娯楽らしい娯楽は何もない、小さなその村で、唯一といっていいお楽しみは、年に一度か二度、訪れる、旅芸人の一座だった。
皆がよく知るふるい昔がたりや、聖人たちの奇跡の物語。
それらを、素朴なバイオリンの響きを伴奏に、時に軽快に、時に悲しみに満ちて演じる役者たちに、村人たちは夢中になった。
劇の最後が、どう幕を閉じるのか、わかっていても、見終わった後には、たくさんの拍手が送られた。
そして回ってくる、羽根飾りのついた帽子の中に、皆、それぞれ心ばかりのコインを落とすのだった。
今年十五になるユーカも、たくさんの村人たちと同じように、一座を心待ちにしている者の一人だった。
だが、ユーカの目的は、他の村人たちとは、ちょっと違った。
村人たちが、役者たちの演技を熱心に見つめている間、それと同じくらい、いやそれ以上に熱心に、ユーカは舞台の隅で、劇を盛り上げるべく、楽器を奏でている青年に、釘づけになっていた。
そう、バイオリン弾きの、フィリに。
フィリは、魔法が使える。
幼いころのユーカは、真剣に、そう思っていた。
じゃなきゃ、どうして、あんなに素敵な歌が、あの小さな、不思議な形をした箱から、流れてくるのだろう。
教会の小さなパイプオルガンしか、楽器を見た事のなかったユーカは、フィリのもっている楽器が、バイオリンという名であることも、知らなかった。
「ねえ、あなたは、魔法使いなの?」
劇が終わった後、思い切ってフィリに尋ねたら、フィリは目を丸くして笑った。
そして、これはバイオリンと言う楽器なんだよ、と教えてくれた。
それでも、ユーカには、バイオリンが魔法の楽器のように、思えた。
バイオリンから、自在に音を生み出すフィリは、魔法使いに違いないのだと。
「ぼくにも、その魔法は、使えるかな……?」
ユーカが、おずおずと尋ねると、フィリはまた笑って、うなずいた。
「ああ、もちろん。練習すれば、君にだって、弾けるよ」
「ほんと?」
「本当さ」
「……でも、ぼくはそれを持ってないから、れんしゅうできないや。やっぱり、ムリだね……」
しゅんとして、そう言ったら、フィリは困ったように笑って、言った。
「う〜ん。このバイオリンを、君にあげることはできないけど……。つよく、のぞみつづけたら、いつか、君だけのバイオリンが手に入る時が、来るかもしれないよ」
「ぼくだけの、魔法がつかえるの?」
「ああ、きっとね」
それまでは、僕のバイオリンで練習させてあげるよ、とフィリは言い、一座が村のたったひとつの宿に泊っている間、ずっと、空いている時間に、ユーカにバイオリンを教えてくれた。
はじめは、魔法とは程遠いような金切り声しかださなかったバイオリンは、フィリたちが旅立つ前には、なんとか、歌を奏でるようになっていた。
ユーカは、フィリがいなくなって、バイオリンが手元になくなってからも、フィリが教えてくれた事を思い出しながら、木の枝を弓にして、バイオリンを持っているつもりになって、指を動かしてみた。
何もない場所から、あの素敵な音色がこぼれるのを、ユーカの耳は、確かに、聞いた気がした。
今年もまた、旅芸人の一座が村にやってきた。
夏にはこなかったから、ほぼ一年ぶりだ。
ユーカは、息せき切って、一座が馬車をとめている、宿屋へと走った。
「やあ、久しぶりだね、ユーカ」
「うん……」
話したい事は、いっぱいあるのに、胸が詰まって、ユーカはそれだけしか言えなかった。
フィリは、一年ぶりでも変わらない、穏やかな笑みを浮かべて、大事そうに、バイオリンを抱えている。
初めて見た時と同じ、良く手入れされて、飴色に輝く、魔法の楽器。
夢にまで見た、フィリのバイオリン……。
「ねえ、フィリ。僕、僕ね……!」
ユーカは、この一年間ずっと、胸に秘めていたことを、フィリに告げようと、口を開いた。
この言葉を、ようやく、彼に言えるのが、嬉しくて、告げる前から、胸がいっぱいになった。
「フィリの一座に、入れてもらうんだ!父さんは、座長さんがいいって言ってくれるなら、構わないって……!」
いつも、待っているばかりだった。
あの素敵な歌声を、魔法を奏でる、フィリがやってくるのを。
そして、すぐにまた、その後ろ姿を見送っていた。
それから、また、次に訪れるのを、待って、待って……。
そんな日々に、ようやく、終りが告げられるのだ。
だが、ユーカの言葉を聞いたフィリの反応は、あまり芳しいものでは、なかった。
「そう……」
ぽつりと、そう一言、漏らしただけ。
「フィリは……フィリは、イヤなの? 僕が、一座に加わるのが……?」
不安になったユーカが尋ねると、フィリはちょっとだけ首をかしげると、目を細めた。
「いいや。そうじゃないよ。そうじゃないけど……」
「けど、なに……?」
「うん。旅は、楽しいばっかりじゃ、ないからね。帰る家が、ちゃんとあるユーカが、馬車の中で寝る事も多い、一座の暮らしに慣れるかな、と思って」
「そんなこと……! 大丈夫だよ、僕、どこでだって眠れるし、外だって……! それに、一緒に行きたいんだ。待ってるだけなんて、イヤなんだ。もう、イヤなんだよ、フィリ……!!」
「ユーカ……」
ユーカは、今すぐ置いて行かれそうになっているかのように、フィリの袖をつかんだ。
フィリは、いつかのように、困ったような笑顔で、ユーカを見ている。
「頭の中で、フィリの魔法が、聞こえるんだ。フィリの笑顔も、フィリが僕に触れる指も。でも、フィリはいない。肝心の、フィリだけが、どこにもいないんだ……」
袖をつかんだままで、ユーカは視線を落として、つぶやいた。
フィリの魔法は、ユーカにとって、最早フィリそのものだった。
魔法を使うからフィリが好きなのか、フィリが好きだから魔法が好きなのか。
たぶん、それは、どちらも、なのだ。
「ユーカ……」
フィリは、もう一度、ユーカの名を呼ぶと、袖をつかんだユーカの手に、そっと自身の手を重ねた。
ユーカが恐る恐る顔をあげると、フィリがまっすぐに、自分を見ていた。
穏やかな、優しい眼差しで。
「僕は、君が家族と離れ離れになると寂しいんじゃないかと思ったんだけど……。そうじゃないんだね。僕の魔法と……、僕と、離れ離れになる方が、寂しかったんだね」
「……そうだよ。ずっと、そうだったのに」
フィリが、ユーカに魔法をかけた、あの幼い日から、ずっと。
ユーカの耳には、いつも、フィリの魔法が聞こえていた。
自分だけの魔法が使える、フィリが、そう言ってくれた時から、ずっと、ずっと……。
「しがないバイオリン弾きだと思ってたのに。どうやら僕は、本当に魔法が使えたらしい」
フィリは、にこっと笑うと、バイオリンを抱え直した。
弓を手に取ると、弦にあてて、軽やかに音を奏で始めた。
陽気で明るいそれは、ユーカが、一番好きな、歌だった。
ユーカは、そっと目を閉じた。
「ほら……。やっぱり、フィリは、魔法使いだよ」
フィリが指先から紡ぎ出す歌は、ユーカに、魔法をかける。
何度も、何度でも。
ユーカにかかった魔法は、とけることなく、続いて行くのだ。
いつか、それほど遠くない日に、ユーカだけの魔法が使える日も、きっと、訪れるのだろう。
Fin.
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