040: 記録機械



「ねえ。この I 君っての、もしかして俺のこと?」

 誰もいないと思っていた教室には、まだ1人だけ残っていた。
 しかも、僕が急いで取りに戻った忘れものが、信じがたい場所にあるというオマケつきで。
 そう、それはよりにもよって、他の誰よりも、それを見て欲しくなかった人の、手の中にあったのだ―――。


 それが無くなっていることに気付いたのは、昇降口で靴をはきかえた時だった。
 いつものように、胸の内ポケットを制服の上から確認して、それから靴を履こうとして―――手に馴染んだ固い感触がなかったことに気付いたんだ。
 え! なんで!?
 束の間、パニックに陥った僕は、落ちつけ、落ちつけ……と自分に言い聞かせながら、最後にそれを見た時のことを必死に思いだした。
 えっと……そう、教室にいた時には、あったはずだ。
 うん、ちゃんとあった。
 開いて、今日の出来事を確認したし。
 確認してから、どうしたっけ?
 そうだ、いったん机の上に置いて……それから?
 ああ、竹内に声をかけられたんだ。
 保健委員の当番を来週代わって欲しいとか言われて。
 それで、いいよって言って、それで……それで、そのまま鞄持って教室でたんだよ、僕!
 ってことは、机の上!
 おきっぱなし……!!
 僕は再度、上履きに履き替えると、ダッシュで教室まで走った。
 2年2組の、僕のクラスまで。
 息を切らして教室のドアを開けると、クラスメイトの姿はどこにも見えなかった。
 もう、みんな部活に行ったり帰ったりしたんだろう。
 よかった。
 じゃあ、僕の忘れものは、そのまま机の上にある……はず……………。
 ほっとした僕が自分の机の方に目をやると、信じられないことに、というか信じたくないことに、誰かが立っていた。
 しかも、机の上にあったはずの、僕の忘れものを手にして。
 そして彼は僕に気付くと、言った。

「ねえ。この I 君っての、もしかして俺のこと?」

 決定的な、一言を。
 頭の中が真っ白になった僕は、それでもとっさに口を開いた。

「ち、違うよ……っ!!」

 慌てるあまり、声が裏返ってしまった。
 まだ声変わりが来てない僕の声は、静かな教室に悲鳴のように響いた。
 彼は目を丸くして僕を見ると、まだ手に持っているそれ―――手帳と、僕を交互に見る。

「でもこれは、鈴木のなんだよな?」

 その問いかけには、うんと言わざるを得なかった。
 一番最後のページに、名前も書いちゃってるし……。
 僕は、こくりとうなずいた。

「じゃあ、この I 君って、誰のこと?」

 彼は僕の手帳を持ったまま、入り口のドアで立ちすくむ僕に近づいてきた。
 どうしたらこの場を取りつくろえるのか。
 とっさにそんないい考えが浮かぶはずもなく、僕は視線を反らして口の中でもごもごと言った。

「そんなの……誰だっていいだろ。それより、勝手に人のもの、見るなよ」

 そうだよ。
 僕に、答える義務なんてないはずだ。
 だってそうだろ。
 僕が、僕の手帳に何を書こうと、僕の自由なんだから……。

「勝手に見たのは、ごめん」

 僕のすぐそばに来た彼は、あっさりと、謝った。
 だから僕は、それについてはもうとやかく言わずに、とにかく僕の手帳を受け取ろうと、手を伸ばした……ら、ひょいっとかわされた。

「え……っ!?」

 手を高く伸ばして、僕から手帳を遠ざける。
 悲しいかな、身長差のある彼にそれをやられたら僕には手が届かない。
 ジャンプすれば届くだろうけど、なんで僕のものを返してもらうのに、そんなことしなくちゃいけないんだよ!?

「返せよ!!」

 ジャンプせずに怒鳴ると、彼はまた、さっきと同じことを尋ねた。

「 I 君って、誰?」

 言わないと、返さないつもりなのか!?
 でも、そんなこと、言えるわけない……!!

「だ、だから、誰でもいいだろっ!」
「誰でもいいなら、教えてくれてもいいだろ」
「そ、それは……」

 ご丁寧に背伸びまでして、僕から手帳を遠ざける。
 くそー、自分が背が高いからって、いい気になるなよ……っ!?

「イニシャルが I で始まるヤツって、このクラスに俺以外いたっけ。井上は1組だし、伊藤は3組だよな」
「何も、このクラス……いや、2年生に限定してるとは、限らない……だろ。それに、し、下の名前かもしれないし!」

 よし!
 上手く言い逃れたぞ!
 ……って、思ったんだけど。

「下の名前だったら、それこそたぶん、2年には俺しかいなかったはず。俺、イニシャル、I.I だし。他の学年はわかんないけど……それに、先週の火曜日に、調理実習でホワイトシチュー作ったのは、2年2組しかないんじゃない?」

 すぐに、言葉に詰まった。

「で、ホワイトシチューのにんじんを、隣のヤツの皿に全部入れて先生から怒られた I 君ってのは、俺しかいないと思うんだけど」

 そこまで言われたらもうぐうの音も出ないって言うか。
 ほんとに、中、見られたんだな……。
 あー、もう、何で見るんだよ〜!?

「そ、それは……」

 僕はもはや、手帳を取り返すこともあきらめて、ただひたすらうつむいて、上履きを見ていた。
 顔を、あげられない。
 っていうか、今すぐ走って逃げたい。
 穴掘って、うまりたい……。

「もしかして、これ、俺の観察記録? あ、体育のサッカーで、俺がハットトリック決めたのも書いてる。よかった、ちゃんといい所も書いてあって」

 僕の前で、僕の手帳がめくられている。
 ……死にたい。

「って、ごめん。見るなって言われたのに、また見ちゃった。よく見てるんだな、俺のこと」

 はい、と言って手帳を目の前に差し出される。
 だけどもう、僕はそれを受け取ることはできなかった。

「……てて」

 僕はうわばきに目を落としたまま、言った。

「え……?」

 声が小さ過ぎたのか、聞き返されたので、もう一度繰り返した。

「捨てて。もう、それ、いらないから……」

 涙が出そうになって、それをこらえたら、代わりに声がにじんだ。
 顔をあげないでいたら、何故か手をつかまれた。
 びっくりして、反射的に顔をあげると、彼はにっと笑って、言った。

「じゃあ、これ、ちょっと俺に貸して?」

 予想外のことを言われて、戸惑いながらも僕はうなずいた。
 彼は僕の手を離して、手帳を開くと、付属しているペンで、さらさらと手早く何か書いた。

「これさあ、鈴木、1年の時から持ってたよな」
「うん……」

 一体彼は、何を言いたいんだろう?
 そう思ったけど、追求する気力もなくて、ただうなずく。
 手帳は、中学入学した時に買ってもらったものだった。
 中学生になったら、予定が色々入るかもしれないわね、なんてお母さんに言われて、ちょっと嬉しかったのを覚えている。
 コバルトブルーの鮮やかな色や、手になじむ柔らかな革の感触が気にいって、それに決めた。 
 ルーズリーフタイプだから、年度が代わったら中身を入れ替えて使えるようになってるのもいいと思った。
 だけど僕は、2年生になっても前年度分の手帳の中身を入れ替えなかった。
 代わりに、新しい分をその先に継ぎ足した。
 来年も、そうやって使おうと思った。
 なぜなら僕の手帳は、当初の予定とは違う使われ方をするようになったからだ………。

「俺、鈴木と最初にしゃべったのって、4月15日だったんだな。これ見て、思い出した。図書委員になった時だよな」

 懐かしそうに彼が言うのに、僕はやっぱり、うなずき返すだけだった。
 そんな最初の方から見られたなんて……もう言い訳のしようもない。
 
『 I 君と図書委員になった。 I 君とはじめてしゃべった。』
 
 最初は、ただの思いつきだった。
 イニシャル表記にしたのも何となくだし、つけだしたことも、ついで、みたいな。
 明るくて、人見知りなところがある僕とは違い、すぐに周囲のクラスメイトと打ち解けいていた彼としゃべってみたいと思っていた。
 だけど自分から話しかける、なんて無理で。
 あいさつすら出来なくて。
 だから、一緒の委員会になれた時は、嬉しかった。
 それでちょっと、手帳の4月15日の欄に、書いてみたんだ。
 委員会が一緒になったら、結構しゃべれるようになって。
 でも別に、特別仲がいいとか、そんなことはなくて。
 たくさんいる友だちの内の1人、クラスメイトの内の1人でしかなくて。
 でも僕は、もっと知りたいって。
 見ていたいって、思って。
 そしてそれを、忘れたくないって思ったんだ。
 どんなささいなことでも。
 それが、僕の手帳が I 君の記録手帳になった、きっかけ。
 どうせなら3年分そろえたいって思って、去年の分を外さずに、その先に新しいのをつけたんだ。
 2年生になって、運よく、また同じクラスになった時は、本当に嬉しかった。
 違うクラスになったら、同じクラスだった時みたいに、近くで見ることが出来なくなるから。
 出来るだけ、機械みたいに正確に、彼の情報を記して、持っておきたいって思ったんだ。
 これって、我ながら………。

「ごめん………」

 居たたまれない思いで、僕は謝った。

「ストーカーみたいなまねして、本当に、ごめんなさい」

 そうだ。
 客観的に見れば、これはストーカー行為だ。
 クラスメイトから逐一行動を記されるなんて。
 最悪だ。

「別に、何も鈴木がストーカーみたいだなんて、思ってないって。ただ、ちょっとびっくりしたって言うか……」

 彼はそこで言葉を切ると、何故か照れたような顔をした。
 あれ? なんで、照れるんだ?
 ここって、怒るとこじゃないの……?

「少し、や、けっこー、嬉しかった」  

 そう言って、彼は本当に嬉しそうに、笑った。
 ので、僕はすごく、驚いた。
 だから、なんで……!?

「鈴木さ、たまにこの手帳眺めて、嬉しそうにしてただろ。俺、何書いてあんのかなーって、ずっと思ってたんだよ。でもいつも、ちょっと確認したら、すぐ内ポケットにしまってたから。なんか大事なこと書いてあって、聞いてもたぶん教えてくれないんだろうなーとか、思ってて。そんで、プリント忘れて取りに戻ったら、ずっと気になってた鈴木の秘密手帳があって……」

 秘密手帳って、なんだ。
 いや、確かに誰にも見られたくない秘密ではあるんだけど……。

「ユーワクに打ち勝てなくて、悪いなーと思いつつ見てみたら、何か書いてあるの、ぜんぶ、俺のことじゃん。えー、ウソだろー! って」

 それは見られた僕の台詞です。

「鈴木が嬉しそうに確認してたのって、俺のことだったんだって。うわどうしよう! って思ってたら、本人が来るし……!」

 彼はテンションがあがってきたのか、次第に早口になっていった。
 そして何だかよくわからない勢いのまま、再び手をつかまれた。
 さっきよりも強く、ぎゅっと。

「ねえ、なんで I 君のこと、記録してたの。なんで、それ、嬉しそうに確認してたの?」

 正面から、まっすぐ目を見つめられて、縫いとめられたように視線が外せない。
 この場を上手く取りつくろえる言葉なんて、僕は最初っから、持ってなくて。
 だから僕は、観念して、正直に答えた。

「好きだから」

 ああ言っちゃったよ……。
 恥ずかしいとか照れくさいとか死にたいとかそういうのよりも、何故か僕は負けたような気分だった。
 言うつもりのないことを言わされたんだから、そう言う意味では負けたんだよな。
 と、半分現実逃避した頭で考えていたら、さらに現実より遠い言葉が耳に飛び込んできた。

「俺も。俺も、鈴木のこと、好き……!」

 え、と思う間もなく、つかまれたままだった手を引き寄せられて。
 あ、と言う間もなく、口をふさがれた。
 柔らかく、弾力のあるもので。


 結局僕の元に返ってきた手帳を、家に帰って開いたら、僕じゃない字で、今日の日付分に、こう記されていた。


『 I 君と、はじめてキスをした。』


Fin.   


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