「許せ、なんて言わないよ」
天蓋付きの豪奢なベッドの、赤いベルベットのカーテンをめくると、男は天使のように微笑んだ。
ベッドの端に腰かけて、金色の細い鎖をたぐりよせる。
鎖をたどると、留め具どころか、継ぎ目さえもない首輪にいきつく。
その先には、翡翠の目を持つ、綺麗で愛らしい犬が繋がれていた。
「だって僕は君を許さないから」
歌うようにそう言って、男は首輪にそっと口づけた。
首輪に繋がれた裸の犬―――青年は、寒さのためだけではなく、ぶるりと震えた。
「陛下………」
細い、よるべないささやきがその口から漏れ、陛下と呼ばれた男はくすりと笑った。
首輪から顔を離すと、今度は青年のうすくひらいた唇に、唇を重ねる。
湿った淫靡な音が、薄暗い天蓋の中に響く。
唇の隙間から、男は言った。
「ふたりきりの時は、名前で呼んで。そう言っただろう……?」
だが男は、青年が名前を告げようとする前に、口づけをさらに深めてそれを自ら阻んだ。
たっぷりと口づけを楽しんだ後、こぼれた唾液をなめとって、ようやく唇を離した。
「どうして、逃げようとしたんだ」
平坦な口調は、言葉とは違って責める響きは帯びていなかった。
ただ純粋に、わからない、と言っているかのように聞こえる。
それがかえって恐ろしく、青年は震えをこらえるように体を固くして、目を伏せた。
「逃げよう、などとは………」
弱弱しく、答える。
あからさまな嘘を。
「誰かに、何か言われた?」
首輪から長く伸びる鎖を弄びながら、男は続けた。
「それとも僕があの女を抱いたのが、許せなかった? まさか、あの女が好きだった、とか?」
その言葉に、青年は驚いて顔を上げた。
真っ蒼な顔で、首を振って訴える。
「いいえ、いいえ……! そんな恐れ多いこと……!!」
男の顔には、ここに現れた時から変わらず、微笑が浮かんでいた。
仮面のように張り付いた笑みからは、男の考えをうかがわせなかった。
青年は、再びうなだれて、力なく答えた。
「王妃様は、素晴らしいお方です。ひとりの民として……敬愛しております」
優等生なその言葉に、男はまるで興味がなさそうに、ふうん、と呟いた。
細い鎖が、男の手の上でシャラシャラと音を立てる。
「それだけの割には、あの女とずいぶん親しそうに見えたけど」
「それは……王妃様の国の言葉を話せるのは、この国では私しかいないので。王妃様はそれが懐かしく……それだけです」
うつむいたままで答えると、男は楽しそうに笑った。
「そうだね。だからあの女を妃に迎えたのだし。滅ぼした国の、特に利用価値があるわけでもない女なんかを」
何の感慨もなさそうに、笑いながら男は言った。
同じように男は、やはり笑いながら言ったことがあるのを、青年はぼんやりと思いだした。
―――君の国は無くなった。これでもう、君はどこにも帰る場所がなくなったね。
それはそれは、楽しそうに。
彼は覚えていたのだろう。青年が、いつか故国に帰りたい、と漏らした言葉を。
内乱が続いていた故国で、青年の父は政争に敗れて国を追われた。
たどり着いたこの国で、両親は幼い彼を残してあっけなく病で逝ってしまった。
それから乞食同然の暮らしをしていた彼を、気まぐれで拾ったのが、この国の王子だった。
王家の馬車にぶつかって、轢かれそうになった彼を王子は馬車に乗せた。
本来なら、そのまま切り捨てられても文句が言えない、弱い立場の彼を。
―――今日から僕が君の主で、飼い主だ。だからその翡翠色のきれいな目で見ていいのは、これからは、僕だけだよ。
僕の言うことをきけるのなら、君の望むものはなんでも用意してあげる。
美味しい食べ物も、きれいな服も、あたたかいお家も、なんでも。
王子はやさしく彼の手を取って、夢のように微笑んだ。
夢だと、思った。
彼に優しくしてくれたのは、もういなくなった両親しかいなかったから。
だがそれは、夢ではなく現実だった。
彼の生活はその日から、一変したのだから。
(ううん……。これは、やっぱり、ゆめだったんだ。ぼくはずっとながいあいだ、ゆめをみているんだ。ほんとうのぼくは、とうさまやかあさまといっしょに、しんでしまったんだ)
腹の底からひんやりと沸き起こる寒さに体を震わせながら、青年は幼い少年に返って思った。
これは夢なんだ、と。
「寒いの? でもね、君がわるいんだよ。その恰好なら、逃げようにも逃げられないだろう」
震える裸体を、男は指先でゆっくりとなぞる。
鎖で繋がれて、いったいどうやって逃げられると言うのだろうか。
これは見せしめ、青年への罰にすぎない。
豪奢な部屋に、何もかもをはぎ取って裸で繋ぐ。
お前は飼われた犬にすぎないのだと。
それを思い出せと。
(どうして、このゆめはさめないんだろう……?)
青年は透き通った緑色の瞳を揺らして、ぼんやりと思った。
暖かな寝床に、きれいな服、美味しい食べ物。
それは確かに、幼い彼が望んだものだった。
だが、代わりに何も持たない彼がひとつだけ持っていたものを失った。
好きな時に好きなものを緑色の瞳に映して、笑うこと……。
彼の主は、彼が部屋付きのメイドとたわいない会話を交わして笑った、ただそれだけで罰した。
彼自身をではなく、彼が会話した相手を。
親切で優しかった、何の罪もないメイドを。
やがて彼は、主以外の誰かと親しく話すことを諦めるようになった。
―――あの方が、何を好まれるのか、あなた、知ってる?
そう、彼女が話かけてきたのは、いつだっただろうか。
男が故国を滅ぼし、王位につき、滅ぼした国の姫を妃に迎えた。
懐かしい故国を思い出す、彼と同じ緑の目、言葉の抑揚。
彼は久しぶりに、故国の言葉で話した。
いや、主以外と話すのさえも久しぶりだった。
―――ほんとうは、あの方を憎まなければいけないのでしょうけど。ふしぎね。どうしても、憎めないのよ。どうしても……。
ぽつりとそう言った、王妃の顔を彼はよく覚えていた。
彼も同じように思っていたからだ。
優しい言葉で、微笑みで、彼を豪華な檻に閉じ込めた男を。
帰りたかった場所を、あっさりと奪った男を。
どうしても、憎めないと………。
―――君は、僕のものだ。僕だけの。だから僕しか見てはいけないし、どこにも行ってはいけない。ずっと僕の傍にいるんだ。いいね……。
繰り返し繰り返し、そう言い聞かせた男が、彼の妻と言葉を交わすことについては何も言わなかった。
だから、彼女は特別なのだろうと、そう思っていた。
懐妊の知らせを聞いた時、これでもう、終わったのだと思った。
男の寂しさを埋めるための、彼だけに従順な、愛玩動物としての役割は、もう―――。
鐘の音が、不意に鳴り響いた。
物悲しいその調べは、決まった回数、決まった長さで、繰り返す。
これは、この音は………。
「王妃様は……? 王妃様はどうされたのですか……!?」
夢から醒めたように青年は顔をあげると、目の前の男に叫ぶように尋ねた。
男は青年の頬を優しく撫でると、彼の頭を抱き寄せて耳もとに囁いた。
「赤子は無事だったよ。君にそっくりな翡翠の瞳を持つ男の子だ。髪の色は、残念ながら君とは違って、僕と同じつまらない栗色だけどね」
楽しそうに、嬉しそうに、あたかも青年との間に出来た赤子であるかのような口ぶりで。
「世継をもうけるのは、避けられない義務なんだよ」
青年の耳たぶを柔らかく噛んで、男は続ける。
耳から毒を流し込むように。
「それなら僕は、君と同じ翡翠の瞳の子が、欲しかったんだ」
青年の裸の背中に男の腕がそっと回され、抱きしめられる。
腕を、振りほどくことは出来なかった。
「叶ったんだから、もう、要らないよね」
衣服越しに体温が移って、青年の冷えた身体も温められる。
なのに、青年の身体の震えは止まらなかった。
男の笑い声が、触れあう身体を通して伝わってくる。
「これでやっと、僕を君から遠ざける邪魔なモノは、何もなくなった」
どこか遠くから、鐘の音が鳴り響く。
低く、重く、繰り返し、語りかけるように。
許さない。
許さない。
許さない。
決して――――。
決まった回数、決まった長さで。
永遠に終わることのない、楽園への扉を開くための。
それは、弔いの鐘だった。
Fin.
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