薄暗がりに、幻のように砂時計が浮かびあがった。
「この砂がすべて落ちるまでに、われの問いに答えよ。さすれば、そちの願いをかなえてやろう」
洞窟の奥から、かすれた低い声が響いてくる。
姿は見えず、相手が男なのか女なのかもわからない。
「ただし、答えられなかった時は、その命、魔力ごと奪う」
さあ、どうする――?
問いかけに、エリアスは軽く息をのんだ。
ここまで来て、今さら引き返すわけにはいかない。
協会が引き受けた、正式な依頼だ。
ふもとの村人たちは、いつまでも降りやまぬ雨に困り果てている。
このままでは作物はすべて根腐れしてしまうだろう。
答えは、最初から決まっている。
「わかった」
エリアスは覚悟を決めて、空に浮かぶ砂時計を見つめ、返事をした。
その山には昔から、女神がいるとも魔物がいるともいわれ、ふもとの村人たちから恐れられていた。
女神と魔物では、ずいぶん違うじゃないかと思うのだが、山に住まう何者かは、雨をもたらす存在でもあるらしい。
確かにこのあたりで、日照りが起きたと言う話は聞かない。
国中が雨不足で乾いていた時も、ここだけは、雨の恵みがあったのだと言う。
反面、一向に雨が降りやまぬ時もある。
それがここ数年は頻繁で、今年は特にひどく、もう2カ月も雨が降り続いているのだそうだ。
土地柄、雨に強い作物を育てているとはいえ、日の光をあてずに実りの時を迎えることは不可能だ。
困り果てた村人たちは、ついに協会に調査を依頼した。
そしてやってきたのが、魔導師のエリアスだった。
エリアスは、村人もめったに足を踏み入れない山にひとり分け入った。
村では篠突く雨だったのが、山では霧のように細かい小糠雨だった。
確かに、この山には何がしかの力が働いているようだ。
「オレひとりで、大丈夫だったかな……」
今さらだが、にわかに不安になってくる。
協会は常に人で不足だ。
本来なら2人1組で行動するところを、1人で行動することもしょっちゅうだ。
今回も、もうひとりの都合がつかなかったので、エリアスだけで来たのだが、やはりもうひとりいた方がよかったかもしれない。
魔物絡みとはいえ、あくまで『かもしれない』話で、村人がその姿を見たり、怪我をしたりしたわけではないからと軽く考えていたのだが……。
「これ……結構、濃厚な気配だよなあ」
人のめったに訪れない山、という空間だからだろうか。
どこにでもかすかな魔力は、それこそ空気と同じように街中でも漂っているのだが、ここは特にその濃度が高い。
魔力に対し、免疫のない者が来たら、気分が悪くなってしまうだろう。
だからこそ、恵み豊かそうな山であるのに、人が近づかないのだ。無意識に、避けてしまうから。
エリアスは、村で代々、宿屋をやっているという老爺から預かってきた物を上着のかくしからそっと取り出した。
「もし、これが本物なら……」
これが本物なら、きっとこの山には、魔物はいるのだろう。
もしかしたら、女神も。
だとしたらこの雨は、女神の怒りなのか。
それとも、悲しみだろうか――――。
話に聞いていた通り、山の頂上付近には洞窟があった。
草にまぎれて、言われなければ見過ごしてしまいそうな場所に、ひっそりと穴があいている。
だが、聞いていなくても見逃しはしなかっただろう。
なぜなら、この場所から一番、魔力の気配が濃密に漂っていたからだ。
おそらくこの奥に、いる。
雨をいつまでも降り続かせている、存在が。
エリアスは慎重にその洞窟の中へと足を踏み入れた。
初夏だと言うのに降り続く雨のせいで、肌寒かったのだが、洞窟内部はほんのりと温かい。
魔力で、一定の温度に保たれているのかもしれない。
洞窟はそれほど深くはなく、しばらく進んだところで、声が聞こえてきた。
「………何者だ」
よく耳を澄ましていないと聞こえないくらい、細い声だった。
(魔物……なのか?)
姿が見えないため、声だけではよくわからない。
声の調子では、いきなりこちらを襲ってきそうな雰囲気はないが、油断はできない。
エリアスはどう言えばいいのか少し迷ったが、結局、正直に話すことにした。
小手先に何かして、かえって怒らせてしまうのもまずい。
「ふもとの村で、雨がもうふた月も続いている。自然の雨じゃない。たぶん、ここの魔力が関係している。雨を止めてもらえないか」
簡潔に用件を述べた。
姿の見えない何者かは、しばらく答えなかった。
このまま、この洞窟の主と戦うことになるのだろうか。
エリアスがそう思った時、目の前に幻のように砂時計が現れたのだ―――。
「質問は……?」
エリアスは尋ねた。
どうしても答えられないような、最初からこちらの命を取ることが目的の質問の場合、すぐに反撃に出なければならない。
エリアスは魔術師の証である左腕のサークルをそっと握った。
洞窟の奥から、声が返ってくる。
「われの名を、当ててみよ」
姿も見せない、男か女か、人間なのか魔物なのかもわからない相手の、名前。
本来なら、到底答えられない質問の―――はずだった。
エリアスは驚いて、胸のかくしに手を当てた。
(まさか……本当に?)
かくしポケットから、宿屋の老爺から預かってきた物……指輪を取りだす。
爪の先にぽっと光りを灯して、指輪の内側に書かれていた文字を読む。
『アマン エレ カトリネ』
さらさらとこぼれていた砂時計の砂がぴたりと止まると、煙のようにかき消えた。
息をのむ音が、薄闇の向こうから聞こえてきた。
「なぜ……! なぜ、そちがわれの名を知っておるのだ……!?」
洞窟の奥から現れてきたその姿に、エリアスは驚いて目を見張った。
不思議な水色の長い髪に、金色の瞳。
透き通るような白い肌に、薔薇色の頬。
(女神……!? いや、違う………)
残念なことに、簡素な白い足首まである服には、女性らしい丸みがどこにも見当たらない。
だが、男にしては、いや人と呼ぶにはあまりに美しく、そう言う意味では目の前の存在は人ではあり得なかった。
「われの名は、かかさまと、ととさましか知らぬはずじゃ! かかさまはもうずいぶん前に、異界に帰ってしまわれた……。そち、ととさまに会ったのか!? ととさまはどこじゃ!?」
必死に詰め寄ってくるその様子は、幼い子供のようだった。
実際、身長も低い。人間で言うなら、13、4くらいだろうか。
古風な言葉づかいをしていることと、やけに美しいことをのぞけば、まだ学校に通っている年齢だろうか。
「おい、答えろ! 答えぬか!!」
そでを引っ張って揺さぶられ、エリアスはようやく我に返った。
どんな恐ろしい魔物が出てくるのかと思っていたら、女神もかくやという美しい子供が出てきてぼうっとしてしまった。
今までずっと、緊張し通しだったので、その反動でもあるのだが………。
「ええと、落ち付け、アマン。オレがお前の名前を知っていたのは、これのおかげだよ」
そう言って、エリアスはアマンの手を取って、持っていた指輪を握らせた。
アマンは、食い入るように指輪を見つめた。
「これは……」
「中に、字が書いてあるだろう。古代文字で。『わがいとしの息子、アマン エレ カトリネ へ』」
「ととさまの字じゃ! そち、ととさまの使いか! ととさまはどこじゃ?」
顔をあげて、嬉しそうにアマンが尋ねる。
エリアスは、これから告げる残酷な事実に束の間ためらい、やがて口を開いた。
「……それは、ふもとの村で代々宿屋のじいさんが、子供の頃にじいさんから託されたものだ。そのじいさんのじいさんが若い頃、山に続く村の道で倒れていた男を介抱して、その男から指輪を預かったそうだ」
「では、村のその宿とやらにおるのか!?」
「男は、結局、助からなかったんだ。熱が高くて……当時の流行病だったらしい。だから宿屋の亭主に頼んだんだ。この指輪を、山の洞窟に住む息子に届けて欲しい、と」
仮に助かっていたとしても、もう100年は昔の話だ。
魔物ではなくただの人間だったと言うその男が、今も生きているわけはない。
「ととさまは、死んだのか……?」
すとんと抜け落ちた表情で、アマンは呟いた。
質問と言うより、確認の響きを帯びていた。
エアリスは黙ってうなずいた。
「そうか、そうだったのじゃな………」
アマンはエリアスから離れると、力なくうつむいた。
そして、ふと気付いたように顔をあげた。
「ああ……。そちの願いをかなえねばならなかったな。雨を降り止ますのであったか」
視線を遠くにやって、アマンはふっと笑った。
悲しげに、泣くのをこらえるように。
「……すまぬ。われにはその願い、叶えることはできぬのじゃ。われはかかさまに比べ魔力が弱く、扱いも上手くない。かかさまが異界に帰ってしまわれてから、ずっとここで、ととさまを待っていた。ととさまが戻ってくれば、かかさまもまた異界より戻ってこられよう。そう思って……」
そうか、とエリアスは気づいた。
異界には、生身の人間が行くことが出来ない。
父親が人間であるアマンには、母親について異界に行くことはできなかったのだろう。
だからここでずっと、父親を待っていたのだ。
いつかまた、家族3人で暮らせる日を夢見て。
この止まない雨は、人間と魔物の混血である精霊人であるがゆえの不安定な魔力が、暴走した結果なのだろう。
「われの名を知る者は、この人の世ではととさましかおらぬ。だから、決して答えられぬ問いをしてやれと思うて……それで追い返してやろうと……」
アマンはうなだれて、もう一度すまぬ、と謝った。
ならば、最初から命など奪うつもりはなかったのか。
エリアスは拍子抜けすると共に、この小さな――いや、実際に生きてきた年数を思えば、エリアスよりずっと年上なのだが――魔物が可哀そうに思えてきた。
彼はずっとここで、帰ってくるはずのない父親を待ち続けていたのだ。
この、おそらく母親である魔物――彼女こそが、言い伝えの女神なのだろう――が残して行った魔力を使って。
(魔物は長命だと言うが、人との混血である精霊人の寿命は、人間よりもわずかに長いくらいだ。きっとこの子は、父親を待つために魔力で時を止めたのだろう)
普通の精霊人よりはずっと魔力が強いようだが、精霊人だけの力でこんなことはできない。
母親の残して言った魔力――たぶん、あの砂時計がそうなのだろう――で、なんとか時を止めていたに過ぎないのだ。
そしてそのひずみが、この降り止まぬ雨なのだ。
エリアスは今、この子供のたったひとつの希望を打ち砕いてしまったのだ。
胸が痛んだが、それと協会への依頼は別物だ。
元々、本当にこの地に魔物がいるとは思っていなかったので――魔力が原因にしても、誰かが行った魔法の反作用くらいだろうと――ひとりでやるつもりではいたのだ。
天候を操る魔法はエリアスの得意とするもののひとつだ。
ただ、このように人の手によるものではない、魔物の持つ純粋な魔力で引き起こされた歪みをエリアスひとりの力で正すのは、かなり厳しい。
魔力に魔力をかけるのは、相当高位の魔導師でも難しいのだ。
……しかし、ここには精霊人である、アマンがいる。
(話にしか聞いたことないけど。やってみるか……)
精霊人はそもそも数が少なく、その実態も明らかではない。
魔物との間に子をもうけたことを隠すものも多いし、その力の現れ方もまちまちなのだ。
だが、村をこのままにしておくわけにはいかない。
「アマン。雨は、オレがなんとか止めてみせる。だから、協力してくれないか」
「どうやって……?」
「手を貸して」
エリアスは、アマンの華奢な手を取ると、額に押し戴いた。
驚いたのか、目を丸くしてエアリスを見るアマンが可愛い。
エアリスは思わず笑って、それから慌てて顔を引き締めると説明した。
「目をつぶって。身体の中の魔力を、目と目の間に溜める感じで、それからゆっくりおろして、オレが握っている手から、オレに流し込んでみて。少しずつ、少しずつ……」
「う、ん………」
戸惑った声をあげつつも、アマンは素直にエリアスの言うことを聞いた。
本当に上手くいくのか、気持ちとしては半々くらいだったが、エリアスはやがてアマンの手が触れている額が、ほんのりと熱を帯びていくのを感じた。
あたたかい波が、身体の中に満ちていく。
このまま魔力を溜めていけば、自分ひとりでもなんとか、雨を止ませることができるだろう。
エリアスは、口の中で小さく呪文を唱え始めた………。
薄暗い洞窟を出て、エリアスはあまりの眩しさに目を細めた。
陽射しがまぶしい。雨はもうすっかり、止んでいた。
「ありがとう、アマン。これで上司にどやされずに済むよ」
万年人で不足だが、失敗すると報酬が半分になってしまうので上司は常にやかましい。
特にエリアスの上司は小うるさく、依頼をこなせませんでした、などと言おうものなら何と言われるかわかったものではない。
今回もどうにか依頼を無事こなせて、エリアスはほっとしていた。
「礼など……。もとはと言えば、われのせいだったのだし……。われは出来もせぬことを叶えると言うてそちを騙したのだし……」
確かにその通りなのだが、こんな子供を捕まえて、よくもやってくれたな、と言えるはずもない。
それよりも……。
「それこそ、今さらだよ。雨を止ませられたのは、アマンの協力あってのことだったのも事実だし。それより……君は、これからどうするんだ?」
洞窟でずっと、帰ってくるはずのない父親を待っていた、小さな魔物。
これからもずっと、この場所でひとり、家族への思い出を抱えてここでひとりでいるのだろうか。
それは、いくらなんでも寂しすぎないか……。
「君が、アマンがよかったら、なんだけど。オレと一緒に協会にこないか? 協会って言うのは、魔導師たちの元締めみたいなところで……。人遣いは荒いけど、魔力を持っている者には暮らしやすい場所だよ。そこでなら、君の魔力をコントロールする術も教えられるし。どうかな?」
「…………」
言ってから、ちょっと強引すぎたかな、とエリアスは不安になった。
こんな場所にいつまでもアマンをひとりでいさせたくない、と思ったのも本当だが、ここは彼にとって大事な場所でもあるのだ。
アマンはしばらく黙って考えるそぶりを見せると、エリアスを見上げ、そして顔を反らして、小さな声で尋ねた。
「われが、そちについて行っても……迷惑じゃ、ない……?」
伏せたまつ毛が長いことに気づいて、エリアスは何故か動揺した。
明るい日差しの元で見るアマンは、薄暗い洞窟で見る何倍も、美しかった。
エリアスは急激に胸に込み上げてきた衝動を打ち消す様に、大きな声で言った。
「もちろん! 迷惑なんかじゃない! むしろ……むしろ、とても嬉しいよ、アマン」
「そうか。ならばそちについて行こう。ととさまが……ととさまが帰ってこぬのなら、われはもう……ひとりでいるのは、飽いてきたのじゃ」
寂しいと、もうひとりでいたくないのだと。
洞窟の奥でひっそりと時を止めていた幼い魔物……人との混血である精霊人の、それは思わずこぼれた本心だった。
エリアスは不意に優しい気持ちになって、アマンに微笑みかけた。
「そうだね。ひとりでいてもつまらない……オレも、ずっと、君みたいな相棒が欲しいと、思ってたんだ」
「相棒?」
「そう。オレたちの仕事は、本当は2人1組なんだ。なのに何故か、オレはひとりで仕事に行かされることが多くて……」
「そうなのか。それは難儀じゃな。よし、これからはわれがそちの、助けになってやろう」
アマンは嬉しそうに笑って、マントの裾をつかんでエリアスを見上げる。
さらさらと、砂時計の砂が、流れ出す。
ずっと止まっていたアマンの時が、ようやく今、動き出したのだ。
エリアスは彼に笑い返すと、そっとマントから手を離させて、その小さな手を握った。
そして雨上がりの山道を、ふたり仲良く、おりていった。
空には、山とふもとを繋ぐように、大きな虹が架かっていた。
Fin.
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