029: 神話の時代



 天地を作りし神々が、地上から立ち去って長の年月が過ぎた。
 ほとんどの神は天へと帰っていったが、ごくわずかな神は地へととどまった。
 これはそんな、気まぐれに地にととどまった、ひとりの神の話。


「ワレの元へ来る気になったか、タケル」

 ふわりと背中が重くなったと思うと、白銀の髪が頬をくすぐった。
 猛はつきそうになったため息を押し殺して、答えた。

「いいえ……っていうか、重いです、どいてください」
「なんじゃ。つれないのう、お前は」

 そう言いながらもどいてくれた彼は、猛の横で、つま先で草の波の上を触れるように歩いている。
 体重を全く感じさせない歩き方だ。ほんとうは、さっきもちっとも、重くなんてなかった。
 猛は横目でちらりとそれを眺めて、何度見ても信じられない光景だ、と思った。

「どうした、タケル」
「いえ……」

 白銀の髪がさらりと揺れると、一緒に光がこぼれる。
 淡く発光する、透ける身体。
 だが彼の正体は、幽霊ではない。

「今日は何をするのじゃ、タケル」
「腰に弓があるのが見えるでしょう。猟ですよ」
「む。殺生か」
「そんな顔されたって、人はあなたみたいに霞を食って生きてるわけじゃないですから」
「何を言う。ワレは霞なぞ食っておらんぞ」
「それでは、何を」
「むろん、決まっておる」

 彼は、猛の前にまわると、胸を張って答えた。

「ソチがワレをオモウ真心じゃ!」
「…………」

 やけに自信満々に言われ、猛は何だかげっそりした心持ちになった。
 それは確かに、間違ってはいない。
 間違ってはいないが……。

「そう言う事は、自分で言うものじゃないと思います、ヒメガミ様」
「ナキヤでよいと言うておるではないか、タケル」
「ナキヤヒメガミ様」

 猛は、彼の名前を正しく呼んだ。
 ナキヤヒメガミ―――ヒメガミ様は、猛が住まうここら一帯の土地を守護する神だ。
 天に帰らなかった、気まぐれな神々の一柱。
 青々とした緑連なる深い森と、清い川の流れ。
 姫神に守護されたこの地は、温暖な気候にも恵まれ、豊かな恵みがあった。
 その加護は深く、戦乱の世にあっても他国からの蹂躙を寄せ付けることもなかった。
 白銀の毛並みが美しい狐の姿を取るとも言われるその神は、この地を深く愛しているが故に、天へと帰らなかった言われる。
 美しく、慈悲深い―――姫神様。
 
「ナキヤ、だ。タケル。大体、ワレはヒメではないのじゃからのう」
「お言葉を返すようですが、ウチの一族が代々信仰してきたのは、ヒメガミ様です」
「そうよ、そこよ。全く、『タケル』のヤツは、何を考えておったのかのう……」

 ヒメガミ様は、とん、と軽く草を蹴ると、木の枝に腰かけた。
 風にふわりとなびく髪は高貴な姫君よりも美しいが、すとんとした白い貫頭衣に女性らしい凹凸はどこにもない。

「ヒメ様のように愛らしい、とはよう言われたものじゃが」
「たぶん、先祖の目が曇っていたのだと思います」
「むむ。相変わらず、ソチは憎らしいことばかり言うのう」

 枝から葉っぱをむしると、ヒメガミ様は猛に向かって投げつけた。
 それはふわりふわりと飛んできて、猛の髪に飾りのように落ちてきた。
 青葉の清しい香りがする。
 
「もっと、ワレを褒め称えよ。ソチは、『タケル』の末なのじゃろう、のう、タケル」
「はあ……」

 かつてこの地にたどりついた猛の祖先は、美しいヒメガミに出会ったのだと言う。
 祖先はヒメガミを深く崇め、そしてヒメガミは一族にこの地を与え、守護を約束した。
 一体それがどういう出会いで、約束だったのかは、今となっては一族の者にもわからない。
 だが一族は、その約束を忘れないよう、一族に生まれた男子には『タケル』と名付けるようになった。
 それがヒメガミと約束を交わした、祖先の名だったからだ―――。

「まあ、俺だけじゃなく、父も兄も弟も伯父も『タケル』ですが」

 おかげで、紛らわしいことこの上ない。
 なので普段は、この名を名乗ることはなく、それぞれが通称を持っている。
 それなのに、この森に猟に訪れた彼を、ヒメガミ様は迷わず『タケル』と呼んだ。

「じゃが、ワレの『タケル』はソチじゃからのう。美しい、愛らしいと崇めながらもワレと共に来なんだ、つれない『タケル』はのう」

 木の上から、ヒメガミ様が目を細めて猛を眺めている。
 猛を通して、どこか遠くを見つめるまなざし。

「……そんな事、俺に言われても」

 正直、面白くない、と思った。
 
(俺は猛だけど、『タケル』ではない――――)

「約束したではないか。一緒にはいけないが、『タケル』はまた、会いにくると」
「だからそれは、俺じゃなくて……」
「いいや、ソチじゃ。ワレにはわかる」

 ヒメガミ様は、はっきりと『猛』自身に視線を合わせて、微笑んだ。
 柔らかな笑み。
 愛しくて愛しくてたまらないと語りかける澄んだまなざし。
 猛は顔を赤らめて、その視線から目を反らした。
 祖先は、何を考えていたのだろう、と猛は思った。
 これほど美しいヒメガミ様から、一緒に来いと言われて、うなずかなかった最初の『タケル』は。
  
(惑わされそうだ。うなずいてしまいたくなる)
 
 そう思っているのにそう答えないのは、意地だろうか。
 自分は『猛』であって、『タケル』ではない、という―――。

「また来よ、タケル。待っておるぞ」

 ひらりと木の上から降りると、ヒメガミ様は真っ白な狐の姿になった。
 美しい毛並みに、思わず目を奪われている内に、ヒメガミ様はあっという間に森の木立をぬって、駆け去って行った。
 あまり殺生をし過ぎるでないぞ、と言い置いて。

「あ……」

 言葉もなくその姿を見送って、猛は小さく苦笑をこぼした。

(祖先も、はじまりの『タケル』も、こんな気持ちだったのだろうか……)

 森の中を駆ける、美しい白い狐。
 捕まえてこの手にしたい、と思うと同時に、自由に駆けるその姿をいつまでも見ていたい、とも思う。
 それは美しい乙女のような……それでいて決して乙女ではない、可憐な姿をした『ヒメガミ』の時も同じ。
 ひとりじめにしたい。だが、決してひとりじめにしてはならない。
 そんな矛盾した想い。
 一緒に行くと決めてしまった瞬間に、失われてしまうもの。
 どんなに天が素晴らしくても、得られないもの。

「………また、会いに来ます。ナキヤヒメガミ様」

 愛しいこの地で。
 約束が続く限り、何度でも―――。


終。


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