044: 月夜の散歩



 今宵は歩いて帰ろう。月がこんなに綺麗だからね。
 御友人に会いに出かけた帰り道、そう言ってご主人様は牛車から降りて、先に車を帰してしまいました。
 もちろん、夜道をおひとりで歩かせるわけにはまいりませんから、私も一緒につき従います。
 少し後ろをついて歩きながら、私はご主人様に申しました。

「いくら月が綺麗だからって、夜盗が出たらどうなさるのですか」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。こんなに明るいのだもの、夜盗だって今頃、月見でもしてるはずさ」

 ほら、お前もごらん、そう言ってご主人様は月に手をかざして笑います。
 まったく、なんてのんきな……とため息をつかずにはいられませんが、反面、私はほっとしていました。
 こんなに明るく笑うご主人様を見るのは、久しぶりだったからです。
 月の光には、ひとのこころを浄化し、癒す……そんな効果があるのかもしれません。
 そんなことを、ふと思うくらいには、今宵の月は、たしかに美しいものでした。

「おや……清晴、あんなところに、何か落ちているよ。白い、塊のようなものが」

 不用意に塀の傍に近づこうとするご主人様を手で制して、私はそれに近づきました。
 白くて、丸いそれに。

「ご主人様。うさぎですよ」
「うさぎか。このような場所に、めずらしいな」

 野に行けばめずらしくないとはいえ、ここは都大路。
 猫や犬ならともかく、こんなところでうさぎを見たのは私もはじめてです。

「怪我をしているのかい?」

 心配そうに問うご主人様に、私はしゃがみこんで、うさぎを見ました。
 そっと持ちあげても、うさぎはぐったりした様子で、ぴくりとも動きませんでした。

「見たところ、どこも怪我はないようなのですが……」
「どこぞの童にでも野から連れて来られて、逃げだして腹を空かして行き倒れたのかもしれないね。それとも、」

 ご主人様はそこで言葉を切って、空を指差しました。
 ほぼ満月と言っていい、丸く太った月を。

「月から、落っこちて来たのかもしれない」
「まさか……」

 うさぎが月で餅をついている。
 うさぎが月で薬を作っている。
 そのようなおとぎ話は、私も幼いころ母から聞いたことはありますが、これはどう見てもただのうさぎです。
 私たちの話が耳に入って気がついたのか、うさぎが閉じていた目を開けました。
 一瞬、金色に光った気がしましたが、次に見た時は円らな黒い瞳でした。
 きっと、月の光が反射して見えたのでしょう。

「いいや、きっとそうに違いない。月へのきざはしをうっかり踏み外して転げ落ちた、月の貴人の随身だよ。屋敷に連れ帰って、手厚くもてなさないといけないね」
「ご主人様が、そうおっしゃるのであれば……」

 今宵のそぞろ歩きの、思い出になされたいのだろう。
 そう思えば特に反対するようなことではなく、私は『月の貴人の随身』であるところのうさぎを丁寧に抱え直し、屋敷までの道のりを、ご主人様の後をついて歩いて行ったのでした。


「朝餉は、いかがいたしますか……」

 いつもは朝早いほうのご主人様も、ゆうべは久方ぶりに出歩かれたためか、すっかり日が高くなった時分にも寝所から出てこられなかったため、声をかけに行きました。
 ご主人様はその御身分の割には、なんでもひとりでなさるのがお好きな方で、着替えなどで女房や従者の手を借りることはめったにありません。
 それでも、寝過ごされた今日のような日はお手伝いした方がよいだろうかと、衝立の向こうを見てみましたら……。

「ああ、清晴。おはよう……」
「おはようございます。ゆうべは、たいへんお世話になりました」

 伏したままのご主人様の隣で、同じように伏したまま、ぱっちりと目を開けて礼を言う、見知らぬ少年の姿があったのでした。
 透き通るような白い肌に、扇形に広がる、老婆のように白い髪。
 それなのに、彼が少年だとわかるのは、何も身につけていないその身体には、少女のような柔らかなふくらみが、どこにも見えないから。

「ご主人様………」

 思わず、私が咎めるような目で見ましたら、ご主人様はご自分の隣を見て、軽く目を見張りました。
 そして信じられないことを口にしたのです。

「お前は、ゆうべのうさぎ、かい?」
「はい」

 少年はこっくりうなずきます。
 そうかそうか、とご主人様は鷹揚にうなずきますが、私はさようですか、とうなずくわけにはまいりません。

「このような年端もいかぬ、しかも男子を寝所に引き入れるのは、いかがなものかと思いますが」
「おや、清晴。ヤキモチかい?」

 ご主人様がおもしろそうな顔で言うのに、私は無言で返します。
 決まり悪げにご主人様はほつれた髪を指ですくうと、言いました。

「冗談だよ。そんな怖い顔で見ないでおくれ。……それにゆうべ、私はうさぎと一緒に眠ったんだ。それはお前も知っているだろう?」

 あのあと連れ帰ったうさぎに、夕餉に使った残りの青菜をあたえてみると、うまそうに食べました。
 どうやら腹が空いて行き倒れていたと言う、ご主人様の最初の推察が当たっていたようです。
 うさぎは満腹になったら眠ってしまい、毛だらけになりますよ、という私の忠告も聞かずにご主人様は、ご自分の寝所につれていったのですが……。
 まさか、その少年が、本当にあのうさぎだと言うのでしょうか。
 私のもの問いた気な視線に気づいたのか、少年は起き上がって、答えました。

「はい。わたしは、ゆうべあなた様方に助けられた、うさぎでございます」

 その節は本当にお世話になりました、とぺこりと頭を下げます。
 たちの悪い冗談を言うんじゃない、と怒るところなのかもしれませんが、そう言われてみれば、次第に、そうなのかもしれない……と思えてきました。
 第一、このような凝った悪ふざけをする意味が分かりません。
 新手の、盗賊の類なのかもしれませんが……。

「青菜も、たいへんおいしゅうございました。このところ、わずかな水か、たんぽぽの葉くらいしか食べてなくて……。ほんとうに、助かりました」

 こんなことを言う盗賊は、いないように思います。
 それに、盗賊と言うにはずいぶん華奢で、盗みに入った途端につかまってしまいそうです。
 どうにも、信じられませんが……。

「わかりました」

 そう言って私は、彼が着られそうなものを取りに向かったのでした。


 そのうさぎ―――少年は、佐月と名乗り、月の都である方にお仕えしているのだと語りました。
 仕えている貴人が、べつの星にすまう恋人の元から牛車で月に帰るおり、突き従っていた佐月は流れ星にあって、空から振り落とされてしまったのだと言うのです。
 人の世では昼間しか人の姿を保てず、夜はうさぎに戻ってしまうため、着物も取られ、食べるものもなく、ほとほと困っていたのだと。
 驚くべきことに、ご主人様の立てた予想は、ほとんどあっていたのです。
 やはり、信じられませんが……。

「それで、佐月。お前、月にはもう帰れないのかい?」

 ご主人様がそう聞くと、佐月は首を振りました。

「いいえ。月が欠けて、また丸くなれば、迎えの牛車がくると思いますから……」
「そうか。それはよかった。では、それまでは家にいるといい。客人として迎えよう」
「ありがとうございます」

 佐月は、ほっとしたように笑いました。
 ………とても、かわいらしい、笑顔でした。


 佐月は、言葉通り、夜になると本当にうさぎに戻りましたが、昼間はふつうの少年でした。
 肉や魚の類は食べず、葉物しか食べないあたり、ひとの姿の時も本当にうさぎのようです。
 日の高いうちは、庭をご主人様とそぞろ歩き――たまに花を摘まみ食いし――、存外上手く、蹴鞠をしたりしていました。
 その姿は、髪が真っ白なことをのぞけばどこにでもいる少年の姿でした。
 ご主人様の幼い頃のお召し物が、あつらえたようにぴったりとして、よく似合って……はっとするほどでした。
 庭からは、ご主人様と佐月の、明るい、楽しげな笑い声が響きます。
 それを喜ばしく思いながら、同時に私は早く、次の満月が訪れればよいのに、と思いました。
 いいえ、ご主人様をおもうのなら、次の満月はなるべく遅く、いや永遠に訪れない方がいいのに。
 あんなに望んでいた、ご主人様の笑い声を聞きながら、私は矛盾したことをおもい、胸が新月の夜の様に、真っ黒に塗りつぶされていくのでした。


 私の思惑などあずかり知らぬ顔で、月は欠け、また満ちていきました。
 そしていよいよ今宵が満月だと言う日に、佐月は私の元へやってきました。

「このひと月、本当にお世話になりました。なんのお礼もできずに去るのが申し訳なく……」

 礼儀正しく手をついて頭を下げる佐月を、私は制しました。

「私は、何も。礼を言うのなら、ご主人様になさい。私は、ご主人様に従ったのに過ぎぬのだから」

 ああ、これでやっと帰ってくれる。
 そう思う、醜い気持ちを悟られたくなくて、私は何でもないように答えました。
 それでも佐月は、いいえ、と首を振りました。

「清晴様には、とてもよくしていただきましたゆえ。先に、嗣人様にもご挨拶しましたが、同じように、私ではなく清晴に礼を言いなさいと言われましたよ」

 にっこり笑ってそう告げられ、私は胸が痛くなりました。
 私は、ご主人様にそう言っていただけるような者ではないのに。

「佐月……」

 気がついたら、私は言っていました。

「どうしても……どうしても、帰らねばならぬのか? ずっと、ここにいてはもらえないだろうか。ご主人様のために」

 佐月は、困ったように首をかしげます。
 それでもなお、言わずにはいられませんでした。

「頼む」
「清晴様……」
「佐月が来てから、ご主人様はようやく笑うようになられたのだ。あの方を亡くしてからはずっと、ふさぎこんでいたのに」

 あまり夜歩きをなさらないご主人様にも、しげくお通いになる方がいました。
 遠縁にあたるその方は、元々病がちであったのだが、みつき程前、ついに儚くなってしまわれたのです。
 私では、ご主人様を笑顔にすることはできません。
 ですが、佐月なら……月のうさぎなら。

「わたしが、このひとつき、嗣人様といて、何を話していたのか、ご存知ですか?」

 なのに佐月は、私の頼みには答えずに、違う事を尋ねてきました。
 私は戸惑って、首を振りました。

「清晴様のことですよ。いつも、清晴様のことばかり。清晴があの時どうした、こう言った……そんなことばかり。おかげでわたしは、すっかりあなたのことに詳しくなってしまいました」

 佐月はおかしそうに、続けました。

「清晴があまりに私を気遣うから、どんな顔をすればいいのかわからないんだよ、と仰っていました。菊子殿は恋人ではないのに、と」
「え……!?」

 驚いて佐月を見ると、佐月は目を金色に光らせて、くすっと笑いました。

「病弱な菊子姫が、いっときでいいから、私にも通ってきてくれる背の君が欲しいと。そう頼まれたそうです」
「それは……まことに?」
「ええ」
「では、なぜ……何故、ご主人様はそれを私に、仰ってくださらなかったのだろう」

 信用されてなかったのだろうか、と落ち込む私に、佐月は、さあそれは、と言って、視線を私の向こうにやりました。

「直接、聞いてみてはいかがですか」
「え……」

 振り向くと、そこには決まり悪げに、ご主人様が立っていました。
 立ち聞きですか、と佐月が笑いますが、私には何が何やらわからず、ただご主人様を見つめていました。
 ご主人様は咳払いをひとつして、私の隣に腰掛けました。

「あー、その、なんだ。佐月が今、言ったことは、全部本当だ」
「でしたら、何故……」

 問うと、ご主人様は視線をしばしさまよわせたのち、小さな声で言いました。

「………ヤキモチを、焼かせたかったんだ」
「は……?」

 また冗談ですか。
 ムッとして、そう言おうとしてご主人様を見ると、ご主人様は顔を赤くして私を見ていました。

「冗談ではない。それなのにお前は、病の身の姫を大事にするとは、さすがご主人様です、なんて言うし。頼まれて、『背の君ゴッゴ』をしていただけで、もちろん菊子殿も承知の上で楽しんでいた、それだけだ。縁戚で、大事な友でもあったゆえ、亡くなられた時は確かに悲しかったが……。それよりも、お前があまりにも私を哀れんでくれるので、本当のことを言えなくなったのだ……」

 赤い顔で、意気消沈してうつむくご主人様に、私は何と言えばよいものかわからずに、ただただ、驚いていました。
 佐月を見ると、どこか面白そうに笑って、ご主人様と私を見ています。

「これ。何か言わぬか……」

 沈黙に堪えかねたのか、ご主人様は顔をあげて私を睨みます。
 今度は、私が困る番でした。

「そうは言われましても……」

 大事な恋人を亡くされて打ちひしがれているのだとばかり思っていた私は、全部嘘だったのですか、と怒るところだったのかもしれません。
 ですが、ひとはあまりに驚くと、どうやら怒りと言う感情はわき起こらないようです。
 代わりに私は、ほっと息をついて、笑いました。

「ご主人様が、お辛い思いをしているのではなかったのなら、本当によかったです」

 それは心からの言葉だったのに、ご主人様は不満気です。

「それだけか……。もっとこう、他にないのか。私をなじらぬのか?」
「なじるだなんて、とんでもない。私は、ご主人様がお幸せなら、それだけでいいのですから」
「お前は、いつもそれだ……」

 ご主人様は、私の手を取ると、痛いくらいにぎゅっと握りました。
 じっと目を見つめられて、胸がおかしなほど高鳴ります。

「清晴、お前が幸せでないなら、私は幸せではない。たとえ私が幸せでも、お前が辛いなら、私も辛くなるんだよ。お前を、いとしく思っているから……」

 お前は、そうではないのか。
 ご主人様の目は、そう問うていました。
 私は………。

「その涙は、是、という意味に取っていいんだな、もちろん?」

 笑って私の頬を拭うご主人様に、ただうなずき返すのが、精一杯でした。
 佐月は、そんな私を、目を金色に輝かせておかしそうに見ていました。
 
 
 その晩、月が一番高く上った時、迎えに来た牛車につき従って、佐月は月に帰っていきました。

「結局、これは使わずに済んだな」

 月に上っていく牛車を見上げながらご主人様が言うのに、何の話ですかと尋ねたら。

「佐月にもらった、月の秘薬さ」
「秘薬……?」
「そう。月のうさぎが作った薬。媚薬だよ」

 小さな金色の袋を見せるご主人様に、私は顔を赤くして、絶対使わないでくださいね、と頼みました。
 ご主人様は楽しそうに笑って、どうしようかな、と答えました。


終。


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