053: ごめんね



 たてつけの悪い美術準備室の引き戸を、怒りの勢いのまま開けようとしたら、くらりと目まいが、した。
 頭の奥に、響くような痛みが走って、ぎゅっと目をつぶった。
 開いた扉から、中に足を一歩踏み出して、目を開けた、時。

「え……? 何、どこ、ここ!?」

 オレは、見知らぬ場所に、立っていた。
 そこは美術準備室じゃないばかりか、室内でもないし、校内でもない。
 足の下にあるのは、絵具で所々汚れた床ではなくて、土、というか草だ。
 膝の下くらいまで、なんだかよくわからない草が生えている。
 それが、見渡す限り、一面に広がっている。
 もしかしてオレ、今、夢見てんのかな……。
 じゃなかったら、いきなり、美術準備室のドアが、どこでもドアになるわけがない。
 ああ、きっと、転んだんだ。
 そして、頭打って、気絶したんだな。
 ちょっと、勢いつけて、ドアを引きすぎたかな。
 ったく、なっちゃんってば、自分はコツを心得てるもんだから、あのドア、ちっとも、直そうとしないんだから。
 めんどくさがってないで、ちゃんと、用務員さんに修理してもらうよう頼むよう、改めて、言っておこう。
 美術準備室の責任者は、当然、美術教諭である、なっちゃんなんだから!
 うん、そうしよう。
 ……だから、もう、目、覚めていいんだけど。
 いつまでも気を失ったままじゃ、なっちゃんが心配するし。
 いや、少しくらいなら、心配させとけ! って気もするけど。
 だって、そうだろ?
 前からずっと約束してた休日のデート、急に決まった研修に参加するからキャンセルって!
 なんだよ、それ!
 先約は、こっちだろ?
 仕事だから、しょうがないだろ、って。
 何それ。
 仕事、って言ってれば、なんでも許されるって思ってるのが、ムカつく!
 そりゃ、仕事が大事だってのは、わかるよ?
 いくらオレが学生だからって、そのくらいは、わかってる。
 でも、でもさ!
 その、仕事だから当然、って態度がムカつくの!
 もっと、こう、あるだろ?
 申し訳なさそうにするとか、代わりの日を予定するとか……。
 そういうの、一切ナシで、『悪い。今度の休み、研修に参加することになったから、お前との約束ナシな』って!
 悪い、って別にそれ、謝ってないから!
『仕事だから、しょうがないだろ』って!
 なんだよ、それじゃオレが、ただワガママいってゴネてるみたいじゃんか!?
 ……そりゃ、拗ねては、いるけどさ。
 もっとこう、誠意とか、そういうの。
 見せてくれても、バチは当たらないと思うよ、なっちゃん!!
 ―――それが、3時間目の、美術の授業が終わった休み時間の話。
 あの後、他の授業受けて、昼ごはん食べて、午後の授業も受けた。
 でも、やっぱり、納得いかない。
 せめてもう一回くらい、ガツンと言ってやらなきゃ気が済まなくて、だから放課後、美術準備室に直行したんだよ、オレ。
 で、気がついたら、草原? の中に、ひとりポツンと立っている、夢を見ていると言う……。
 ………夢、だよね?
 ほっぺた、つねってみるか?
 いやいやいやいや。
 絶対、痛くないに決まってるけど、万一、痛かったりしたら……。
 カレシにデートをドタキャンされて怒ってただけだったのに、いきなりSFの世界に入って、異世界に突入してた、とか。
 そんなわけのわからないトラップ、望んでないから!!
 頬に冷たい風を感じて、オレは風上に目を向けた。
 とはいえ、ここにずっと、突っ立っていてもしょうがない。
 とりあえず、歩いてみよう。
 ここがどこにせよ、世界でたったひとり、みたいな状況はゴメンだ。
 何か変化が起これば、それがきっかけで、目が覚めるかもしれない……。
 
 
 しばらく、変わりのない風景が続く中を、歩き続けた。
 このままずっと、草っぱらの中を、永遠に歩くはめになったらどうしよう……。
 と、オレが不安に思い始めた頃、ようやく、絵の中に、変化が現れた。
 人影が、見えたのだ。
 背の高い人の、後ろ姿が見えた。

「おーい! そこの人、ちょっとすみませーん!!」

 オレは、近づきながら声をかけたが、その人はまったく反応しなかった。
 無視かよ!?
 それとも、言葉が通じてないとか……?
 その時は、最悪、ジェスチャーでも何でも試してみよう。
 そう思いながら、オレは、その人の近くまできて、正面に回り込んだ。
 きて、びっくりした。

「なっちゃん……!?」

 彼の顔は、なっちゃんに、そっくりだった。
 いや、それはちょっと、語弊がある。
 彼は、なっちゃんが絶対着ないような、風変わりな……何ていえばいいんだろう、民族衣装? みたいなびらびらした、裾の長い服を着ていた。
 それに、たぶん年も、彼の方が年上だ。
 数年経ったら、なっちゃんはこんな風になるんだなあ……と思って、つい見とれてしまった。
 って、見とれてる場合じゃなかった。

「えーと、なっちゃんのソックリさん……?」

 もう一度、至近距離から呼びかけてみるけど、またも無反応。
 これは、言葉が通じてないというよりも、声が聞こえてない……おまけに、オレの姿も見えていないのでは。
 オレは、思い切って、彼の腕をつかんでみようとしたが……、できなかった。
 スカッ。
 と、そんな擬音を発しそうなくらい気持ちよく、オレの手は、彼の腕を、通り抜けてしまったのだ。
 つまり、空気のように、つかめない。
 これは……。
 認めたくないけど、最悪の事態なんじゃ……。
 いやいや! これは夢! 夢だから!
 そう、改めて、自分に言い聞かせていた時。
 彼の口が、動いた。

『どうして、だまって、いってしまったんだ………?』

 それは、思わず動きを止めて見つめてしまうくらい、悲痛な言葉だった。
 そして、不思議な事に、耳から入ってくる音は、どう考えても、聞いたことのない言語――英語でもなければ、フランス語でもない。って、オレ、フランス語なんて知らないけど――なのに、何故か頭の中では日本語として意味が通じていた。
 なんという、ファンタジー………。
 驚きながらも、オレは、彼の悲哀にあふれた瞳から、目が離せなかった。

『どうして、わたしをのこして、ひとりで………!?』

 彼の視線の先を振り返って、よく見ると、丈高い草に半ば埋もれるようにして、石碑のようなものが、立っていた。
 ああ、これは、お墓なんだ。
 彼の静かな嘆きが、そよぐ風を伝って、ひたひたと押し寄せてくる。
 大きな手のひらが、彼の顔を覆った。
 泣いているのかもしれないし、涙をこらえているのかもしれない。
 きっと彼は、この墓で眠る『誰か』の死を、知らなかったのだろう。
 そして今、ようやく、それを知って、深く嘆いている……そんな、気がした。
 泣かないで、と言いたかった。
 たとえオレの声が、届かなくても。
 悲しみの淵に沈んでいる彼を、慰めたかった。
 オレは、手を伸ばした。
 触れられなくても、何か伝わらないだろうか、と思って。
 彼の頬に、手を添えた。
 すると。
 
『―――――、――――?』

 彼が、はっとしたように、覆っていた手をどけて、こっちを見た。
 え!?
 嘘、もしかして、オレのこと、見えてる!?

『―――、―――!!』

 こっちを見て、何か言っているのはわかるのに、さっきと違って、何を言っているのかわからなかった。
 でも、それは、墓に眠る人の名前なのではないか、と思った。
 名前は、日本語に変換できないのだろう。
 彼はこっちを見て、必死に何かを呼んでいる。 

「………っ!!」

 また、くらりと目まいがした。
 そして、身体が、じんわりと熱くなって……。
 何かが、ふわりと、ぬけでる気配がした。
 って、何が!?

『ごめん。ごめんね、――――』

 知らない言語が、自分の身体の中から、響くように聞こえてきた。
 目の前の彼が、驚いたように目を見開く。
 オレの中から抜け出た、『何か』いや、『誰か』が、ふわりと彼を抱きしめるのが、見えた。
 オレの位置からは、後ろ姿しか見えないけど、彼と同じような服を着ているのがわかる。
 顔は、見えない。
 だけど、その人こそが、彼を置いて、この墓で眠りについている人なのだろう。
 ということは、幽霊……?
 オカルトものは、どっちかというと、いやはっきりいうと、苦手なんだけど、この時のオレは、不思議と、あまり怖い、とは感じなかった。
 一瞬、動きを止めていた彼が、その人の背中に腕をまわして、ぎゅっと抱きしめ返していたから。
 胸が痛くなるような、笑顔を見せて。

『………、――――、ごめん、ね』

 その人は、もう一度、彼に謝ると、空気に溶けるように消えて行った。
 まるで、最初から、何もなかったかのように。

『―――、――――!!』

 オレには聞き取れない、彼の慟哭が、草原に響き渡った。
 ひときわ強く、風が吹いたかと思うと、三度、くらりと目まいがして、オレは――――。
 
 
「おい、大丈夫か!?」
「え……? あれ? なっちゃん……?」

 気がついたら、オレはなっちゃんの腕の中にいた。
 そこはもう、見覚えのない草原なんかじゃなくて、見なれた美術準備室だった。

「……ったく。入ってきた途端に、頭からコケるなよ。俺が支えてやらなかったら、お前、床に頭を直撃させてたぞ」
「ご、ごめん……」

 心から、ほっとした、とわかる声で言って、なっちゃんは、オレをぎゅっと抱きしめた。
 さっき見た、『彼』のように。

「……まあな。来るだろう、とは思ってたけど。………怒ってるのか?」
「怒ってたけど……、なんかもう、どうでもよくなった」
「なんだよ、それ」

 なっちゃんが、怪訝そうにオレを見た。
 オレは、なっちゃんに、ぎゅうっと、力いっぱいしがみつきながら、言った。

「オレ、絶対、なっちゃんより先に死なないから、安心して……!!」
「……はあ?」

 なっちゃんが、思いっきり呆れた声を出した時、美術準備室に、誰かが入ってきた。

「なっちゃんせんせー。課題、持ってきましたー」
「おう。安藤か。そこに置いとけ」
「はーい。……ってか、なっちゃん先生、いくら七海が可愛いからって、ちょっと公私混同しすぎじゃね?」
「誤解だ。これはこいつが今、豪快に頭から転びそうになったから、それを止めようとしただけだ」
「あー、納得」
「おいこら、納得すんなよ、安藤!!」

 同じクラスの安藤は、オレの抗議の声に気にした様子もなくさっさと、横を通り抜けた。
 机に課題の絵を置いた後、イーゼルに立てかけられていた絵を見て、言った。

「あ、なっちゃんせんせー、この絵、完成したんだ」
「いや、まだもうちょっと、塗る」
「何々? 何の絵?」

 なっちゃん越しに、安藤が見ている絵を、のぞきこんだ。
 なっちゃんって、描いてる途中の絵は、あんまり見せてくれないんだけど、安藤は美術部だから、なっちゃんの絵を知ってるんだな。
 そこに描かれている絵を見て、オレは、声を失った。
 だって、それは……。

「何の絵って、うーん、具体的に、実際あるものを描いたわけじゃないからなあ」
「めずらしいよね。なっちゃんせんせーが、こういう、想像で何か描くの」
「全くの、想像、ってわけでもない。夢でよく見る風景って言うか……。こんな草っぱら、行ったことないんだけどな」
「おおー。なっちゃんせんせー、見た目に寄らずロマンチストだ」
「おいこら、安藤。それはどういう意味だ。………七海? どうした、黙り込んで」

 絵を見たまま、一言も発さないオレを、なっちゃんが不思議そうに見ている。
 オレは、ううん、なんでもない、と首を振った。
 だって、他に、言いようがないだろ?
 その絵が、さっきまで、オレがいた……というか、夢に見た? 場所に、そっくりだ、なんて……。

「そういやさ、ここにちっちゃく描かれてる人物。ちょっと七海に似てね?」
「そうか?」
「似てるって。なんか、なっちゃんせんせーの、愛を感じるよ」

 安藤はイーゼルに置かれた絵を、目を細めてじっくりと眺めながら、言った。

「また、くだらないことを。用が終わったのなら、さっさと帰れ。今日は部活はないぞ」
「はーい。ったく、なっちゃんせんせーってば、七海以外にはつれないんだから」
「しょうがないだろう。こいつは、俺が言っても、ちっとも言う事きかないんだから。それより、俺のことを、なっちゃん先生なんて、気の抜ける呼び名で呼ぶな。ちゃんと、三浦先生と呼びなさい」

 渋い顔で、なっちゃんは、安藤に言う。
 だが、安藤は顔をしかめて、答えた。

「えー。何をいまさら。つか、三浦先生って言ったら、七海を先生って言ってるみたいでヘン」
「従兄弟なんだから名字が同じなのは……っていうか、安藤、お前、七海のことも三浦って呼んでないだろう」
「じゃあ、なっちゃんせんせー、さよーなら!」
「あ、おい……」

 ひらひらと手を振って、安藤は、美術準備室から出て行った。

「……ったく。お前のせいだぞ、七海。お前が俺をなっちゃん、なんて呼ぶから、他の生徒まで真似して……」

 はあ、と頭の上で、ため息をつかれた。
 なっちゃんの腕はまだ、オレの腰の上に回ったままだ。

「……七海?」

 反応の薄いオレを、なっちゃんが、心配そうな声で呼ぶ。
 オレはまだ、頭が上手く回っていなかった。
 さっきの変な夢の出来事とか、なっちゃんが描いた絵が、その夢にそっくりな事とか……。

「すっかり、へそまげちまったか? 言っとくが、ちゃんと、埋め合わせはするつもりだったんだぞ。さっきの、10分休みじゃ、そこまで言えなかっただけで……。おい、七海?」
「うん……」

 なっちゃんが、身体を離して、オレの顔を見ようとしてるのが気配でわかったから、オレはそれを阻止して、逆にもっと強く、抱きついた。
 そして、顔をなっちゃんの胸にうずめたまま、言った。

「ごめんね………」

 なっちゃんが、オレのこと、大事にしてくれてるって。
 ちゃんと、知ってたのに。
 約束ドタキャンされただけで、自分のこと、軽く扱われてるみたいに思って、怒って。
 ごめんね………。

「別に、お前が謝ることないだろ、七海………」

 なっちゃんの手が、オレの背中を、ぽんぽんと、優しく叩いた。
 わかってるから、って言ってるみたいに。
 だからオレは、さっきのヘンな夢とか、夢にそっくりな絵のことなんて、もうどうでもいいやって思った。

「大好きだよ、なっちゃん」

 顔をあげて、言った。
 オレはなっちゃんが大好きだから、勝手に一人でいなくなったりしない。
 なっちゃんを、一人で置いてったりしない。
 あんな、『彼』みたいな、悲しそうな顔は、させない。
 そういう、気持ちをこめて。

「……うん、俺も」

 なっちゃんは、俺の目を見つめ返して、静かにうなずいた。
 オレの大好きな、笑顔だった。


Fin.


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