025: 残ったもの



「なんだ。お前、まだいたのか」

 応接間の扉が開き、廊下に出てきた主と出くわして、オレは一歩下がって頭を下げた。
 不思議そうな顔で問われ、うすうすそうだろうなあと予想してはいたものの、やっぱりちょっとがっくりくる。
 オレは顔をあげて、答えた。

「ええ、いましたよ。悪かったですか?」
「別に、悪くはないが……。変わったヤツだとは思った」

 そして、真顔でそんな事を言う。
 ああ、わかってたさ。
 ここでこの主が『お前が残っていてくれたなんて……!』と、涙に目を潤ませて言うような方ではないって事は。
 または、『なんで出て行ってないんだ! さっさと出て行け!』と、怒鳴り散らすような方でもないって事も。
 だけどもうちょっとぱっかし、言いようがあるって思うんですけど。

「そうか。お前は、残ったのか………」

 そう言って彼は、ゆっくりと、あたりを見渡した。
 何もかもが持ち去られて、空っぽになった屋敷の中を。
 かつてここは、オレを含めてたくさんの使用人が忙しく立ち働く、貴族の屋敷だった。
 イヤ、今だって貴族の屋敷だ。
 この方はまだ、ここを立ち去っていないのだから。

「取りはぐれた給金をもらおうと思っても、残念ながら私のポケットには何も入ってないぞ」

 オレに視線を戻して、彼――屋敷の主は言った。
 それに、俺はそっけなく答えた。

「そんなもの。最初から、期待してませんよ」
「そうか。お前はやっぱり、変わったヤツだな」

 主はそこで初めて、笑みをこぼした。
 おかしくてたまらない、と言うように。
 はしばみ色の瞳には、すっぱい葡萄でも食べたようなオレの顔が映っている。
 そんなに笑うような事か?
 普段ほとんど笑わない方なのに、何かひとつ、ツボにはまると笑いが止まらないらしい。
 すでに目じりには、うっすらと涙が浮かんでいる。
 いつもなら、ずっと見ていたいと思う彼の笑顔だったが、今ばかりは違う。
 いつまでも笑い続けている彼に焦れて、俺は尋ねた。

「言わないんですか」
「何を?」
「早く、出て行けって」

 もうこの屋敷に残った使用人は、オレひとりだ。
 この家が傾き始め出すと、それまでの恩など忘れたように、蜘蛛の子を散らすように使用人たちは去って行った。
 それでも残っていたものは、古くからいて先代からの忠義を尽くしている者や、ここ以外にはもうどこにも行くところがない者くらいだった。
 だが、それらの者にも主はわずかばかりの――この家の財政状況を思えば、それでも精一杯の――金を持たせて、暇を出した。
 当然オレも、その金をもらって、暇を言い渡されている。
 だけどオレは、ここを立ち去らなかった。

「………出て行きたいのか?」

 なのに彼は、そんな矛盾した事を、逆に問い返してきた。
 そんなの、言われるまでもなく決まっている。
 オレは迷う事なく答えた。

「出て行きたくありません。ここを出て行ったら……、あなたが、どこにいるのか、わからなくなってしまう」

 屋敷は、すでに人手に渡っていた。
 諸々の事務手続きや後片付けを、使用人で一番の古株の家令と共に済ませてしまったら、彼もこの屋敷を立ち去らなければならない。
 その家令の姿も、もう見えなくなっていた。
 本当に誰も……誰も、いないのだ。
 とうにいなくなっていなければならないオレと、住み慣れた屋敷を立ち去り難く思っているのだろう、彼以外には、誰も。

「私の居場所がわからなくなると、お前は困るのか?」
「はい」

 彼は、オレのすべてだった。
 親を亡くし、同時に居場所をなくしてしまったオレに、食べ物と、住むところと、働き口を与えてくれた。
 それがたとえ、貴族の子どもの気まぐれにすぎなかったとしても、オレは構わなかった。
 オレは彼に、一生尽くそう、と決めたのだ。
 あの雪の日に、オレの冷たい手を取って、あたたかい手袋でくるんでくれた、あの時から、ずっと。
 それは彼が何もかも失くしてしまったからと言って、たやすく変わるようなものじゃない。

「そうか……それは、困ったな」

 はしばみ色の瞳を細めて、彼は小さく首をかしげた。
 面倒な事になったとでも、思っているのだろう。
 困らせているのだとわかっていても、オレはオレの誓いを撤回しない……出来ない。
 誰にも告げたことのない、オレひとりだけの誓いだったけど。
 主の顔をまっすぐ見ることが出来なくて、オレはうつむいた。
 何か言われるのが、怖かった。
 それとも、何も言わずに立ち去ってしまうのだろうか。
 オレを置き去りにして……。
 胸に、冷たい氷の矢が刺さったようだった。
 これからずっと、この凍えた穴を抱えたまま、ここではないどこかで生きて行かなければならないのだろうか。
 それならいっそ、死んだ方がましだ……。

「じゃあ、連れて行くしかないな」

 何気なく、ぽつりと落ちてきた言葉に、オレは思わず顔をあげた。
 はしばみ色の瞳が、オレをまっすぐに捕らえていた。

「私も、お前も。ここに残る事は、出来ないのだから。だったら、一緒に行くしかないだろう?」

 至極当然な事のように言って、彼はオレの手を取った。
 あの、雪の日のように。
 そうだ、あの時も彼はそれが当たり前の事のように、オレをこの屋敷へと、連れて来たのだった。

「………はい」

 うなずくと、そのままつかんだ手を引き寄せられて、背中に手をまわされた。
 何かを確かめるかのように、両手で、背中を撫でられる。
 鼻の下で、彼の細い金茶色の髪が揺れて、くすぐったい。

「ぜんぶ、なくしたと思っていた」

 肩口に顔をうずめるようにして、彼はつぶやいた。
 ぎゅっと、オレの上着をつかんで。

「………ちがったんだな」

 溶けて消えてしまいそうな、小さな声。
 でもオレの耳には、水になって消えてしまう前に、ちゃんと届いた。
 だから、オレはうなずいた。
 彼の背中に、しっかりと腕をまわして。

「オレはずっと、あなたのものです」

 あなたがこれから、何をなくしたとしても。
 オレはずっと、あなたのそばに、残り続ける。


Fin.


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