042: お気に入りの一冊



 窓の外から、初夏のさわやかな風が吹き込んできて、机の上の書類を、ぱらぱらとめくった。
 だが、小さなガラスの文鎮で押さえられているので、紙の束が崩れることはない。
 飴色の、広い机の上には、同じような紙の小山が、ひとつ、ふたつ、みっつ……。
 広い机の傍にある、棚の中にも、やっぱり同じものがあった。
 書類の小山の向こうには、やわらかい、赤い布を張った、座り心地のいい椅子に座った、このお屋敷の旦那様が、ペンを握ってうなっていた。
 コンコン、とノックの音が聞こえて、旦那様はペンを置いて、顔を上げた。

「旦那様。そろそろ、休憩に致しましょうか?」

 入ってきたのは、お屋敷の家令だった。
 右手に、銀色のお盆を持っている。
 その上には、ふわりと湯気をたてているポットと、バラ模様のカップ、ビスケットの乗った白いお皿。

「ああ。助かったよ。さっきから、やってもやってもちっとも仕事が減らなくて、うんざりしていたところだったんだ」

 いそいそと立ち上がった旦那様は、お行儀悪く、立ったまま、家令の持つお盆の上にあるビスケットをつまんで、ぱくり。
 家令は、そんな旦那様に思わず笑みをこぼしたけれど、ふたつめのビスケットをつまむことは、ゆるさなかった。

「急がなくても、ビスケットは逃げませんよ」
「そんなの、わからないだろう?小鳥たちが飛んできて、つまんでしまうかもしれない」
「ここにいるのは、私以外は、大きな小鳥が一羽、いるだけです」

 旦那様の手をかわして、家令はテーブルにお茶の準備を始めた。
 それ以上、ビスケットをつまむのをあきらめた旦那様は、おとなしく、ソファに座って、その様子を眺めている。

「さあ、ご用意できましたよ。どうぞ、召し上がれ」
「うん」

 バラ模様のカップに注がれた紅茶を、ひとくち含む。
 それから、ビスケットをひとつ、ふたつ。
 旦那様の顔に、にっこり、笑顔が浮かぶ。

「うん、今日のお茶も、ビスケットも、いつもどおり美味しい」
「それはようございました」
「ところで、アレスはどうしてるんだ?」
「アレス様ですか。図書室の方で、なにやら調べ物をなさっていました」
「図書室か……。あいつも、相変わらず、勉強熱心なやつだ」
「ええ、ほんとうに。旦那様とは違って」

 顔色も変えずに、さらりと言う家令に、旦那様はちょっとムッとした。
 カップを置いて、家令を、じろり、とにらむ。

「あの子くらいの年頃で、勉強熱心な方が変わっているんだ。僕の方が普通だ」
「そうですね。まあ、そういうことにしておいても、よろしいのではないかと思います」
「ひっかかる言い方するなあ、お前」
「正直に申し上げたまでです。そういえば、旦那様」
「うん?」

 旦那様の座っているソファの傍に立っていた家令は、1冊の本を取り出した。
 やや古びてはいるが、表紙には色鮮やかな絵が描かれている。

「おや、それは……なつかしいな」
「ええ。先ほど、図書室の棚の隅に、落ちていたので持ってまいりました。旦那様がお好きだった、絵本です」
「そうそう、この表紙、この絵………」

 家令から絵本を受け取った旦那様は、なつかしそうに、表紙をそっとなでた。
 旦那様が、まだ旦那様ではなかった頃。
 おさない子供だった時分、寝る前に、よく読んでもらった絵本だった。

「なつかしいなあ。すごく好きだったんだ。お城の騎士が、すごくかっこよくって。僕も、あんな風になりたいって思ってたんだ」
「騎士が、竜と戦うシーンが、旦那様のお気に入りでしたね」
「ああ、そうだったな。……でも、どうしてだろう?お気に入りの絵本だったのに、結末は覚えていないなあ」

 旦那様は、絵本の表紙をなでながら、不思議そうに首をかしげた。
 そんな旦那様の様子を見て、家令はふふっと笑った。

「ええ、ええ。そうでございましょうとも。旦那様はいつも、最後のページを読む前に、眠ってしまっていたのですから」
「そうだったか?」
「はい。ですから、前の日にもう読んでいる、最初の方を飛ばして、途中からお読みしましょうか、と私が申しても、旦那様は『飛ばして読むなんて、絶対だめだ!』とおっしゃって、いつも最初から読んでいました。そして、最後を読む頃には、必ず、夢の中だったんですよ」
「そうだったのか……。言われてみれば、そうだった気もするなあ」

 本を傍らに置いて、旦那様はその頃を思い出すように、目を細めた。
 悪者にさらわれたお姫様さまを救うために、白い馬に乗って旅立つ、騎士のお話。
 騎士が、竜と戦うシーンが大好きで、その部分だけ、何度も何度も、繰り返し、読んでもらった。
 それなのに、おしまいがどうなったのかは、知らないお話。

「そうだ。この本、読んでくれないか」
「私がですか?」
「ああ、そうだ。昔みたいに。お前が読んでくれ。さあ」

 子供みたいに、旦那様が絵本を、両手で差し出してきたので、家令は勢いに押されて受け取った。
 ちょっと困ったように笑うと、わかりました、とうなずく。
 ここに座れ、と言うように、自分の隣をぽんぽん、と旦那様が叩いて示したので、家令は絵本を持って、座った。
 ひざの上に置いた絵本の、最初のページを開く。

「それでは、読みますね。むかし、むかし、小さなもりにかこまれた、小さなおしろがありました。そこには、りんごのようにまっかなほほをした、かわいいお姫さまがいました――――」

 低い、静かな声が、ゆっくりと流れてゆく。
 旦那様は、小さな子供に帰ったかのように、目をきらきら輝かせて、お話に耳を澄ました………。


「叔父様。失礼します……、あの、叔父様?」

 図書室での調べ物が終わったアレスが、旦那様の部屋を訪れると、そこに居たのは、家令だけだった。
 何か、大きな布のようなものを、片腕に抱えている。
 机の上には、まだまだ片付かない、書類の山が残ったままだ。

「アレス様。申し訳ありません、お声を、小さくしていただけませんか」

 空いているほうの手で、家令は口を押さえる仕草を見せた。
 そして、ドアとは反対の方向にあってこちらからは見えない、ソファへと向かった。
 手にしていた――どうやら、毛布のようだ――をそこにかけると、振り返って、アレスのほうへやってくる。

「失礼しました。旦那様は、今、眠っておられますので」
「そうなんだ。それじゃ、僕、出直した方が、いいね」
「ええ。旦那様が目を覚まされたら、お呼びします」
「いいよ。僕、さっき調べた本で、今からレポート書かなきゃいけないから。夕飯のときでもいいし」
「そうですか。ご用件は、私がうかがっても?」
「うん。僕、予定より早めに学校に戻ることになったんだ。さっき、クレイから手紙が着たでしょ?あいつ、課題がどーしても終わらないから、早めに学校に戻って、手伝って欲しいって。ったく、しょうがないよな」

 そういいながらも、アレスは笑っていた。
 きっと、その友人とは仲がいいのだろう。

「それは……。旦那様が、がっかりなさいますね」
「うん、叔父様には、ちょっと悪いかなって思ったけど。でも、叔父様も、もう僕と遊んでる暇はなさそうだし……」
「それは、その通りでございますね」

 ふたりの視線は同時に、机の上の書類の山へ向かう。
 アレスが休暇で戻ってきてから、甥っ子が可愛くて仕方のない旦那様は、仕事をほっぽって、あちこちつれて歩いたため、現在、仕事が目いっぱいたまった状態になっていた。

「叔父様といっしょにいるのは、僕も楽しいんだけど、ね」

 書類から視線を戻し、家令と目を合わせたアレスは、旦那様と同じはしばみ色の目をくるんと回して、笑った。

「旦那様は、アレス様以上に楽しかったと思いますよ」
「そうだといいんだけど……。あれ、その本、何?」

 アレスは、家令が小脇に抱えていた本に気づいて、尋ねた。

「これは、旦那様が、おちいさい頃、お気に入りだった絵本ですよ」
「わあ、なつかしいな。僕もそれ、小さい頃、叔父様に読んでもらったよ」

 差し出された絵本を、アレスはなつかしそうに手に取った。

「寝る前に、叔父様が読んでくださってたんだけど……。いつも、最後まで読まない内に、叔父様は寝ちゃうんだよ。僕より先に」
「それは、それは……」
「だから、もう知ってる、最初の方は飛ばして、途中から読んでよって言うんだけど、叔父様は、絶対、最初から読むんだ。途中を飛ばすなんて駄目だって。そのくせ、最後まで読みきる前に寝ちゃうなんて、おかしいよね。ゆすっても、たたいても起きないんだから。叔父様を起こすのに疲れちゃって、結局、僕も寝ちゃって」
「旦那様らしゅうごさいますね」
「この絵本、僕も大好きだったんだけど、最後がどうなってるのかは、知らないんだ」

 絵本の表紙を、そっとなでているアレスの仕草は、先ほどの旦那様とそっくりだった。
 細められた、はしばみ色の目も。

「それでは、お読みになりますか?絵本ですから、学校に戻るまでに読んでしまえますよ」
「そうだなあ……」

 少し、考えるそぶりを見せたアレスは、やがてゆっくりと、首を振った。

「いいよ。気になるけど、やめとく」
「どうしてですか?」
「うーん……。まあ、ひとつくらい、おしまいのわからない、お話があってもいいんじゃないかなって、思って」
「おや、まあ。アレス様は、ロマンチストでいらっしゃるのですねえ」
「そうかな?うん、そうかも。でも、きっと、叔父様ほどじゃ、ないよ」


 窓の外から、初夏のさわやかな風が吹き込んできて、机の上の書類を、ぱらぱらとめくった。
 だが、小さなガラスの文鎮で押さえられているので、紙の束が崩れることはない。
 紙の上を通り過ぎた風は、ソファに横になりながら、竜と戦う騎士の夢を見ているに違いない、このお屋敷の旦那様の前髪をそっとゆらして、通り過ぎていった。


Fin.


TOP


Copyright(c) 2008 all rights reserved.