052: 鮮やかな笑顔



 鋭い剣戟の音が響いたかと思うと、ぱっと、彼の頬に赤い色が散った。
 振り向いた彼は、無造作にそれを拭うとオレに笑いかけた。
 思わず目を奪われる、鮮やかな笑顔。

「行け……!」

 そして、すっかり足が止まってしまっていたオレに、彼は短く叫んだ。
 早く行け、と。
 その声に、凍りついていてオレの身体が、ぴくりと動いた。
 オレは小さく息を吸い込むと、彼の目を見て、うなずいた。
 本当は、この場を離れたくない。
 たとえ、足手まといにしかならないと、わかっていても。
 自分だけ、逃げるなんて……!
 そんなの、嫌だ!
 でも、逃げなきゃいけない。
 彼の作ってくれた、この千載一遇の機会を、逃すわけにはいかなかった。
 

「自由に、してやろうか?」

 奴隷の身に落ちたオレに、彼はそう言った。
 戦に負けた国の兵士は、身代金を支払えるような身分の者でもない限り、捕虜として捕まり、奴隷にされる。
 それは今の世の習いだ。どうにもならない。
 剣闘士になれるほどの腕もないオレの行く末は、決まっていた。
 採掘場で死ぬまで働かされるのか、金持ちのもとで召使にされるのか、はたまた慰み者にでもされるのか。
 どちらにしろ、奴隷になるにしかないのだ。
 悲観しても仕方がない、と割り切ろうとしても、オレは檻の中で震える身体を止めることが出来なかった。
 ………恐ろしかった、とても。
 家に帰りたかった。懐かしい、故郷に帰りたかった。
 ろくに水も与えられていなかったのに、涙がこぼれた。
 このまま泣いていては、からからに干からびてしまう。
 そう思っていても、止められなかった。
 そんな時、彼の言葉が降って来たのだ。
 何を言っているのだろう、と思った。
 そんな分かりきったことを。
 どうにもならないことを………。
 涙で汚れた顔をあげて、睨んだ。
 哀れな奴隷をからかって、何が面白いのかと。
 彼は、笑っていた。
 思わず見とれるくらい、鮮やかに。
 だがそれは、オレを嗤っていたのではなかった。
 彼は、オレに視線を合わせると、もう一度言った。

「自由に、なりたいんだろう……俺が、逃がしてやるよ」

 そうして彼は、手を伸ばして、格子越しにオレの涙をぬぐった。
  
「なぜ、オレを逃がしてくれるんだ?」

 頬に触れる温かい指に戸惑いながらも、オレはそれを振り払う事が出来なかった。
 それは久しぶりに感じる、暴力ではない……優しい他人の感触だった。
 彼は、捕虜が押し込められている牢を見張る、兵士だった。
 数日前までは大量の捕虜が詰め込められていたが、それも今ではどこかに連れ去られていた。
 残るわずかな捕虜たちも、ひとり、ふたりといなくなっていき、残るはオレひとりだった。
 オレは体格がいいわけでもなければ、格別に容姿が優れているわけでもない。
 採掘場行きの群れからも外され、金持ちの召使として引き渡される奴隷としても外されたのだろう。
 おそらくこのまま、どこかの奴隷商人にでも下げ渡されるのだろう……そう覚悟していた。
 そして彼がいなかったら、オレは遅かれ早かれ、そうなっていたはずだ。

「さあ……。なんでだろうな。お前が、泣いてたからかな」

 彼は笑ったまま、何気なくつぶやいた。
 ふざけているのでもなさそうだった。
 おかしなヤツだ、と思った。
 泣いてる捕虜なんて、オレ以外にもたくさん……はいないかもしれないが、他にいないでもなかっただろうに。
 それに、逃がすなんて簡単に言うけど、そんなことできっこない。
 ここから出られたとしても、捕まるのなんて時間の問題だ。
 気まぐれな事を言って、さらなる絶望に突き落とす。
 笑いながら、ひどいことを言うヤツだ。
 オレは今度こそ、頬に触れる彼の手を振り払って、唾を吐きかけてやろうと思った。
 のろのろと、まるで自分のものじゃないみたいに鈍くしか動かない手を振り上げると、逆に彼の手に掴まれた。

「だから、もう、泣くな」

 言葉よりも、その手が。
 あんまり温かくて、優しかったから。
 タチの悪い冗談なんだと自分に必死に言い聞かせてみても、その手を信じてみたいと思わせるくらいに。
 オレは泣きやむどころか、ますます涙をあふれさせて、彼の手に、縋りついた……。
 
 
 この港町に着いて、2週間が過ぎた――――。
 北のはずれにあるこの港は、冬になると閉鎖してしまう。
 そうなると当然、船も出港しなくなる……次の春が訪れるまで。
 彼は、自分に何かあったら、構わずに先に船に乗れと言った。
 そしてお前の故郷で待っていろ、と。
 ………だけど、ひとりでは、船に乗れなかった。
 あの時だって、本当は行きたくなかった。
 牢から逃がしてくれた彼を置いて、ひとりで先に行くのだって辛かった。
 なのにどうして、オレだけ、船に乗ることができる?
 できる、はずがない。
 家に帰りたい。故郷に帰りたい。
 だがそれと同じくらい、彼とこれっきり、離れ離れになりたくない………!
 だってオレは、どうして彼がオレを逃がすと言ってくれたのか、本当の理由を聞いていない。
 オレが泣いていたからという、そんな理由とも言えない気まぐれさが事実なのか。
 それとも他に何かあるのか。知りたかった。
 でもそんなことよりも本当は何より、あの温かい手が恋しかった。
 もう一度、触れたかった。触れて欲しかった。
 オレはあの瞬間に、恋をしたんだ。
 気まぐれでもいいから。またオレを見て、笑いかけて欲しい。
 目を奪われて、反らせない、あの鮮やかな笑顔を。
 じゃなきゃ、オレは……っ、

「どこにも、行けない………」

 わかってる。
 彼が渡してくれた金だって、どんな安宿に泊まっていたとしても、いずれ尽きてしまう。
 その前に、せめて船賃だけでも確保して、船に乗るべきだ。
 懐かしい、故郷へと向かう船を。
 故郷が、今はどうなっているのかはわからない。
 故国は戦に敗れたが、国が滅んでしまったわけではない。
 かさむ戦費や賠償金で、また重い税が課されていることだろう。
 奴隷の身となるしかなかったところを、せっかく逃げられたのだ。
 早く帰って、父や母、弟妹たちを助けないと……働き手はひとりでも多い方がいいのだから。
 そう、頭では分かっているのに。
 
「どうして……どうして、来ないんだよ……っ!?」

 港へと続く場所で、オレは立ちつくす。
 頬に、身を切るような凍えた風を浴びながら。
 どうして、この頬に触れる温かい手が、今ここにないのだろう、と思いながら。
 うつむくと、ぽたり、と冷たい雫が頬を伝った。
 止めようと思っても、後から後からこぼれ落ちる。
 あの時のように。
 ………ふと、影が差した。

「なんで、まだいるんだよ」

 手が伸びて、濡れたオレの頬に触れた。
 そっとぬぐって、そのまま顔をあげさせられる。

「先に行けって、言っただろう?」

 まるでさっき別れたばかりのような、彼の声。温かな手。
 オレはもう二度と失くさないでいいように、見失わないでいいように、その手をつかんだ。
 ぎゅっと、強く。

「遅いんだよ………っ!!」

 声が、涙でかすれた。
 彼はちょっと困ったような顔で、オレの手を握り返した。

「すまん。ちょっとしくじった。足、斬られて……」

 そう言って一歩、オレに近づく。
 右足を引きずっていた。
 顔から血の気が引くのが、自分でもわかった。

「そんな顔しなくていい。斬られはしたが、足が無くなったわけじゃない。ただ、追いかけるのが遅くなっただけだ」

 掴んだ手を、そのまま引き寄せられた。
 血と、埃と……彼の匂いがする胸に、抱きとめられる。

「だから、もう、泣くな」

 涙の止まらない顔で見上げると、オレが見たくて見たくてたまらなかったものがそこにはあった。
 目を奪わずにいられない、鮮やかな、彼の笑顔が。


Fin.


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