燕は必ず帰ってきます。
どんなに遠くへ、飛んで行っても。
春になったら、元いた可愛い赤い屋根の軒先に……。
大理石の柱の陰から、ふわふわした苺色の髪の毛が覗いている。
「そこで何をしている?」
どうやら柱の後ろにこっそり身を潜めて、広間をうかがっているようだ。
そんな王族らしからぬ行動を取っている弟に、第一王子である皇太子は怪訝そうに声をかけた。
第二王子は皇太子の声に驚いて振り返ると、顔を赤くした。
「あ、兄上……こ、これは……っ」
慌てふためく弟の、視線の先に何が、いや誰がいるのかなんて聞くまでもない。
燕の羽のようにつややかな髪と、瞳を持つ青年。
今日の宴、戦勝祝賀会の主役、戦での一番の功労者である、王立騎士団燕隊隊長のエルバートだ。
彼の他より一回りは大きな体躯は、大勢の者に囲まれていてもよく目立つ。
特に今は、あでやかに着飾った貴婦人たちに取り囲まれているので、武骨な武人がまるで蝶を集める花のようになっていた。
あの輪の中に、弟は近づく事が出来ないのだろう。
まあ、自分もあの中にあえて入っていきたいとは思わないが……と心の中だけで呟いて、皇太子は弟の肩を叩いた。
「行くぞ。いつまでも今日の主役を待たせてはおけないだろう?」
「は、はい、兄上……!」
うながすと、小柄な弟はうなずいて後をついてくる。
だが視線は相変わらず、蝶たちに囲まれた中心人物に向けられている。
わが弟ながらわかりやすい……と、皇太子はそっと笑いをかみ殺した。
「皇太子殿下……」
彼が姿を現すとひそやかなざわめきと共に、人波が分かれる。
弟を後ろに従えて 人々の中心にいたエルバートの前に皇太子は立った。
「先の戦では、貴君の働きは素晴らしいものだったそうだな、エルバート」
「この国のため、陛下のため、とうぜんの働きをしたまでにございます」
エルバートは片膝をつき、こうべを垂れた。
皇太子は彼に顔をあげるように告げた後、尋ねた。
「噂にたがわぬ謙虚さだな、燕隊の隊長は。陛下はいまだ病が癒えずここに来る事は叶わないが、陛下に代わって貴君の労をねぎらうよう言われている。君は褒賞を受け取らなかったそうだな。何か望みのものはないのか?」
戦は金食い虫だが、戦に勝てば、敵国から賠償金が支払われる。
捕虜を解放するのにも、身代金が支払われるため、それらの金は実際に戦に出た騎士や、兵士にも褒賞金として支払われるのがならわしだった。
エルバートは答えた。
「恐れながら、褒賞金はいりません」
その言葉に、周囲がざわめいた。
このたびの戦で誰よりも武勲をあげた彼なら、望みのままに、いやそれ以上に金貨が支払われただろう。
それをこうもあっさり、いらぬ、と言うとは。
「なら、他のものが欲しいと?」
「はい」
「それを、言ってみよ。私の権限が及ぶ限り、叶えてやろう」
金貨がいらぬのなら、肥沃な土地だろうか。
それとも、爵位だろうか。
エルバートは騎士ではあるが、子爵家の二男であるから、継ぐべき爵位はもっていない。
扇や袖に隠れて、ひそひそと憶測が飛び交う。
「ジェレミ―様の、第二王子殿下付きの、騎士にしていただきたいのです」
彼の口から出た、あまりに予想外の言葉に、周囲はあっけにとられた。
束の間、しんと静まり返る。
それを破ったのは、皇太子だった。
「私では、なく? 弟の、ジェレミ―の騎士になりたいと?」
皇太子は面白そうな顔で、燕隊隊長を見た。
彼は皇太子の視線をそらさずまっすぐに受け止め、ゆっくりとうなずいた。
「はい。ジェレミ―様の、騎士に」
周囲にざわめきが戻ってくる。
不敬ではないのか、という声も漏れ聞こえてくる。
戦で功をあげた騎士は、皇太子直属の騎士団に所属するのが慣例だ。
そしてゆくゆくは、陛下の近衛となる。
そうして過去には、宰相の地位についた者もいるのだ。
なのに、第二王子の騎士?
第二王子が国を継ぐことはない。
それなりの所領を与えられはするが、国の政治の中枢に関わることもない。
内部の混乱を避けるためだ。
まだ年若いため、第二王子のジェレミ―は宮廷にいるが、いずれ与えられた所領に去らねばならない。
そんな第二王子の騎士になりたいということは、今後の出世を一切望まぬと言っているのと同じだ。
まったく、どうかしているとしか言いようがない。
「そうか、それが貴君の望みか……。よかろう」
「あ、兄上!?」
それまで後ろで大人しく控えていた、第二王子が声をあげた。
皇太子は、振り返って弟を見た。
「どうした? ジェレミ―」
「兄上、そのようなものは褒美とは言えません。どうかしています!」
「そうは言っても、燕隊の隊長は、お前がいいと言っている」
「だからって……!」
いつもはおとなしい第二王子が、兄である皇太子に詰め寄る姿に、周囲は再びあっけにとられた。
同じ正妃を母に持つ彼ら兄弟は、普段から兄弟仲もよかったので、余計にだ。
愉快そうに笑うばかりの兄王子に、これではらちがあかないと思ったのか、弟王子は矛先を変えた。
跪いたままの、燕隊隊長の腕を取ると、強引に引っ張り上げるようにして立たせた。
「エルバートと、話をつけてきます。御前、失礼します、兄上……!」
そうして、ぽかんとする人々を後に、第二王子はエルバートを連れて、広間を出て行ってしまった。
(まったく、しょうがない弟だな……)
その後ろ姿を、皇太子は苦笑して見送る。
戦場からの伝令を夜も眠れないほどに待ちわび、戦況に一喜一憂し、そのくせ一番知りたい人物の安否を尋ねられないでいた弟の姿は、まだ記憶に新しい。
皇太子はやれやれとため息をつくと、気を取り直して、ぱんぱん、と手を叩いた。
「主役は行ってしまったが、宴はまだ続いているぞ。楽をならせ! 今宵は楽しもうぞ……!」
合図とともに、楽団が軽快な曲を奏で始める。
皇太子があでやかな蝶の手を取って踊りだすと、止まっていた人々もそれぞれパートナーを見つけ、ステップを踏み始めた……。
ジェレミ―は、自分よりずいぶん大きなエルバートの手をつかんだまま、中庭まで来た。
昼日中なら庭師によって丹精込めて世話をされた、色とりどりの花々が迎えてくれる場所だが、今は花たちも静かな眠りについている。
降り注ぐのも、あたたかな日の光ではなく、優しい星明かりだ。
月は弓のように細く、たくさんの星が瞬いているのがよく見渡せた。
閉じた白い花びらに、夜空からこぼれた光りが淡く反射して、昼とは違った幻想的な光景を見せていた。
だが、すっかり頭に血が上っていたジェレミ―は、そんなものはまったく見ていなかった。
「一体、どういうつもりなんだ! エルバート!?」
向かい合うように立つと、エルバートを見上げて叫んだ。
そのあまりの勢いに、エルバートは星明かりの中でようやくわかるくらいの、困った笑顔を浮かべた。
「どう、と申されますと……」
「決まってるだろ! 褒賞金がいらないとか……その代わりに、ぼ、僕の騎士になりたいとか! どうかしてるよ!」
身体の脇で、拳をぎゅっと握りしめる。
お腹の中心に力を込めて、ジェレミ―は震えそうになる身体を何とかこらえた。
そうしないと、泣きだしてしまいそうだったから。
「皇太子殿下は、私の望みを叶えてくれるとおっしゃいました」
激昂するジェレミ―とは対照的な、静かな声が返ってくる。
穏やかな燕色の瞳がジェレミ―を優しく見下ろしている。
戦場では鬼神のように鋭い眼で敵をすくませると耳にしたが、ジェレミ―はそんな彼は知らない。
ジェレミ―を見るまなざしは、いつも穏やかで、温かかった。
「それが……どうかしてるって、言うんだよ………」
視線が下がって、声からも力が抜けていく。
そんなことじゃいけない、エルバートのことを思うのならもっと強く諌めないと、と思っているのに。
エルバートの手が、握り締めたままのジェレミ―の手をそっと、包むように触れた。
「私を、拒まないでください、ジェレミ―様」
エルバートの、細かな傷がついた、自分よりも大きくて、日に焼けた手を見つめた。
この手が、ずっと好きだった。
木に登って降りられなくなって泣いていた時に下ろしてくれたのもこの手だったし、ひとりで初めて馬に乗れた時に頭を撫でてくれたのも、やっぱりこの手だった。
エルバートはお前のお守じゃないんだぞ、と兄に呆れられ、時にたしなめられもしたけれど、訓練場に幼いジェレミ―が会いに行っても、いつも嫌な顔せずに迎えてくれた。
今日はどうされますかジェレミ―様、とあの穏やかな、燕色の瞳で。
拒んだことなんてない。
いつだってジェレミ―は、エルバートを追いかけていた。
本当は、戦にだって行って欲しくなかった。
エルバートが優れた騎士で、戦士だと誰よりも知っていても。
大好きなこの手が、自分だけじゃない、たくさんの人を守れるのだと知っていても、それでもなお。
「エルバート。僕は……」
言わなければならない。
エルバートを思うのなら、この国のことを考えるのなら。
縛ってはいけない。
捕らえてはいけない。
あんな昔の、幼い子供の―――。
「ジェレミ―様。燕は必ず、帰ってくるんですよ。冬の間、可愛い赤い屋根の軒先からいなくなっても。春になったらまた、同じ家に。ジェレミ―様は約束してくださいましたね。私がどこへ赴いても、必ずご自分のところに帰ってくるように、と」
燕色の髪と目をした、燕隊の騎士。
体つきは燕というにはずいぶん大きかったけれど。
素早い身のこなしは燕みたいで、どこまでも高く、遠くへ行けそうだとジェレミ―は思った。
―――エルバートも、いつかツバメみたいにどこかとおくへ、とんでいっちゃうの?
幼いころ、不安に思って、エルバートの手を握って尋ねた。
エルバートは、ジェレミ―の手を握り返して答えた。
―――たとえ、どこか遠くへ飛んで行っても、燕は必ず帰ってきます。春になったら、元いた可愛い赤い屋根の軒先に。
―――だったらぼくは、あかいやねのおうちになるから。だからエルバートも、ぜったいかえってきてね。ぼくのところに。
―――はい。約束します、ジェレミ―様。どこへ飛んで行っても、あなたの燕は必ず、あなたの元へ帰ってきます。
たわいもない、だけど大切な思い出。
あれは強制力などなにもない、ゆえなく怯える子供をなだめるためのもので、約束と呼べるようなものではない。
エルバートは律儀だから、いつまでもそれを覚えていたのだろう。
だからジェレミ―は、そんなものを気にする必要はない、と言わなければならない。
小さな子どものわがままを、唯一の誓いのように守ることはないのだと。
せっかくの、出世の機会を棒に振ることはないのだと……。
「ジェレミ―様? どうして、泣いているのですか」
気がつけば頬を濡らしていた雫を、エルバートの大きな手のひらがそっとぬぐう。
ジェレミ―は、涙をこぼしながら答えた。
「だ、だって、言えない……。ほんとは、お前を止めなければ、いけないのに。馬鹿なことを言うなって。なのに……嬉しいんだ。ごめん。ごめんね、エルバート……」
エルバートの手に自分の手を重ねて、ジェレミ―は顔をあげた。
燕色の目が、優しく自分を見ている。
「でしたら、許す、と。おっしゃってください、ジェレミ―様。私が、あなたの騎士となることを」
エルバートはジェレミ―の手を取って、跪いた。
ジェレミ―はそれ以上、自分の心を偽ることができなかった。
小さく息を吸い込んで、吐息のように囁かに、でも目の前に跪く男には確かに聞こえるように告げた。
「許す」
声が、震えた。
押し頂かれた手に、口づけが落とされる。
新たな涙がジェレミ―の頬を伝う前に、立ちあがったエルバートに抱きしめられた。
「ただいま帰りました、ジェレミ―様、わが君……燕はもう、どこへも飛んでいきませんよ」
「そんなこと言ったら、本当に、どこにもやらないからな……っ!」
エルバートの広い背中に夢中で、しがみついた。
大きな腕に抱き寄せられて、顔をあげると、優しい燕色の瞳と目があう。
吸い込まれるように見つめ合って、ゆっくりと目を閉じた。
唇にあたたかなぬくもりを感じながら、ああ、帰って来たんだな、とジェレミ―は思った。
僕の燕が、僕の元へ。
Fin.
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