家庭教師が来る時間が近づいても、お屋敷の若様が見当たらない。
そんな時、使用人たちが頼るのは執事でも家政婦頭でもなく、馬番のヒューだった。
「若様。 そろそろ行かないと、家庭教師にまた泣かれますよ」
「いいんだよ、泣かせとけば。それより、何度言えばわかるんだ?ジャスパーって呼べって言ってるのに」
「若様。このままサボったりしたら、二度とここには入れませんから。若様が来たら、馬が蹴りだすように調教しておきます」
「だから、ジャスパーって……ああもうっ!わかったよ、行くよ、行けばいんだろ!」
馬小屋の隅に積んであった干しわらの山から、ジャスパーはひょいと飛び降りた。
わらくずを、ぱんぱんと勢いよく叩いて服から落とす。
そのまま馬小屋を出て行こうとして、立ち止る。
ジャスパーの兄がお気に入りの赤毛の馬の蹄鉄の具合を、屈みこんで見ていたヒューに近づくと、背中にしがみついた。
ひざまずいたので、ズボンがまた汚れたけど、構わなかった。
「……若様?」
ヒューが驚いて振り向いたのがわかったが、ジャスパーは彼の背中に顔をうずめるようにして、尋ねた。
嘘であって欲しいと、思いながら。
「家を辞めるって……本当なのか?」
「ああ、聞かれたんですね」
「じゃあやっぱりホントなんだ!なんで……、どうしてだよ……っ!?」
あまりにもあっさりとうなずかれて、顔をあげたジャスパーは、怒りよりも悲しみで胸が詰まりそうになった。
涙がこぼれ落ちそうになって、慌てて下を向く。
ここで子供みたいに泣くなんて、あまりにみじめで、みっともなさすぎる。
だけど、理由を聞かずにはすませられない。
少なくとも、ジャスパーにはその権利があるはずだ。
だって、ジャスパーとヒューは、単なる雇用関係―――ヒューを雇っているのは、正確にはジャスパーの父親だが――では、ないのだから。
一か月前に、一大決心して告白して、ヒューはイエスと答えてくれたのだから……。
最初は、馬が見たいだけだった。
大きくて優美なその姿が、大好きで。
寡黙な馬番の男はジャスパーが来ても、邪魔にしたりはしなかったので、心おきなく馬を眺めていた。
やがて、馬番は自分の息子を連れてくるようになった。
足を悪くしたので、末息子のヒューに仕事を引き継ぐことにした、という。
馬が見られたらそれでよかったジャスパーは、きちんと馬の世話をしてくれる者であれば、誰が馬番でも構わなかった。
それなのに、いつの間にか、目当てが変わっていった。
馬よりも、馬番のヒューに会いに来るようになっていた。
きっかけがなんだったのかはわからない。
年の離れた兄とめずらしくケンカした時、黙って話を聞いてくれた時かもしれないし、栗毛の馬に乗せてもらった時かもしれない。
(栗毛の馬は、気難しくて、父以外をめったに背中に乗せようとはしない)
いつ馬が好きになったのか、覚えていないのと同じだ。
黒い髪と青い目を持つ青年の、広い背中を、気がつけば目で追っていた。
想いを告げて、受け入れられた時は、天にも昇る気持ちだった。
嫌われてはいないだろうと思っていたが、こたえてもらえるとも思っていなかった。
だけど、たとえ気持ちを告げることで嫌われてしまったとしても、このまま想いを閉じ込めたまま、ヒューの傍にいることは出来なかったのだ。
気付いてしまったら、言わずにはいられなかった。
ヒューが、好きだと。
「別れるなんて、聞いてない……っ」
「別れません。お屋敷での勤めを辞めるとは言いましたが、あなたと別れるなんて、俺は言ってないですよ」
「え……」
ヒューが屋敷を辞めると言うことは、イコール、自分と別れると言う意味だと思っていたジャスパーは、虚をつかれたように再び顔をあげた。
ヒューの青い目が、どこかおかしそうに、ジャスパーを見ている。
体の向きを変え、ジャスパーの目を正面から見つめ直し、ゆっくりと繰り返した。
「お屋敷は、辞めます。このままだと、旦那様の信用を裏切りかねないので。だけど、あなたとは別れません」
「それって……」
「言ったでしょう?俺は、あなたが好きだって」
大きな手のひらで、頬を包むように撫でられて、ジャスパーはようやく、ヒューが本当のことを言っているのだとわかった。
わかったが、新たな疑問が口をついた。
「僕が好きで、別れなくて……だったらどうして、この屋敷を辞めるの?」
信用がどうとかって、それは一体、どういう意味なのだろう。
ヒューが屋敷を辞めることと、どう繋がっているのか、さっぱりわからなくて、ジャスパーは首を傾げた。
「もしかして若様は忘れていらっしゃるかもしれませんが、俺はここの馬番として雇われているんです。仕事は馬の面倒全般です」
「忘れるわけないだろ。わかってるよ」
「いいえ、わかってないです。本来は、若様はこんなところに来て、干しわらまみれになってちゃいけない方だ」
「そんなこと言ったって、ここに来なきゃ、ヒューにも馬にも会えないよ!」
「若様が馬好きなのは大変結構ですが、馬番は好きになっちゃいけないんです」
「なっ……!なんで、今、そんなこと言うんだ!?俺のこと、好きって、言って、くれたのに……っ」
引っこんでいた涙が、またあふれ出しそうになった。
しずくがこぼれ落ちる前に、ヒューの広い胸に抱きしめられた。
「悪い。泣かせるつもりじゃ、なかったんだ」
「ヒュー……?」
「俺の片思いのままだったらよかったんだ。俺はただ、あんたを見ているだけでよかった。手に入らないって、分かってたから」
「そんなの、僕が嫌だよ」
「俺だってそうだ。あんたの俺への気持ちを知っていて、見ているだけなんて」
ヒューの言葉が、ふたりっきりの時の、くだけたものに変わっていて、胸が熱くなった。
名前を呼んでくれた方が嬉しいけど、ヒューに、あんた、って呼ばれるのも嫌じゃなかった。
「つ……、付き合ってるんだから、別に、見てるだけ、じゃなくてもいいんだけど……」
「そういうわけにもいかねえだろ」
ヒューはジャスパーを抱きしたまま、立ちあがった。
背中に回していた腕を肩に置くと、額と額をこつんと重ね合わせて、何かをこらえるような、低い声で言った。
「このままここで俺が働き続けたら、きっといつか終りが来る。何より、旦那さまを裏切るようなことはできない」
「僕と付き合うことが、父を裏切ることになるのか?」
「オヤジの代から世話になってるんだ。つうか、俺があんたと付き合ってるってバレたら、オヤジからもぶん殴られるな……」
「そんな……!好きだって、付き合ってって、最初に言ったのは僕だ」
「断ることもできた。むしろ断る方が、賢明な判断だっただろうな。俺にとっても、あんたにとっても」
「気持ちを偽ることが賢明?そんなの、欺瞞だ」
「あんたなら、そう言うだろうな」
「だったら……」
「ああ。今さら、俺たちの気持ちを偽ったりなんか、出来ない。だから、辞めることにしたんだよ。少なくとも、使用人、という立場で、これ以上、あんたとどうこう出来ないからな」
「……ヒューって、思ったより律儀なんだね」
「なんだよ。へたれって言いたいのか?」
「ううん。なんかね、びっくりした。思ってたより、ずっと真面目に、僕とのこと、考えてくれてたんだなあって……」
「当たり前だろ。これから先の方が、長いんだから」
ヒューは顔を離すと、至近距離からジャスパーの目をまっすぐに見て、言った。
「これから先……、うん、そうだね!」
ヒューの湖のように澄んだ青い目の中には、ちゃんと、ジャスパーが映っている。
霧が晴れるように、くすぶっていた不安が消えていった。
「ジャスパー様……!授業はとっくに始まってますよ〜!!」
家庭教師の声が屋敷の方から聞こえてきて、ヒューはジャスパーの背中を押した。
「ほら。早く行かないと、宿題がたんまり増えて、ここに来る時間がなくなるぞ」
「うわ、それは勘弁……!」
かけ出したジャスパーは、馬小屋の外で立ち止まって振り返ると、念を押した。
「辞める日とか、次の勤め口とか、連絡先とか。今度は真っ先に教えてよ!」
他人の口からそんな大事な事を耳にするなんて、もうごめんだ。
ヒューは馬小屋の入り口で、眩しそうにこちらを見ると、はっきりとうなずいた。
「誰よりも先に、ジャスパーに言うよ」
「絶対だよ……!」
気難しい栗毛の馬がいなないて、ヒューは小屋の中に戻っていったため、返事は聞けなかった。
だけどジャスパーは、お気に入りの青毛の馬と同じくらい、いやそれ以上に、恋人を信頼していたので、そのまままっすぐに屋敷に向かって走って行った。
Fin.
Copyright(c) 2010 all rights reserved.