アクセサリーなんて柄じゃないのに、それはいつも彼の胸元にあった。
シャツの下に隠された、秘密のような十字架。
抱き合う時はまるで何かの儀式みたいに、必ず外される。
古びた、けれどアンティークと言えるものじゃないそれは、シルバーなのにくすんではおらず、鈍く輝いている。
ずっと、大事にされているんだっていうのが、わかる……。
「実はクリスチャン、とか?」
眠っている彼の隣で、抱き合ったばかりのけだるさに包まれたまま、僕はシルバークロスのペンダントを、そっと手にとって眺めた。
冷たい、金属の感触。
もちろんそれは、何も答えはしない。
「……そんなわけ、ないか。初詣、いっしょに行ったもんな」
キリスト教は、一神教だ。
ちがう神様を参ったりしたら、宗旨に反するだろう。
だとしたら……。
僕は、手の中でクロスをもてあそびながら考える。
「吸血鬼から、身を守っている……」
吸血鬼は十字架が苦手だって言うし。
それに、魔物は銀が苦手とか言わないっけ?
ほら、銀の弾丸で心臓を撃ち抜いたら死ぬって……。
「……ありえない」
自分で、自分の考えに突っ込みを入れる。
荒唐無稽もいいところだ。
どこの怪奇小説の設定かっていうの。
そんなバカなことをムリヤリ考えなくったって、素直に想像すれば簡単だ。
これは、きっと………。
「どうした? 眠れないのか」
ほのかに照らされたルームライトに、熟睡してるとばかり思っていた彼の黒い瞳が照らされる。
日本人の目の色は黒いって言うけど、実際よく見たら茶色がほとんどだ。
僕もそうなんだけど、彼の目はそうじゃなくて、ちょっとびっくりするくらいに、黒い。新月の晩みたいに。
その吸い込まれそうに黒い目が僕をじっと見ているのにみとれて、手元にあるもののことを、一瞬忘れた。
「それ……」
言われてから、はっとした。
クロスのペンダント……! 持ったままだった……。
「えっと、あの……」
何か言わなくちゃ、と思うのに上手い言い訳が見つからない。
手の中のそれをもてあまし、僕は黙り込んだ。
「気になるの、それ」
問われて、否、と言う事が出来なかった。
彼の手がのびて、クロスの先に触れる。
「俺がそれ外す時、いつもじっと見てんなあと思って……。気のせいかな、とも思ったんだけど」
ぽつりとつぶやかれた言葉に、やっぱり違う、とは言えなかった。
だって、ずっと気になってたから。
行為の前、それを見せないかのように……見せたくないかのように、外されるクロスのペンダント。
ピアスも指輪も、腕時計だってしない彼が、唯一つけてるアクセサリー。
気にならないって言うほうが、嘘だと思う。
「言いたくないんなら、僕は、別に……」
なのに僕は、気持ちとは裏腹な台詞を口にする。
彼の口から、どんな言葉が出てくるのか、怖かった。
肌身離さず身につけていて、なのに抱き合う時には外されるそれ。
意味を知りたくて、同じくらい、知りたくなかった。
「お前、なんて顔してるんだよ」
クロスを持った僕の手ごと、手を握って、彼はくすりと笑った。
いつのまにかうつむいていた僕が視線をあげると、いつもと変わらぬ穏やかな表情の彼がいた。
「なんか、すっごいドラマチックな想像してるとこ悪いけど。全然、そんなんじゃないから」
手を開いて、僕の手の中からクロスをつまみあげる。
チェーンの部分を持って、ゆらゆらとクロスをゆらした。
「誰かの形見でもないし、かつての恋人からもらった忘れられないプレゼントとかでもない」
あっさりと言われて、僕は拍子抜けした。
思いっきり、肩の力が抜ける。
つまり、今彼が言ったような事を想像していたわけで……。
「安心、した?」
シーツの上にクロスを置いて、僕の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
僕は言葉もなく、うなずいた。
「そんなに気にしてるんなら、言っとけばよかったかな。ってか、お前も気にしてたんなら、聞けばよかったのに」
「だって、そんな……!」
簡単に言われて、僕は声を詰まらせた。
聞いてみて、聞かなきゃよかった、って思うような答えが返ってきたら、どうしたらいいんだよ!?
それなら僕は、最初から聞かない方を選ぶ……。
「あー……悪い、お前そう言うの、聞けるタイプじゃないよな……。いや、だからそこで黙んなくていいって。俺、お前のそういうとこ、いいって思ってるし。無神経な俺とちがって、さ」
僕はそういうんじゃない。
ただ、君よりもずっと、臆病で、小心者なだけだ。
そう思ったけど、口には出さなかった。
これ以上卑屈になっても、どうしようもない……。
「だからー、もー、んな顔するなって! 責めてるんじゃないんだから。っと、これじゃ話、全然進まないじゃねえかよ……」
指でクロスをつつきながら、彼は困ったような声でぼやいた。
そして話を元に戻す。
「えっと、これはだな。もらったの。いらないからって」
「誰に?」
どうせ、僕の知らない人なんだろう。
そう思って聞いたのに、返ってきた言葉はちがうものだった。
「お前も知ってるだろ? 俺の実家のはす向かいに住んでる阿藤さん。そこの息子さん」
「あ……、休みの日に時々、子供つれて帰ってくるひと?」
「うん、そう。そのひと」
なんで僕がそんな事を知っているのかと言えば、僕が彼の実家をたびたび訪れているからだ。
僕は彼の家族に、彼の恋人として紹介済みだ。
学生のころにゲイであることを話して以来、すっかり疎遠になってしまった僕の家族と彼の家族はまるでちがった。
元々彼は信じられないくらいオープンなんだけど――職場にも自分がゲイであることを彼はバラしている。その方が楽だから、と言う理由で――、彼の家族もそれに負けず劣らず大らかだった。
一人息子が――すでに嫁いだ娘がいるとは言え――男を恋人として紹介して、あらそうなの、で済ませてしまった。
こいつはワガママで手に負えんでしょう、そういう時は一発ガツンとやってもいいんですよ、頑丈なだけが取り柄ですから、と彼の父親から豪快に言われた時は、本当にどうしようかと思った。
ウチそう言うの誰も気にしないから、と事前に彼に言われてはいても、事が事だけに尻ごみしていた僕は、その歓迎ぶり? には戸惑うばかりだった。
そしてみやげにきんぴらごぼうを持たされて、いつでも遊びに来てください、と言われた。
ひとりだとちっとも帰ってこないから、引っ張って来てやってください、と。
後日会った、彼の姉もそんな感じだった。
なるほど、こういう家庭環境で彼は育ったのか、と彼を見て改めて実感した。
そんなわけなので、何度か彼の実家を訪れた際に、はす向かいの阿藤さんにも会ったことがあった。
もちろん、恋人だとかそんな話はご近所の人にまではしていない。
道で会って挨拶をしてちょっと話す、そのくらいだ。
阿藤さんちの息子さんは、同い年の僕らより10ばかり年上で、すでに結婚もしていて、子供も2人いる。
やんちゃざかりの男の子の兄弟だ。
年はひとつちがいだそうだが、まるで双子みたいにそっくりで……と、それはどうでもよくて。
その阿藤さんの息子さんから、もらったもの……?
僕は、首をかしげた。
年がずいぶん離れているし、彼はその息子さんと格別仲がいい、という風でもなかった。
家が近いから、互いに顔見知り。そんな感じにしか見えなかった。
そんなひとからもらったものを、どうして、肌身離さず……?
「その顔は、疑ってるな?」
「うん」
どう考えても、おかしいだろう。
それとも何か、実は密かに、阿藤さんちの息子さんの事が好きだったとか……?
「いや別に、初恋のひとだったとか、そういうオチじゃないから。お前が見たまんま。ただのご近所さんだよ」
「だったら、なんで……」
そんなに、大事にしてるんだ?
「俺が小6の時だったかな……。家の近所で、阿藤さんちの兄ちゃんに会って。まあフツーに、『こんにちは』とか挨拶したわけよ。ウチ、そういうとこ厳しいからね。知ってる人に会ったら、元気に挨拶! 挨拶はひとの基本! とかって。それはまあどうでもいいんだけど。で、いつもみたいに声かけたら、いきなり、『やる』って言われて」
そこで彼は、クロスのペンダントを手のひらに乗せた。
反対の手で、ちょんとつつく。
「え、って思ってるうちに強引に渡されて。『要らなかったら、別に捨てていいから』って言われて。そのまま走ってっちゃったんだよ」
「それは……」
なんというか、反応に困っただろうな。
その時の事を思い出したのか、彼は苦笑した。
「後で返そうって思ったんだけど、なんか受け取ってくれなさそうな気がしてなあ。かと言って、ほんとに捨てちまうわけにもいかねえし。いやあ、困った困った」
「それで、どうしてそれを身につけようと思ったの?」
僕は当然の問いを投げた。
この話が本当なら、小6の頃にもらったクロスのペンダントを、大人になった今に至るまでずっとつけていた……って事になにるのか?
「んー。なんか、さ。その時の阿藤さんちの兄ちゃん、『捨てていい』って言ってた割にはすごい、つらそうに見えて。本当は、ずっと大事に持ってたかったんじゃないかなあって……」
たまたますれ違っただけであろう、近所の小学生にいきなりそんなものを押し付けた阿藤さんちの息子さんの思惑は、僕にはうかがいしれない。
だがそれは、捨てるに捨てられないものだったのだろう。
自分には、捨てられない。だから彼に渡した。代わりに、捨ててもらおうと思って……?
いや、ちがう。
持っていて欲しかったのだ。誰かに。自分の代わりに。
彼はその、言葉にされなかった阿藤さんちの息子さんの想いを受けとめたのだろう。
彼には、そういうところがある。
普段は鈍いくせに、大事なことは口に出されなくても、察するような―――。
「それにほら、なんかコレ、カッコいいじゃん。大人っぽくて。ためしにちょっと付けてるうちに、愛着わいてさあ」
聞いてみるとそれは、なんてこともない話だった。
たまたま手に入れたそれが気に入ったので、いつもつけているだけ、という……。
「ごめんなー。つまんない話で」
「そんな事ないけど……らしいな、って思った」
「なんだよ、らしいって」
「そのまんまだよ。そういえば、気に入ったものとかいつも身につけたがる方だったよなあと思って」
以前彼にシャツをプレゼントしたことがある。
彼はそれをどこに行くにも着て行って――さすがに、会社に着て行ったりはしなかったが――着倒して、くたくたになったそれは、部屋着としていまだ健在だ。
それからはなるべく、身につける物、特に洋服のたぐいはプレゼントしないようにしている。
嬉しいけど、いつも同じ服を着てるのはどうなんだっていう……。
「そうだよ、俺は気に入ったもんとは、いつもいっしょにいたい方なのっ!」
そう言って、彼は不意に僕に腕を伸ばして、ぎゅっと抱きしめた。
素肌が触れ合う感触が、あったかくて、くすぐったい。
「わかった! わかったから、腕、ゆるめてよ。苦しいって……!」
ほんとはもっとくっついてもいいくらいだったけど、照れくさくてわざとそう言った。
彼はちょっと腕を緩めると、僕の顔をのぞきこんだ。
「で? まだ、なんか聞きたい事、あるんじゃねえの?」
まったく。
こう言う時ばっかり、鋭いのは反則だって思う……。
僕は観念して、渋々口を開いた。
「なんで……。いつも、その、する前は……外すの?」
お気に入りではあっても、特別な思い入れのある品ではなかった。
それがもうわかったのだから、どうでもいい事ではあるんだけど、やっぱりちょっとだけ、気になった。
そして返ってきた言葉は、またしても予想外のものだった。
「お前を傷つけたらいけないと思って」
「え……?」
僕は素で、きょとんとしてしまった。
クロスのペンダントをつけてたら、僕が傷つく?
むしろ、いつも外されてる事で傷ついてたんだけど……そう言う意味じゃないよな。
「ほら、これ、十字架だろ。摩耗してだいぶ丸っこくなってるけど、角、尖ってるから。お前の身体に傷、ついたら嫌だから……」
「え、そういう理由!?」
あー、確かに、抱き合ってる時はぴったりくっつく時も、くっついたまま動く時もあるから、首に付けたままだと僕の身体にも触れたり、ここすれたりするかもしれないけど……。
まさか、そんな理由でいちいち外してるだなんて、思いもしなかった。
「なんでそこで驚くんだよ! 俺、爪だって、お前を傷つけないようにって、深爪ギリギリまで切ってるんだぞ」
「ああ、だからそんなに爪、短いんだ……?」
単に、そういうクセなのかと思ってた。爪が短いの。
言われてみれば、彼が僕に触れる時に感じるのは、爪の尖った感触ではなく、まるい指先のそれだ。
それに対して、僕の指は……。
「ごめん。僕もこれからは、爪、短くした方がいいよね。痛いよね? 結構、しがみついちゃったりするし……」
……してる時、無我夢中になって背中をかき抱いたりとか。
そんな時は、そう言うつもりがなくても、彼の背中に爪を立てたりしてると思う。
「俺はいいんだよ。頑丈だし。実はそう言うの好きだし。お前も必死になってんだなあって伝わって」
嬉しそうに言われると、何とも答えようがない。
たとえふたりっきりの時でも、とてもじゃないが僕には言えない台詞だ。
「でも! お前はダメ。お前の肌、綺麗だもん。だから傷つけたくないし」
「……その割には、キスマークはつけるよね?」
「そ、それはっ。それとこれとは別って言うか! 白い肌に赤い痕が散ってると、花びらみたいで綺麗だから。それにあれは傷じゃないし……」
だんだん小さくなる声で言われて、僕はついくすりと笑った。
抱きしめられたままちょっどだけ身体を起こすと、さっきつけられた赤い花びらがのぞいた。
「そんなに慌てなくてもいいよ。僕もその……イヤじゃ、ないし」
「な、なんだ。そっか……」
ほっとした声でつぶやいて笑う彼につられて、僕も笑う。
視線が交わって、自然と顔が近づく。
最初は羽のように軽いものだったキスは、しだいに深さをましていって。
「なあ。もう1回……」
「ん……」
キスの合間に耳もとでささやかれて、うなずいた。
また身体が熱くなってくる。くっついている、彼の身体も。
彼は僕の返事を聞くと、シーツに落ちていたクロスのペンダントを手に取って、サイドボードの上にそっと戻した。
Fin.
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