ゆっくり目を開くと、タイル状の白い天井が映った。
ああまた駄目だったんだな、と俺はぼんやりと思った。
駄目……? 何のことだろう。
まだ頭が上手く働いていないのか、自分が今何を考えたのか、よくわからない。
「目が覚めた? バシル」
視線だけを動かすと、湯気を立てるカップを手にしたデメトリが傍に立っていた。
ベッドから半身を起こすと、温かなそれを手渡される。
あまい、ホットチョコレート。
ふと、カップを持つ左手首を見て、違和感を覚えた。
そうだ。目を閉じる前には、ここに傷があった気がする。
自分の右手で、ざっくりと切りつけた傷が……。
でも今左手を確認しても、傷なんてどこにもなかった。
「これでもう、いい加減君も、気が済んだんじゃないかな」
ベッドに浅く腰かけ、デメトリは穏やかに微笑んだ。
制服のように常に身にまとっている白衣からは、薬品の独特な匂いがかすかに漂う。
それはもはや、デメトリの一部だった。
「……何が?」
このホットチョコレートは、いくらなんでもあますぎる。
僕には糖分が必要なんだ。
他の人より多く、脳を使ってるからね。
デメトリはいつもそう言うが、何事も限度と言うものがあると思う……。
「無駄なことを繰り返すことだよ、バシル」
はっきりと、デメトリはそう言った。
言ってることは辛辣なのに、口調はいっそ優しげに聞こえた。
「無駄……」
彼の言う、繰り返される『無駄なこと』をうっすらと思いだした。
頭をピストルで撃ち抜いたこともあった。致死量の毒をあおったことも。
その時は痛いし、目の前が真っ赤になって、次第に真っ黒になっていって……。
そして気がつけばいつもここに、デメトリのラボで目が覚める。
目を閉じる前に穿たれたはずの穴も、吐き出した大量の血も胃液も、どこにも存在しない。
まるでリセットしたかのように。
白い天井の次に目に入るのは、デメトリの笑顔だ。
「そんなに死にたいのなら、先に僕を殺したらどう? そうしたら、君も死ねるかもしれないよ?」
薬品で荒れた指先で、デメトリは俺の髪を撫でながら微笑む。
彼は俺の前では、いつも笑っている。どんな時も。
「いいよ、それでも。僕は、バシルになら何度殺されてもいい」
何でもないことのように、彼はそう言う。
彼は嘘は言っていない。
俺が彼の首を絞めたその時でさえ、デメトリは笑っていたのだから。
あますぎるホットチョコレートの入ったカップをベッドの隅に置くと、俺は彼の首に手を伸ばした。
彼は動かない。頬に浮かんだ、微笑も消えない。
このまま、この指に力を込めれば、彼の呼吸はあっけなく止まることを、俺は知っている。
一度、それを実行したのだから。
ゆるゆると、指先から力が抜けていく。
「………しないの?」
艶然と、誘いかけるようにデメトリは続きをうながした。
俺は力なく、首を振る。
「できない………」
二度も、デメトリを殺すことなんかできない。
腕の中で冷たくなっていったデメトリ。
自分が殺したくせに、絶望で、目の前が真っ黒に塗りつぶされた。
あんな思いを、二度もしたくない。
「馬鹿だなあ、バシル。僕は、君になら殺されてもよかったんだ。いや、君に殺されたかったんだ、バシル」
歌うようにデメトリはそう言って、俺の頬に手をすべらした。
顔を近づけて、羽のように軽いキスをする。
吐息のかかる距離で、彼はささやいた。
「バシル。君なら、きっと僕を殺してくれると思ったよ」
研究データをG国に渡すと彼が言ったのは、あれはいつのことだっただろうか……?
俺は当然、それを止めた。
隣国であるG国とは、一触即発の状態だった。いつ戦争が始まってもおかしくなかった。
そしてデメトリが行っていた研究は、戦争に流用可能なものだった。
極めて効果の高い、一度使ってしまえば、取り返しのつかなくなるような……。
俺はデメトリに、研究そのものも、止めて欲しかった。
彼が誰よりも研究熱心なことも、国から多額の資金援助を受けていたことも知っていたが……、いやだからこそ、止めて欲しかった。
俺はうぬぼれていた。
彼は、俺の言うことなら、聞いてくれると。
「……俺は、今でもわからない。君がどうしてあんなことを言ったのか。俺がどうして、あんなことをしてしまったのか」
彼は俺に黙っていることも出来た。
そして俺も、彼を止められなかったのなら、他の研究所員なりなんなり、他人に告げるだけでよかったのだ。
それなのに彼は俺に言い、俺は他人には何も言わずにどうにかして彼を止めようとして……止められなかった。
「本当に、わからないの……?」
俺の両頬を包み込むように持ちながら、デメトリがおかしそうに笑う。
吸い込まれるように、彼の暗いブラウンの目をのぞきこむ。
そこには、頼りない顔をした俺が映っていた。
「簡単なことさ。君はね、バシル。僕を誰にも渡したくないと思ったんだ」
ベッドがきしんだ音を立てて、カップが落ちる。
どうやら割れはしなかったようだが、あまったるい匂いがあたりに広がる。
拭かなきゃ、と思ったがデメトリにベッドに縫いとめられるように体重をかけられていて、身動きが取れなかった。
「僕も一緒だよ、バシル。僕は君を置いて行けないし、君も僕を残して行けない。それだけのことだよ……」
さっきとは違う、濃厚なキスが降ってくる。
G国は、デメトリにどんな交渉をもちかけたのだろうか。
彼は何も言わなかったが、もしかしてそれは従わざるを得ないような類のものだったのではないか……?
とりとめもない思考の間にも、キスはなお深まっていく。
隙間なくぴったりと合わせられた唇を、デメトリの舌がなぞって、割って入ってくる。
口の中を吸いつくすように舐められ、絡め取られてゆく。
「デメトリは………」
キスの合間に、俺は尋ねた。
続きをうながすように、デメトリは俺を見つめた。
「俺を、殺さないのか?」
とたん、デメトリは弾けるように笑った。
笑いながら、キスを続ける。
「本当に馬鹿だな、バシル。こんなに愛している君を、僕が殺すわけないだろう? 何があっても。どんなことからも、僕は君を守る。誰にも、殺させない」
唇に、頬に、こめかみに、耳に。
あちこちにキスを落としながら、デメトリはうっとりとつぶやく。
黙ってそれを受けながら、ああ、そうだったな、と俺はぼんやりと思った。
デメトリは俺を殺さない。
デメトリは俺を殺させない。
たとえ、それが俺自身の手であっても。
「バシル」
彼の唇が、俺の名を愛しげに紡ぐ。
耳に心地よいそれを聞きながら、これは一体、何度目のやり取りだっただろうかと思う。
今日が何日かということさえ、頭に霧がかかったように思い出せない。
緊迫していたG国との関係は結局どうなったんだ?
……そしてここは、一体どこなのだろう。
見慣れたデメトリの研究室。
目が覚めた時はそう思ったが、本当にそうなのか?
さっきから自分たち以外、誰の気配も感じない。
この研究所には、昼夜を問わず常に大勢の所員がいるはずなのに………。
「愛してるよ」
ささやきと共に再び唇に落ちる濡れた感触を受けとめながら、彼の背中に腕を回す。
あまい匂いと、かぎなれた薬品の匂い。
デメトリの、匂い。
目を閉じてもわかるくらいに馴染んだ匂いに包まれて、俺の頭はますますぼんやりと霞んでゆく。
そもそも俺は、デメトリの首を絞めたあと、どうしたのだろうか………?
そうだ、死ななければ、と思ったんじゃないのか。
そして、俺は………。
「ずっと一緒だよ。バシル。永久に――――」
Fin.
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