047: 星座の物語



 空の星にはみんな名前がついているんだ。
 和兄がそう教えてくれたのは、僕がまだ幼稚園に通う年齢だった頃のことだ。
 そして夜空を指して、言った。
 あれは姉さんの星。衛の母さんの星だよ。
 いつも衛を、衛と俺を、見ていてくれているんだ―――。
 
 
 ベランダの手すりにもたれて、僕はそんな遠い日の夜を思い出していた。
 ちょっと郊外にあるこのマンション5階のベランダからは、夜になると星が綺麗に見える。
 見上げると、今夜も母さんの星がよく見えた。
 今では僕も、あれにはちゃんと『ポラリス』という名前があって、母さんの星じゃないことくらいわかっている。

「和兄、今夜も残業かなあ……」

 わかっててもつい、星に向かって話しかけてしまうクセがぬけない。
 19にもなって、情けないんだけど。
 こぐま座のしっぽ、真北の空で輝く北極星。
 子供にも見つけやすくて、地上からはほとんど動いて見えない星。
 いつも空から、見ていてくれる。
 だから和兄がいない夜も、ひとりじゃないって思えた。
 そして和兄も、ひとりじゃないんだって。
 いつか和兄が、言ってた。
 寂しい時や、不安な時は星を見上げるんだって。
 見上げた先に、姉さんの――僕には、母さんの――星があるから、ほっとするんだって。

『それに、俺には衛がいるんだって思い出すんだ。だから、大丈夫だって―――』

 そう言って、和兄はまだ小さかった僕をぎゅっと抱きしめた。

『かあさんのほしだけじゃなくて、ぼくもずっと、かずにいといっしょだよ。だから、かずにいはさびしくないよ』

 和兄の背中に手をまわして言ったら、和兄はそうだな、とうなずいた。
 だから僕は、ひとりで家にいても、寂しくなんかない。
 あの星が、夜空にある限り、僕は母さんと、そして和兄と、繋がっているんだから。
 でも―――。

「ねえ、母さん。日付変わる前に、和兄、帰ってくるって、思う?」

 やっぱり、本人が目の前にいて欲しいって思う夜もある。
 取引先とトラブルがあったとかで、連日連夜残業で、帰りが午前様になってしまうのは仕方ないってわかっていても。
 だって、今日は。

「19年前、僕を生んでくれて、ありがとう、母さん」

 19回目の、誕生日だから。
 もう誕生日を騒ぐような子供でもない。
 来年訪れる節目となる20回目と違って、ことさら祝うような年齢でもない。
 実に中途半端だ。
 それでも、自分にとって、年に一回しか訪れない日ではあるわけで……。

「朝、言っておけばよかったかなあ……」

 ヨレヨレになりながらも、僕の作った朝ごはんだけは食べて出勤して行った和兄。
 その背中に、今日は僕の誕生日だから早く帰って来てね、なんて言えるはずもない。
 あんまり無理しないでね、と言うのが精いっぱいだった。
 和兄は疲れた顔で、それでも笑って、ありがとな、なんて言ってたけど。
 そろそろ本気で過労死するんじゃないかと心配だ。
 まあ、いつもこんなに忙しいわけじゃないから、今回を乗り切ればたぶん大丈夫だと……思いたい。
 携帯を開いて、和兄からのメールを確認する。
 悪い、今日も遅くなるから先に飯食っといて―――見慣れた文面。
 それに僕はいつものように返した。
 お疲れ様。気にしないで、と。

「ケーキ、ひとりで食べようかな」

 誕生日にはいつも、僕がケーキを買ってくる。
 和兄の誕生日の時も、自分の誕生日の時も。
 和兄の時は生クリームで、僕の時はチョコレートケーキ。
 毎年恒例の、まあるいケーキ。
 それを切らないで、お互い反対側から、フォークでつっつきながら食べる。
 山を切り崩すみたいにして。
 行儀が悪いことこの上ないけど、年に3回(誕生日2回に、クリスマス1回)の恒例行事は、すごく楽しい。
 どっちが早くたくさん食べられるか、競争もしてみたりして。
 見た目ぐちゃぐちゃになって、あちこちクリームまみれになって……。

「……やっぱ、やめた」

 ひとりで食べても、ちっとも美味しくなんかない。
 和兄と一緒じゃなきゃ、意味ないよ。
 僕は母さんの星を見上げて、心の中だけで呟いた。
 いつも見ててくれるから、繋がっているから、大丈夫だなんて。
 それはちょっとだけ、嘘だ。
 本当はいつもそばにいて欲しいし、話しかけたら答えて欲しいし、手を伸ばして触れたい。
 星になった母さんとは無理だってわかってるけど、和兄とは……。

「あー、僕、最低だな……」

 ずるずると力が抜けて、ベランダのコンクリートにしゃがみこむ。
 立てたひざに顔をうずめて。
 今頃、母さんもきっと、こんな僕を情けないって思って上から見ているだろう。
 無事にひとつ、年齢を重ねた、それだけでいいじゃないかと思う。
 そうやって僕は年をとっていき、いずれは母さんの年齢を追い越して行くのだろう。
 ケーキなんて、どうでもいいじゃないか……。
 僕は立ち上がって、ズボンの後ろをはたいた。
 初夏の夜は、まだ少し肌寒い。
 いつまでもこんなところにいたら、風邪をひいてしまうかもしれない。

「またね、母さん」

 もう一度空を見上げてそう言うと、僕はベランダから、部屋の中に戻った。
 
 
 23時40分。
 そろそろ自分の部屋で寝なきゃ、と思いながら、僕はぐずぐずとリビングのソファから離れられずにいた。
 クッションを抱きしめて、閉じそうになる瞼を必死になって開けようとする。
 僕は絶対、徹夜で仕事したりとか無理だな。
 それ以前に、日付変わる時間まで仕事とかも不可能な気がする……。

「衛? こんなとこで寝てたら、風邪引くぞ」

 肩を軽く揺さぶられて、僕は目を開けた。
 あれ、いつのまに眠ってたんだろう、僕。
 目の前に、帰って来たばかりでまだスーツも脱いでいない和兄がいた。

「和兄……? おかえりなさい」
「ただいま、衛。そして19回目の誕生日、おめでとう。ギリギリセーフだな」

 綺麗にラッピングされた紙袋を、はい、プレゼント、と渡される。
 僕はぼうっとした頭で、プレゼントと和兄を交互に見た。

「ありがとう。和兄、僕の誕生日……覚えてて、くれたんだ」
「当たり前だろ。つか、今までだって、忘れてたことないだろ」
「そうだけど……今朝、何も言ってなかったから」
「朝はバタバタしてたからな。帰ってからゆっくり、と思ってたらこの時間になった。ごめん」
「あ、謝らなくていいから! その、ほんと、忙しいのに、ありがとう。無理したんじゃない……?」
「気にするな。もうほとんど終わりかけだったから、いいんだよ。それより、ほら」

 和兄は僕の手をとって、ソファから立ち上がらせた。
 そのまま、ベランダへ向かう。
 空を見上げて、

「衛がめでたく、19歳になりました。ふたりとも元気にしてるから、心配いらないからな」

 ほら、お前もなんか言え、と目でうながされる。
 もう言ったよ、なんてことはもちろん言わずに、僕は口を開いた。          

「19年前、僕を生んでくれて、ありがとう、母さん」

 さっきと同じ言葉を。
 そして心の中だけでつけたす。
 僕に和兄を残してくれてありがとう、と。

「じゃあ、戻るか」
「うん……ちょっと、和兄。どこ触ってんだよ!?」

 ベランダから室内に戻りながら、和兄の手が腰を回ってシャツの中に潜り込む。

「だって、最後にやったの2週間以上前……」
「そんだけ我慢したんなら、もうちょっと我慢できるよね」
「えーっ!」
「えーじゃない。それに、今からケーキ食べるんだから」

 断固とした口調で和兄を見上げて言うと、和兄は驚いた顔をした。

「まだ食べてなかったのか?」
「ひとりで食べても、つまんないよ」
「そっか。そうだな……。よし、今からガッツリ食うか、ケーキ!」

 さらりと素肌を撫であげてから、和兄の手が離れていった。
 自分で言ったくせに、ちょっとだけ、名残惜しい。
 ベランダの窓を閉め、カーテンを引く。
 もう星は見えないけど、変わらず空にある。
 真夜中の誕生パーティーも、きっと見守ってくれているだろう。
 その先に、起こるだろうことは――――なるべく、見ないふりをしてくれるといいんだけど。


Fin.


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