?」
また何か冷たい事を言われるのだろうと身構えていたセオドアは、バートの思わぬ返事にぽかんとした顔をした。
それを見て、バートはくすっと笑った。
「新しく交配した、早摘みのブドウで作ったワインです。あなたに、飲んでもらいたくて……」
そこでいったん言葉を切って、小さく息を吸い込んだ。
「もう少し、あなたと話したいんです、セオドア様。城まで、ご一緒しても構いませんか?」
緊張して声がこわばるかと思ったら、自然と柔らかい笑みがこぼれた。
セオドアは何か眩しいものでも見るように、バートの顔を見てから、急いで答えた。
「もちろんだ! もちろんだとも、マイ・ラブ……!!」
セオドアは馬に乗らずに、手綱を引きながら、バートと並んで歩きだした。
それに合わせて、バートもゆっくりと歩く。
少しでも、城につくのが遅くなるように。
Fin.
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