043: 約束



「約束の夜だ。迎えに来たよ、私の花嫁……」

 音を立てて窓が開き、カーテンが風ではためく。
 月明かりを背に、男が立っていた。
 つま先を、軽く窓枠に乗せているだけといった、体重を感じさせない無造作な姿で。
 逆光で顔はよく見えないが、すらりとした立ち姿と、どこかかすれた低くて甘い声からして、容姿も悪くなさそうだ。
 ビロードの天蓋のベッドの影から、そっと姿を現したのは、今宵、連れて行かれる哀れな花嫁。
 頬を濡らすのは、己の運命を嘆く涙なのか、それとも――――。
 
「遅い!待ちくたびれちゃったよ。あくび噛み殺し過ぎて、もう涙も出てこないよ」

 月明かりに照らされたのは、麗しの花嫁。
 腰に手を当て、緑色の大きな瞳を好奇心で輝かせた、変声期をようやく過ぎたばかり、といった年頃の……。
 少年、だった。


 深い森の奥にひっそりとたたずむ小さな家は、日当たりも良く、居心地が良かった。
 焼きたてのパンと、ふんわり柔らかなスクランブルエッグ、あたたかいスープで朝食をとりながら、クリスは目の前をぱたぱたと飛んでいる、黒いコウモリに話しかけた。

「君も、たいがい、うっかりさんだよね」
「う……それを言ってくれるな」

 コウモリの小さな口が、どうやって人間の言葉を発しているのか実に不思議だが、クリスはさほど気にしていないようで、会話を続ける。

「数字を書き換えられちゃったのに気付かないのもだけどさ、人の寿命なんて、頑張って80年くらいだよ?」
「忘れていたのだ。人はあっという間に老いて、死んでしまうということを……」
「まあ、しょうがないよね。魔物は人と生きる長さが違うんだから。そういうこともあるよ、気にしないで」

 自分が言いだしたくせに、あっさりそう言うと、クリスは食べ終わった食器を洗い場まで運んで行った。
 くみ置きの水でざっと洗うと、布巾で拭いて、食器棚に片づける。

「すまないな、片づけをさせてしまって」
「何言ってんの。食事作ってくれたの、君じゃない。このくらい、僕がやらなきゃ。第一、今の君じゃ、何も出来ないでしょう」
「それはそうだが……」

 食事の用意は、人の姿を取っていた夜明け前に準備しておいたが、今はコウモリだ。
 この姿で、茶碗を洗ったり片付けたりすることは不可能だ。

「これからずっと一緒なんだから、何でも言って。出来る事なら、なんだってするよ。なんたって、僕は、君の、花嫁なんだから!」

 ね?と笑って告げられて、何と言っていいのかわらかないまま、コウモリは、ぱたぱたと翼をはばたかせて、庭へと飛んで行く。

「あ、待ってよ……」

 後ろから、少年が慌てた様子で付いて行った。
 風が梢を揺らし、暖かな日差しが庭に植えられた様々な花たちに降り注いでいる。
 今日は一日、過ごしやすい、いい天気になりそうだった。


「信じられないな。クリスが、もう死んでしまったとは……」
「うん。おばあさま、最後まで、君の事、気にかけてたんだよ」
「別に、気を遣わなくていい」
「ほんとだってば!」

 庭のベンチに腰掛けたクリスは、膝の上に乗ったコウモリに力説した。
 クリスがここで、コウモリと奇妙な会話を交わしているのは、クリスと同じ名前の祖母の存在あってこそだった。
 半年前に亡くなった、大好きだった祖母は、少女のころ、コウモリと結婚の約束を交わしたのだと言う。

『おばあさまは、どうしてコウモリさんとけっこんのやくそくしたの?』

 目を丸くしてクリスが尋ねると、祖母はいたずらっぽく笑った。

『花をもらったのよ。毎日、一輪ずつ。そして、いろんな話をしたわ。友達のこと、村ではやってたリボンの色のこと、お父様の悪口……。彼はあんまりおしゃべりな方じゃなかったけど、とっても聞き上手だったの』
『コウモリさんがしゃべって、おばあさまはびっくりしなかったの?』
『そうねえ……。最初はびっくりしたかもしれないけど、すぐ慣れちゃったわ。だって、コウモリさんがしゃべっちゃいけない、なんてこと、ないでしょう?みんな知らないだけかもしれないわよ。コウモリさんが、口をきけるんだってこと』

 懐かしそうに目を細める祖母は、まるで少女のようだった。

『おばあさまは、そのコウモリさんがすきだったんだね!だから、けっこんしようっておもったんでしょう?』
『ええ、そうよ。なのに、どこから漏れたんだか、お父様にバレちゃって。結婚の約束の手紙を見られちゃったのよ。それで、勝手に返事を書きかえられちゃったのよ。うーんと先の日付にね!』
『おへんじはまちがいです、ってつたえられなかったの?』
『手紙は、あのひとが直接、取りに来ていたの。どこに住んでるのか知らなかったのよ。だから、そのまま、それっきり……』
『じゃあ、きっと、コウモリさんは、いまもやくそくをしんじているんだね』
『ええ、きっとそう。せめて、約束の日に会って、謝りたいわ……』

 祖母は、ため息をついて、寂しげに笑った。
 兄たちに話すと、馬鹿だな、おばあさまの作り話に決まってるだろ、と笑われたが、クリスは祖母が嘘をついているとは思えなかった。
 だから、クリスは祖母に言ったのだ。
 その約束は、自分が代わりに果たすから、安心してくれ、と――――。

「それで、お前はクリスの代わりに私を待っていたのか。物好きだな」
「だって、おばあさまと約束したんだもの。少なくとも、おばあさまの気持ちだけは、伝えたかったんだ」
「優しいんだな、お前は……」
「お前じゃない。クリス」
「ややこしいな。同じ名前なんだな」
「おばあさまはクリスティーヌ、僕はクリストファーだけどね。それで、君の名前は?」
「なんだ。聞いてなかったのか」
「うん。会った時の、お楽しみにしようと思って」
「……セシルだ」
「セシル。セシルって言うんだね」

 確認するように、セシル、セシル、と繰り返し口の中でつぶやくと、膝の上でコウモリが居心地悪そうに身体を動かした。

「どうしたの?」
「いや……人に、名前を呼ばれたのが久しぶりで。変な感じだ」
「セシル。これから、いっぱい呼ぶから、すぐ慣れるよ」

 コウモリの翼を、そっとなでる。
 力を入れたら破れてしまいそうだが、思ったよりも滑らかな手ざわりだった。

「これから……も、ここにいるのか?」
「そうだよ。だって、そういう約束でしょう」
「クリス……、お前の祖母の話は聞いた。約束は、彼女としたものだ。お前が代わりに果たす必要はないんだぞ」

 コウモリ……セシルは、ちらりと顔をあげて言った。
 クリスは、セシルを両手で抱えると、目の高さに持ちあげた。

「セシルは、おばあさまじゃなきゃ、イヤ?」
「嫌とか、そう言う話じゃないだろう」
「そう言う話だよ。僕は、セシルが好きだよ」

 真剣な声で告げられて、セシルは返答に詰まった。

「ゆ、ゆうべ会ったばかりだろう……」 
「そうだけど、君の話なら、おばあさまからもたくさん聞いたし、実際会ってみて、おばあさまの代わりじゃなく、君ともっと一緒にいたいって思ったんだ」

 ほんとだよ、と言われても、にわかには信じられない。
 何と言っても、今は、コウモリの姿なのだ。

「クリスは、コウモリが好きなのか……?」
「コウモリが、じゃなくて、セシルが、だよ」
「…………」
「やっぱり、おばあさまじゃなきゃダメなんだ……」

 しゅん、とうなだれるクリスを見て、セシルは慌てて翼を振った。

「そういうわけじゃない!ただ、驚いただけだ……本当に、いいのか?」

 セシルは、彼女と約束を交わした日の事を、思い出していた。
 あの時も、同じ事を言った。
 結婚してくれ、と言って、うなずいた彼女に、本当にいいのか、と。
 昼はコウモリで、夜は人の姿を取る、魔の者。
 そんな自分と、本当に一緒にいてくれるのか、と。
 彼女は、笑って答えたのだ。
 そう、こんな風に――――。

「いいに、決まってるじゃない。夜の姿も素敵だけど、今の君だってとっても可愛いよ」

 クリスは、そっとセシルに口づけをした。
 約束のキス。

「この命続く限り、僕は君の傍を離れないよ」

 もう一度、キスをしようとして、セシルの翼に阻まれる。

「セシル……?」
「この続きは、日が暮れてからだ。……この姿じゃ、何も出来ないだろう」

 セシルはクリスの手から逃れると、梢へと飛んで行く。

「続きって、何?セシル、セシルってば……!」

 尋ねても、返って来たのは、翼のぱたぱたという音だけだった。
 クリスは笑いながら、セシルの後を追いかけた。
 久しぶりに耳にする、自分の名前がくすぐったくて、セシルはしばらく聞こえないふりを続けて、飛び続けていた。


 柔らかく暖かな日差しが、深い森に囲まれた、小さな家に降り注いでいる。
 ほんの少しだけ、違う形で果たされた約束を、言祝ぐように。
 約束通り花嫁を迎えた、その家に。


Fin.


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