「なんだ。そちは男か?」
「………はい」
寝台の上、畏れ多くも皇帝陛下に見下ろされながら、碧楽(へきらく)は居たたまれない思いでうなずいた。
万事休す。絶体絶命。
そもそも、最初から無理があったのです、兄上……。
今さら嘆いてみても、どうしようもない。
一応、あがいてはみたのだ。
これでもかとばかりに陛下に酌をして、酔いつぶしてしまおうと試みた。
が、まさか、陛下がこれほどまでのうわばみだなんて、聞いてない!
陛下を酔いつぶすには、酒蔵を空にする勢いで呑ませないと不可能だと言う事を、碧楽は不幸にも知らなかった。
かくして、夜は更け、寝台の上に陛下と二人きり。
家から連れてきた侍女以外、後宮内では誰も知らぬ碧楽の秘密は、今夜、ついにバレてしまった。
碧楽は、覚悟を決めた。
男である碧楽が、後宮で妃として過ごすようになって、半年―――。
胃が痛いばかりかと思っていたこの暮らしは、意外にも穏やかな日々だった。
そう、陛下の訪れさえなければ、正妃、第二妃、第三妃以下の、数多いる妃の一人にすぎない身は案外気楽なものだったのだ。
後宮の奥には、ここが都の中心だということを忘れそうなくらいに、風光明美な庭があり、絵を描くことを趣味としていた碧楽は、せっせと絵筆を走らせ過ごしていた。
春の庭、夏の庭、それぞれ庭の見せる姿は違う。
半年が過ぎ、秋の庭を描くことはないのだと思うと、残念なくらいだった。
そう、兄との約束は、半年だった。
半年だけ、後宮に行ってくれと。
その先は、病で身体を悪くした事にして、里に下がれるようにするから、それまでなんとか乗り切ってくれと。
碧楽には、双子の姉がいた。
後宮に、妃として嫁ぐのは、もちろん姉だったのだ。
だが、直前にかかった性質の悪い流行り風邪で、あっけないほどあっさりと逝ってしまった。
姉の後宮入りは、下級貴族にすぎない兄が、もてうる限りのつてを使ってようやく実現させたのだ。
直前になって、やっぱりやめます、とはいかない。
とはいえ、この場合、嫁ぐ娘がいなくなったのだから仕方がないのではないか、と碧楽は言ったのだが、兄はあきらめなかった。
代わりに、とんでもない事を言い出した。
姉の代わりに、碧楽が後宮に入れ、と。
むろん、碧楽は断った。
いくら姉によく似た顔立ちとはいえ、碧楽はれっきとした男だ。
男が後宮入りするなんて、宦官として仕えるのならともかく、あり得ない話だ。
そこで、兄は半年だけ乗りきってくれと、泣きついてきたのだ。
後宮には数多の美姫がいる。
その中で、実際に、陛下の御呼びがある幸運な者は、ほんのわずかだ。
目立たぬよう過ごしていれば、半年など、あっという間に過ぎるから、と―――。
兄が、姉の後宮入りのためにどれほどの労力と金子を割いたのかを知っていた碧楽は、それなら、と覚悟を決めた。
娘を後宮に入れることは、亡き父の願いでもあった。
こんなに早く、姉が父の元へ逝ってしまうとは思っても見なかったが、これも姉への供養だと思って、半年間だけ、なんとか乗り切って見せよう。
碧楽は、仲の良い姉の死をゆっくりと悼む間もなく、後宮入りした。
そしてどうにか、目立たず、大人しく、半年が過ぎた。
あとは適当に病をでっちあげ、後宮を去る予定だったのだ……。
「……なるほど。さようなわけがあったのか。余の後宮に男の妃がいるとは驚いたが、わけを聞いてみるとなんてことはないな。そちの兄も思いきった事をしたものだ」
寝台の上に腰かけて、皇帝陛下の光曜(こうよう)は、呆れたようにも、感心したようにも聞こえる声でうなずいた。
男であるわけを問われるまま理由を話した碧楽は、同じように寝台にちんまり腰かけて、冷や汗をだらだらかいていた。
陛下が怒り狂わず、思ったよりも冷静に聞いてくれたのは助かったが、わけを話してしまった今となっては、もうそんなことはどうでもよかった。
自分の命も、今宵これまで。
理由はどうあれ、陛下を謀っていたのだ。
許されるわけがない。
せめて、せめて兄だけは守らねば、と碧楽は、その場で両手をついて頭を下げた。
「わ、わたくしの命はいかようにも、お取りくださって構いません。いえ、お取り下さい。ですが、兄は、なにとぞお許しください……っ!兄は、姉を急な病で亡くし、動転していたのです。こたびのことの非は、兄をいさめることが出来なかった、わたくしにあります。だから、わたくしの命だけで、どうか、ご勘弁を……!!」
父と母を早くに亡くした碧楽と双子の姉にとって、年の離れた兄は、親代わりの存在でもあった。
弟妹の面倒をみるために婚期が遅れた兄は、最近になってようやく妻を迎え、甥っ子が生まれたばかりだ。
幼い甥や、まだ年若い義姉から、兄を奪うようなことはしたくない。
いや、陛下を半年も騙していたのだ。咎は碧楽と兄だけではなく、連座として、甥や義姉にも及ぶかもしれない。それは、何としてでも避けなければならなかった。
必死の思いで、寝台に頭をこすりつけていた碧楽に、降って来たのは、穏やかな陛下の言葉だった。
「頭をあげなさい」
恐る恐る頭をあげると、どこか笑いをこらえるような顔をした陛下と、目があった。
慌てて目をそらすと、陛下は碧楽の頬に手を寄せて、こちらを向かせた。
「心配せずとも、余は、お前も、お前の兄も罰するつもりはないよ」
「ほ、本当でございますか……!?」
「ああ。数多いる妃のひとりが、たまたま男だったからと言って、特に問題はあるまい」
「は、はあ……」
何でもない事のように言われ、碧楽は気の抜けた返事をした。
後宮にたった一人の主である皇帝と、男性としての機能を排除された宦官以外で、男がいるのは結構な問題だと、碧楽にしてみれば思うのだが、光耀帝にとっては、大した問題ではないらしい。
「ははあ、なるほどな……。うん、そちが男であったのなら、後宮の庭で余がそちに話しかけた時、どこか迷惑そうだったのも、うなずける話よ」
「め、迷惑だなどと……」
焦って否定したが、事実はさして変わらない。
そもそも、このような事態になったのは、いつものように後宮の庭で絵を描いていたところに、光耀帝がふらりと姿を現したところから始まったのだ。
後宮の庭は常に美しく手入れされ、見事なものなのだが、存外、見るものは少ない。
後宮の奥にあり、人気も人通りも少ないのだ。
そもそも、皇帝の私室や、正妃や主だった妃の部屋には、それぞれにそれなりの広さの美しい庭が付属している。
碧楽たち、その他大勢の妃の部屋に庭はないが、部屋には常に見事な花が飾られていて、あえて後宮の奥の庭を訪れるものは少ないのだ。
むしろ庭は、後宮を飾るための花を育てている場所、と言っていいのかもしれない。
そのような場所に、まさか皇帝陛下自らが訪れるとは、思わないではないか。
この半年間、すっかり親しくなった庭師の宦官としか会ったことがなかった碧楽は、光耀帝の訪れに驚愕した。
『何を描いておるのだ?』
そう、後ろから声を掛けられた時は、文字通り心臓が止まるかと思ったほど驚いた。
絵筆が、思い切り滑って、ほぼ完成していた場所に、いらぬ線を引いてしまった。
『ああ、すまぬ、すまぬ。驚かすつもりはなかったのだ。庭師以外の者がいるとは思わなくてな。ここにくるのは久しぶりだ……』
そう言って、光耀帝は目を細めて庭を眺めた。
この庭に来るのは自分くらいのものだと思い込んでいたが、皇帝も時折足を伸ばしていたらしい。
これほど見事な庭を、見るものがほとんどいない事をもったいなく思っていた碧楽は、そんな光耀帝の姿に嬉しくなった。
と、同時に、まずいことになった、と思った。
地味に、目立たず、半年間を過ごすこと。
その目的は、これまでほぼ完ぺきに果たされていた。
この絵を描き終わった辺りで、病を装って後宮を辞そうと思っていたのだ。
ここでヘタに、皇帝に顔を覚えられるわけにはいかない。
『あの、わたくしは、これで……』
何と言えばいいのかよくわからず、とりあえず逃げようと、画布と絵の道具を持って立ち去ろうとした。
『余が来たからと言って、遠慮することはないのだぞ。この庭は広いのだ。余はたまに、ここをひとりで散策するのが好きでな』
『で、でしたら、わたくしがいては陛下はおくつろぎできないでしょう……』
『そちが静かに絵を描いている分は、気にならぬ』
『い、いえ、お邪魔しては申し訳ありません。わたくしは部屋に戻ります……っ』
そうして、逃げるように立ち去ったのだ。
それで、なんとか乗り切ったとばかり思っていたのに、その二日後の夜。
陛下から、はじめての御呼びがかかったのだ……。
「あまりにも素早く立ち去られたのでな。もう少し、そちと話がしたくなったのだ。庭師に尋ねたら、それは碧妃でしょうとすぐに答えが返って来た。絵もきちんと見せてもらっておらぬしな」
「わ、わたくしの絵など……」
「庭師の話では、柔らかな線と色遣いで、優しい絵を描くそうではないか」
「庭師の、誇張でございます」
「いや、そうでもなかろう。庭師の顔を描いた絵を余も見せてもらったが、中々良く特徴をつかんでいた。本人よりも男前だったではないか。風景だけではなく、肖像画も得意なのだな」
「素人の、手慰みにございますれば……」
絵は、子供のころから続けてきた趣味だった。
庭の草花を描くのが一番好きだが、身近な者の肖像画も描いていた。
家族の顔を描くと、とても喜ばれるのだ。
お前は将来立派な絵師になれるな、と今は亡き父が、頭を撫でてくれたのをよく覚えている。
「そうだ。そち、余の肖像画を描いてはくれぬか。さすれば、今宵の事は不問にいたそう。余と、碧妃、ふたりだけの秘密として、胸に収めよう」
「ほ、本当でございますか……!?」
「むろん。余は、嘘などつかぬよ。それで、どうだ?描くのか、描かぬのか?」
「描きます……!精いっぱい、描かせていただきます……!!」
先ほどまで、この命もこれまでだ、と思っていた。
それが、得意の絵で、救われることになろうとは。
男で後宮入りなんて無謀をしでかして、皇帝本人にバレてしまったのに、お咎めなしで済むなんて。
まったく、人生、何が起こるか分からないものだ。
「ただし、約束してくれ」
「何をでございましょう?」
「絵を描き終わったからと言って、病になって後宮を辞して里に帰ったりしないこと。よいな?」
「は、はい……。あの、本当に、よろしいのですか?」
「もちろんだ。余にはすでに正妃との間に息子がおるし、第二妃、第三妃との間にも息子と娘がおる。これ以上、子はいらぬのだ。後宮の中にひとりくらい、男の妃がいたところで、問題はなかろうよ」
あっさりと言われて、碧楽は目を白黒させながらもうなずいた。
本当にそれでいいのだろうか、と思ったのがが、光耀帝自らがいいと言っているのだ、それ以上碧楽がどうこう言うべきことではないだろう。
半年で帰れなくなった事を、兄にどう告げようか、と碧楽がぼんやりと考えていた時、光耀帝が碧楽の肩を押して、再び寝台に横たえさせた。
「……と言う事で、話が終わったので、続きだ」
「え……?」
寝台の上であおむけになり、光耀帝と向き合う格好になった碧楽は、間の抜けた問いを発した。
光耀帝はくすりと笑って、碧楽の頬を撫でると、何でもないように言った。
「男の妃と閨を共にした事はないので、少々勝手が違うかもしれぬが、なに、問題はなかろう」
「へ、陛下……っ!あの、何をなさるおつもりで……!?」
碧楽が慌てた声をあげるのを、光耀帝は楽しげに見ながら、額に口づけを落とした。
のど仏を隠すために、高くした襟を、骨っぽい大きな手のひらで、ゆっくりと開いて行く。
「何って、決まっておるではないか。夜、寝台で、夫婦が交わす、秘め事だよ……」
「………っ」
碧楽はそれ以上、言葉にして問う事はできなかった。
そして、その夜。
確かに、数多いる後宮の妃のひとりが男であっても、皇帝陛下におかれましては、さして問題がないことを、碧楽自身の身をもって、知ることになるのだった――――。
後宮の奥にある庭では、秋の草花が風に揺れている。
半年が過ぎた今でも、碧楽はこの庭で、絵筆を走らせていた。
ただ、この夏までとは違う事が、ひとつだけ。
「碧妃、余は、そちの顔を描いた絵が欲しいぞ」
隣に、畏れ多くも、この後宮の主、光耀帝がいる事だ。
忙しい皇帝陛下が、ここにくることはそう多くはないが、暇を見つけては、庭に現れる。
「わたくしの絵をお持ちになっても、仕方ありませんでしょう……」
「何を言う。そちは余の絵姿を持っておるではないか」
「そ、それは……っ!陛下の絵姿を描く際、下描きしたものを持っているだけで……」
「綺麗に着色しておったな」
「色も試したかったのですから、着色しているのは当たり前です!」
絵筆に新たな色を乗せ、画布に向き合う。
絵を描くのは、いつだって心が安らかになる穏やかなひとときだったのに、さっきから心ざわめいて落ち着かないのは、光耀帝のせいだ。
「近いです、陛下。絵具が、衣についてはいけませんから、もっと離れてください」
「衣が汚れるくらい、構わぬ。なあ、そちの絵姿を、余に描いてくれ」
「わ、わかりましたから、離れてください……っ!」
わざとのように顔を寄せられて、碧楽は焦って画布を持ったまま横に動いた。
「あっ……!」
絵具を入れた器が倒れそうになり、慌てて押さえる。
そんな碧楽を見て、光耀帝は楽しそうに笑っている。
「閨ではもっと近しく身体を寄せているではないか。何もそんなに余を嫌う事はなかろう?」
「嫌ってなどおりませぬ。絵が、描き辛いだけです……っ!」
からかわれている、とわかっているのに、いつまで経っても、ちっとも慣れない。
それどころか、意に反して顔が火照ってきたりして、絵筆を持っているのに、集中できなくて、困ってしまう。
「そうか、嫌ってはおらぬか。では、どう思っておるのだ?」
………皇帝陛下が、こんなに意地悪な人だなんて、思ってもみなかった。
「お……、お慕い申し上げております」
画布に顔を伏せるようにして碧楽が言うと、光耀帝のはじけるような笑い声が、後宮の庭に響いた。
その声に驚いたのか、木の枝に止まっていた青い羽根が美しい鳥が、空へと舞いあがった。
碧楽の穏やかな日々は、思わぬ形で、これからも続いて行きそうだった。
了
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