天地を作りし神々が、地上から立ち去って長の年月が過ぎた。
ほとんどの神は天へと帰っていったが、ごくわずかな神は地へととどまった。
これはそんな、気まぐれに地にととどまった、ひとりの神の話。
「ワレの元へ来る気になったか、タケル」
ふわりと背中が重くなったと思うと、白銀の髪が頬をくすぐった。
猛はつきそうになったため息を押し殺して、答えた。
「いいえ……っていうか、重いです、どいてください」
「なんじゃ。つれないのう、お前は」
そう言いながらもどいてくれた彼は、猛の横で、つま先で草の波の上を触れるように歩いている。
体重を全く感じさせない歩き方だ。ほんとうは、さっきもちっとも、重くなんてなかった。
猛は横目でちらりとそれを眺めて、何度見ても信じられない光景だ、と思った。
「どうした、タケル」
「いえ……」
白銀の髪がさらりと揺れると、一緒に光がこぼれる。
淡く発光する、透ける身体。
だが彼の正体は、幽霊ではない。
「今日は何をするのじゃ、タケル」
「腰に弓があるのが見えるでしょう。猟ですよ」
「む。殺生か」
「そんな顔されたって、人はあなたみたいに霞を食って生きてるわけじゃないですから」
「何を言う。ワレは霞なぞ食っておらんぞ」
「それでは、何を」
「むろん、決まっておる」
彼は、猛の前にまわると、胸を張って答えた。
「ソチがワレをオモウ真心じゃ!」
「…………」
やけに自信満々に言われ、猛は何だかげっそりした心持ちになった。
それは確かに、間違ってはいない。
間違ってはいないが……。
「そう言う事は、自分で言うものじゃないと思います、ヒメガミ様」
「ナキヤでよいと言うておるではないか、タケル」
「ナキヤヒメガミ様」
猛は、彼の名前を正しく呼んだ。
ナキヤヒメガミ―――ヒメガミ様は、猛が住まうここら一帯の土地を守護する神だ。
天に帰らなかった、気まぐれな神々の一柱。
青々とした緑連なる深い森と、清い川の流れ。
姫神に守護されたこの地は、温暖な気候にも恵まれ、豊かな恵みがあった。
その加護は深く、戦乱の世にあっても他国からの蹂躙を寄せ付けることもなかった。
白銀の毛並みが美しい狐の姿を取るとも言われるその神は、この地を深く愛しているが故に、天へと帰らなかった言われる。
美しく、慈悲深い―――姫神様。
「ナキヤ、だ。タケル。大体、ワレはヒメではないのじゃからのう」
「お言葉を返すようですが、ウチの一族が代々信仰してきたのは、ヒメガミ様です」
「そうよ、そこよ。全く、『タケル』のヤツは、何を考えておったのかのう……」
ヒメガミ様は、とん、と軽く草を蹴ると、木の枝に腰かけた。
風にふわりとなびく髪は高貴な姫君よりも美しいが、すとんとした白い貫頭衣に女性らしい凹凸はどこにもない。
「ヒメ様のように愛らしい、とはよう言われたものじゃが」
「たぶん、先祖の目が曇っていたのだと思います」
「むむ。相変わらず、ソチは憎らしいことばかり言うのう」
枝から葉っぱをむしると、ヒメガミ様は猛に向かって投げつけた。
それはふわりふわりと飛んできて、猛の髪に飾りのように落ちてきた。
青葉の清しい香りがする。
「もっと、ワレを褒め称えよ。ソチは、『タケル』の末なのじゃろう、のう、タケル」
「はあ……」
かつてこの地にたどりついた猛の祖先は、美しいヒメガミに出会ったのだと言う。
祖先はヒメガミを深く崇め、そしてヒメガミは一族にこの地を与え、守護を約束した。
一体それがどういう出会いで、約束だったのかは、今となっては一族の者にもわからない。
だが一族は、その約束を忘れないよう、一族に生まれた男子には『タケル』と名付けるようになった。
それがヒメガミと約束を交わした、祖先の名だったからだ―――。
「まあ、俺だけじゃなく、父も兄も弟も伯父も『タケル』ですが」
おかげで、紛らわしいことこの上ない。
なので普段は、この名を名乗ることはなく、それぞれが通称を持っている。
それなのに、この森に猟に訪れた彼を、ヒメガミ様は迷わず『タケル』と呼んだ。
「じゃが、ワレの『タケル』はソチじゃからのう。美しい、愛らしいと崇めながらもワレと共に来なんだ、つれない『タケル』はのう」
木の上から、ヒメガミ様が目を細めて猛を眺めている。
猛を通して、どこか遠くを見つめるまなざし。
「……そんな事、俺に言われても」
正直、面白くない、と思った。
(俺は猛だけど、『タケル』ではない――――)
「約束したではないか。一緒にはいけないが、『タケル』はまた、会いにくると」
「だからそれは、俺じゃなくて……」
「いいや、ソチじゃ。ワレにはわかる」
ヒメガミ様は、はっきりと『猛』自身に視線を合わせて、微笑んだ。
柔らかな笑み。
愛しくて愛しくてたまらないと語りかける澄んだまなざし。
猛は顔を赤らめて、その視線から目を反らした。
祖先は、何を考えていたのだろう、と猛は思った。
これほど美しいヒメガミ様から、一緒に来いと言われて、うなずかなかった最初の『タケル』は。
(惑わされそうだ。うなずいてしまいたくなる)
そう思っているのにそう答えないのは、意地だろうか。
自分は『猛』であって、『タケル』ではない、という―――。
「また来よ、タケル。待っておるぞ」
ひらりと木の上から降りると、ヒメガミ様は真っ白な狐の姿になった。
美しい毛並みに、思わず目を奪われている内に、ヒメガミ様はあっという間に森の木立をぬって、駆け去って行った。
あまり殺生をし過ぎるでないぞ、と言い置いて。
「あ……」
言葉もなくその姿を見送って、猛は小さく苦笑をこぼした。
(祖先も、はじまりの『タケル』も、こんな気持ちだったのだろうか……)
森の中を駆ける、美しい白い狐。
捕まえてこの手にしたい、と思うと同時に、自由に駆けるその姿をいつまでも見ていたい、とも思う。
それは美しい乙女のような……それでいて決して乙女ではない、可憐な姿をした『ヒメガミ』の時も同じ。
ひとりじめにしたい。だが、決してひとりじめにしてはならない。
そんな矛盾した想い。
一緒に行くと決めてしまった瞬間に、失われてしまうもの。
どんなに天が素晴らしくても、得られないもの。
「………また、会いに来ます。ナキヤヒメガミ様」
愛しいこの地で。
約束が続く限り、何度でも―――。
終。
Copyright(c) 2011 all rights reserved.