035: 途切れた声



 信じられない、とでも言いたげな顔ですね。
 私が裏切るなど、露ほども考えなかった、とでも?
 まさか、そんなはずはありますまい。
 私に対する不穏な噂を、耳にした事が一度もない、とは流石におっしゃらないでしょう。
 あり得ない、と一笑に付されていたのでしょうね。
 馬鹿なお方だ。
 どうして、貴方の忠実なる臣下の言葉をお信じにならなかったのですか。
 さすれば、今、このような目にあわれることも、なかったでしょうに。
 すべてはもう、遅すぎる。
 貴方の命は、蝋燭に灯る炎よりもはかなく、吹き消されようとしているのだから。
 ええ、そうです。
 この私の手によって。
 ああ、やはり、信じられない、否、信じたくありませんか。
 むしろ私に言わせれば、この事態を微塵も想定しなかった、貴方が信じられませんよ。
 だって、そうでしょう?
 私は、貴方を、憎んでいた。
 ずっと、ずっとね。
 ……何をそんなに、驚いているのです?
 まかさ、本当に、知らなかったとでも?
 鈍いにも、ほどがありますよ。
 覚えていますか?
 私が、初めて貴方に会った時の事を。
 ええ、私はまだ、ほんの小さな子供だった。
 わけがわからぬまま、先の領主さまに連れられ、貴方の前に引き出された。
 母が死んだばかりで、途方に暮れていました。
 祖父母はとうに亡く、選択肢はどこにもなかった。
 初めて会った、小汚い子供だった私に、貴方は笑顔で手を差し伸べてくれましたね。
 貴方の手は、白くて、なめらかで、いい匂いがしました。
 そんな貴方に触れるのをためらっていると、貴方の方から、私の手を握ってくれました。
 あの時、私は思ったのです。
 貴方が、憎いと。
 意味が分からない……そんな顔をしていますね。
 貴方には、あの時の私の気持ちはわからないでしょう。
 今となっては、私自身にさえ、あの時の私の気持ちはよくわからなくなってしまいました。
 貴方は、頼りなげな子供に、優しく手を差し伸べてくれただけだ。
 感謝されるならまだしも、憎まれる理由がない、と。
 そうですね。
 私も、そう思います。
 何故貴方を、ああも憎く思ったのか。
 私は、自分の汚れた手が、恥ずかしかったのかもしれません。
 それとも、初めて触れられた優しい手に、戸惑っていたのかもしれません。
 幼い私は、その感情にどう名前をつければいいのか分からなくて、それを憎しみに変換してしまったのでしょう。
 ひねくれた子供だったのでしょうね、私は。
 貴方は、いつも、優しかった。
 その優しさに触れれば触れるほど、貴方が憎くてたまらなかった。
 川遊びをしていて、びしょぬれになって、私が熱を出したことがありましたね。
 その時も、貴方は、家の者に止められるのも構わずに、つきっきりで私の看病をして下さった。
 そして、私の熱がすっかり下がったころに、疲れが出て、代わりに貴方が寝込んでしまいましたね。
 花を摘んで持って行ったら、貴方はとても喜んでくださいました。
 その辺に咲いている、ありふれた野の花にすぎなかったのに。
 本当に、貴方は優しかった。
 こんな私には、もったいないほどに。
 ………だからですよ。
 だから、私は、貴方を、排除しなければならない、と思いました。
 私の傍から。
 私の見えるところから。
 私の、見えない場所に。
 そうしないと、私は壊れてしまう、と。
 いえ、私は壊してしまう、と。
 最初は、私が、ただ、出ていけばいいのだと思いました。
 この城から、どこか、遠く離れた場所に。
 そして、一生、貴方に会わなければいいのだと。
 私は、言いましたよね。
 ここを出たいと。
 貴方は、反対されました。
 何を遠慮しているのだ、と怒りさえしました。
 あの時、その反対を押し切ってでも、ここを出ていくべきでした。
 そうしなかったのは、たぶん、私は嬉しかったのです。
 先の領主さま亡きあと、私がここにいていいと言ってくださるのは、貴方しかいなかった。
 行き場がなくなる、というのは、恐ろしいものです。
 母が死んで、途方に暮れていた私を、先の領主さまが見つけてくださった時は、本当にほっとしました。
 お前はここにいていいのだと、私は言われたかったのです。
 私は弱く、情けない人間です。
 壊れてしまうとわかっていても、この生ぬるい安らぎを、手放すことができなかった。
 手放すことができないから……、壊すしか、なかったのです。
 この、私の手で。
 私には、たえられませんでした。
 貴方が、私以外の、家族を作ってしまうことが。
 ええ、それは避けられない事です。
 貴方は、この地の、領主なのですから。
 この地を引き継ぐ新しい血が、必要なことは、私にもわかっています。
 わかっていることと、納得ができるかは、違う問題です。
 私には、どうしても、どうしても、納得できなかった。
 貴方が、私以外の者に笑いかけて、手を差し伸べるところを、見たくなかった。
 そうしたら、取るべき道は、一つしかなかったのですよ。
 私は、話しに乗ることにしました。
 貴方を亡き者にする、という恐ろしいたくらみごとです。
 貴方の愛するこの地にも、民にも、私は何の興味もありません。
 私が興味を持つのは、貴方だけです。
 子供の頃からずっと、ずっと、憎んできた、貴方、ただ一人です。
 だから、私は、貴方を殺さねばならない。
 この手で。
 私の手が、貴方の血で染まれば、私はようやく安心できるでしょう。
 さあ、おしゃべりは、もうこのくらいにしてしまいましょう。
 そろそろ、終わりにしなければ。
 さようなら。
 さようなら、兄上。
 ………………………。
 
「……………」
 
 
 ……………………兄、上?
 今、なんと、おっしゃったのですか?
 どうして、こんな時に、私に、微笑いかけてくださるのですか?


 ああ、手が、赤い。
 これは一体、何の色だ?
 そうだ、これは花の色だ。
 野に咲く、花の色。
 枕辺に差し伸べたら、熱にうるんだ目を細めて、笑ってくださった。

「ありがとう。私は、お前が………、だよ」

 また、積んでこなければ。
 そして、枕辺に手向けよう。
 そうしたら、今は閉じている目を、開けて、きっとまた、私に微笑んでくださるだろう――――。


Fin,


TOP


Copyright(c) 2011 all rights reserved.