たてつけの悪い美術準備室の引き戸を、怒りの勢いのまま開けようとしたら、くらりと目まいが、した。
頭の奥に、響くような痛みが走って、ぎゅっと目をつぶった。
開いた扉から、中に足を一歩踏み出して、目を開けた、時。
「え……? 何、どこ、ここ!?」
オレは、見知らぬ場所に、立っていた。
そこは美術準備室じゃないばかりか、室内でもないし、校内でもない。
足の下にあるのは、絵具で所々汚れた床ではなくて、土、というか草だ。
膝の下くらいまで、なんだかよくわからない草が生えている。
それが、見渡す限り、一面に広がっている。
もしかしてオレ、今、夢見てんのかな……。
じゃなかったら、いきなり、美術準備室のドアが、どこでもドアになるわけがない。
ああ、きっと、転んだんだ。
そして、頭打って、気絶したんだな。
ちょっと、勢いつけて、ドアを引きすぎたかな。
ったく、なっちゃんってば、自分はコツを心得てるもんだから、あのドア、ちっとも、直そうとしないんだから。
めんどくさがってないで、ちゃんと、用務員さんに修理してもらうよう頼むよう、改めて、言っておこう。
美術準備室の責任者は、当然、美術教諭である、なっちゃんなんだから!
うん、そうしよう。
……だから、もう、目、覚めていいんだけど。
いつまでも気を失ったままじゃ、なっちゃんが心配するし。
いや、少しくらいなら、心配させとけ! って気もするけど。
だって、そうだろ?
前からずっと約束してた休日のデート、急に決まった研修に参加するからキャンセルって!
なんだよ、それ!
先約は、こっちだろ?
仕事だから、しょうがないだろ、って。
何それ。
仕事、って言ってれば、なんでも許されるって思ってるのが、ムカつく!
そりゃ、仕事が大事だってのは、わかるよ?
いくらオレが学生だからって、そのくらいは、わかってる。
でも、でもさ!
その、仕事だから当然、って態度がムカつくの!
もっと、こう、あるだろ?
申し訳なさそうにするとか、代わりの日を予定するとか……。
そういうの、一切ナシで、『悪い。今度の休み、研修に参加することになったから、お前との約束ナシな』って!
悪い、って別にそれ、謝ってないから!
『仕事だから、しょうがないだろ』って!
なんだよ、それじゃオレが、ただワガママいってゴネてるみたいじゃんか!?
……そりゃ、拗ねては、いるけどさ。
もっとこう、誠意とか、そういうの。
見せてくれても、バチは当たらないと思うよ、なっちゃん!!
―――それが、3時間目の、美術の授業が終わった休み時間の話。
あの後、他の授業受けて、昼ごはん食べて、午後の授業も受けた。
でも、やっぱり、納得いかない。
せめてもう一回くらい、ガツンと言ってやらなきゃ気が済まなくて、だから放課後、美術準備室に直行したんだよ、オレ。
で、気がついたら、草原? の中に、ひとりポツンと立っている、夢を見ていると言う……。
………夢、だよね?
ほっぺた、つねってみるか?
いやいやいやいや。
絶対、痛くないに決まってるけど、万一、痛かったりしたら……。
カレシにデートをドタキャンされて怒ってただけだったのに、いきなりSFの世界に入って、異世界に突入してた、とか。
そんなわけのわからないトラップ、望んでないから!!
頬に冷たい風を感じて、オレは風上に目を向けた。
とはいえ、ここにずっと、突っ立っていてもしょうがない。
とりあえず、歩いてみよう。
ここがどこにせよ、世界でたったひとり、みたいな状況はゴメンだ。
何か変化が起これば、それがきっかけで、目が覚めるかもしれない……。
しばらく、変わりのない風景が続く中を、歩き続けた。
このままずっと、草っぱらの中を、永遠に歩くはめになったらどうしよう……。
と、オレが不安に思い始めた頃、ようやく、絵の中に、変化が現れた。
人影が、見えたのだ。
背の高い人の、後ろ姿が見えた。
「おーい! そこの人、ちょっとすみませーん!!」
オレは、近づきながら声をかけたが、その人はまったく反応しなかった。
無視かよ!?
それとも、言葉が通じてないとか……?
その時は、最悪、ジェスチャーでも何でも試してみよう。
そう思いながら、オレは、その人の近くまできて、正面に回り込んだ。
きて、びっくりした。
「なっちゃん……!?」
彼の顔は、なっちゃんに、そっくりだった。
いや、それはちょっと、語弊がある。
彼は、なっちゃんが絶対着ないような、風変わりな……何ていえばいいんだろう、民族衣装? みたいなびらびらした、裾の長い服を着ていた。
それに、たぶん年も、彼の方が年上だ。
数年経ったら、なっちゃんはこんな風になるんだなあ……と思って、つい見とれてしまった。
って、見とれてる場合じゃなかった。
「えーと、なっちゃんのソックリさん……?」
もう一度、至近距離から呼びかけてみるけど、またも無反応。
これは、言葉が通じてないというよりも、声が聞こえてない……おまけに、オレの姿も見えていないのでは。
オレは、思い切って、彼の腕をつかんでみようとしたが……、できなかった。
スカッ。
と、そんな擬音を発しそうなくらい気持ちよく、オレの手は、彼の腕を、通り抜けてしまったのだ。
つまり、空気のように、つかめない。
これは……。
認めたくないけど、最悪の事態なんじゃ……。
いやいや! これは夢! 夢だから!
そう、改めて、自分に言い聞かせていた時。
彼の口が、動いた。
『どうして、だまって、いってしまったんだ………?』
それは、思わず動きを止めて見つめてしまうくらい、悲痛な言葉だった。
そして、不思議な事に、耳から入ってくる音は、どう考えても、聞いたことのない言語――英語でもなければ、フランス語でもない。って、オレ、フランス語なんて知らないけど――なのに、何故か頭の中では日本語として意味が通じていた。
なんという、ファンタジー………。
驚きながらも、オレは、彼の悲哀にあふれた瞳から、目が離せなかった。
『どうして、わたしをのこして、ひとりで………!?』
彼の視線の先を振り返って、よく見ると、丈高い草に半ば埋もれるようにして、石碑のようなものが、立っていた。
ああ、これは、お墓なんだ。
彼の静かな嘆きが、そよぐ風を伝って、ひたひたと押し寄せてくる。
大きな手のひらが、彼の顔を覆った。
泣いているのかもしれないし、涙をこらえているのかもしれない。
きっと彼は、この墓で眠る『誰か』の死を、知らなかったのだろう。
そして今、ようやく、それを知って、深く嘆いている……そんな、気がした。
泣かないで、と言いたかった。
たとえオレの声が、届かなくても。
悲しみの淵に沈んでいる彼を、慰めたかった。
オレは、手を伸ばした。
触れられなくても、何か伝わらないだろうか、と思って。
彼の頬に、手を添えた。
すると。
『―――――、――――?』
彼が、はっとしたように、覆っていた手をどけて、こっちを見た。
え!?
嘘、もしかして、オレのこと、見えてる!?
『―――、―――!!』
こっちを見て、何か言っているのはわかるのに、さっきと違って、何を言っているのかわからなかった。
でも、それは、墓に眠る人の名前なのではないか、と思った。
名前は、日本語に変換できないのだろう。
彼はこっちを見て、必死に何かを呼んでいる。
「………っ!!」
また、くらりと目まいがした。
そして、身体が、じんわりと熱くなって……。
何かが、ふわりと、ぬけでる気配がした。
って、何が!?
『ごめん。ごめんね、――――』
知らない言語が、自分の身体の中から、響くように聞こえてきた。
目の前の彼が、驚いたように目を見開く。
オレの中から抜け出た、『何か』いや、『誰か』が、ふわりと彼を抱きしめるのが、見えた。
オレの位置からは、後ろ姿しか見えないけど、彼と同じような服を着ているのがわかる。
顔は、見えない。
だけど、その人こそが、彼を置いて、この墓で眠りについている人なのだろう。
ということは、幽霊……?
オカルトものは、どっちかというと、いやはっきりいうと、苦手なんだけど、この時のオレは、不思議と、あまり怖い、とは感じなかった。
一瞬、動きを止めていた彼が、その人の背中に腕をまわして、ぎゅっと抱きしめ返していたから。
胸が痛くなるような、笑顔を見せて。
『………、――――、ごめん、ね』
その人は、もう一度、彼に謝ると、空気に溶けるように消えて行った。
まるで、最初から、何もなかったかのように。
『―――、――――!!』
オレには聞き取れない、彼の慟哭が、草原に響き渡った。
ひときわ強く、風が吹いたかと思うと、三度、くらりと目まいがして、オレは――――。
「おい、大丈夫か!?」
「え……? あれ? なっちゃん……?」
気がついたら、オレはなっちゃんの腕の中にいた。
そこはもう、見覚えのない草原なんかじゃなくて、見なれた美術準備室だった。
「……ったく。入ってきた途端に、頭からコケるなよ。俺が支えてやらなかったら、お前、床に頭を直撃させてたぞ」
「ご、ごめん……」
心から、ほっとした、とわかる声で言って、なっちゃんは、オレをぎゅっと抱きしめた。
さっき見た、『彼』のように。
「……まあな。来るだろう、とは思ってたけど。………怒ってるのか?」
「怒ってたけど……、なんかもう、どうでもよくなった」
「なんだよ、それ」
なっちゃんが、怪訝そうにオレを見た。
オレは、なっちゃんに、ぎゅうっと、力いっぱいしがみつきながら、言った。
「オレ、絶対、なっちゃんより先に死なないから、安心して……!!」
「……はあ?」
なっちゃんが、思いっきり呆れた声を出した時、美術準備室に、誰かが入ってきた。
「なっちゃんせんせー。課題、持ってきましたー」
「おう。安藤か。そこに置いとけ」
「はーい。……ってか、なっちゃん先生、いくら七海が可愛いからって、ちょっと公私混同しすぎじゃね?」
「誤解だ。これはこいつが今、豪快に頭から転びそうになったから、それを止めようとしただけだ」
「あー、納得」
「おいこら、納得すんなよ、安藤!!」
同じクラスの安藤は、オレの抗議の声に気にした様子もなくさっさと、横を通り抜けた。
机に課題の絵を置いた後、イーゼルに立てかけられていた絵を見て、言った。
「あ、なっちゃんせんせー、この絵、完成したんだ」
「いや、まだもうちょっと、塗る」
「何々? 何の絵?」
なっちゃん越しに、安藤が見ている絵を、のぞきこんだ。
なっちゃんって、描いてる途中の絵は、あんまり見せてくれないんだけど、安藤は美術部だから、なっちゃんの絵を知ってるんだな。
そこに描かれている絵を見て、オレは、声を失った。
だって、それは……。
「何の絵って、うーん、具体的に、実際あるものを描いたわけじゃないからなあ」
「めずらしいよね。なっちゃんせんせーが、こういう、想像で何か描くの」
「全くの、想像、ってわけでもない。夢でよく見る風景って言うか……。こんな草っぱら、行ったことないんだけどな」
「おおー。なっちゃんせんせー、見た目に寄らずロマンチストだ」
「おいこら、安藤。それはどういう意味だ。………七海? どうした、黙り込んで」
絵を見たまま、一言も発さないオレを、なっちゃんが不思議そうに見ている。
オレは、ううん、なんでもない、と首を振った。
だって、他に、言いようがないだろ?
その絵が、さっきまで、オレがいた……というか、夢に見た? 場所に、そっくりだ、なんて……。
「そういやさ、ここにちっちゃく描かれてる人物。ちょっと七海に似てね?」
「そうか?」
「似てるって。なんか、なっちゃんせんせーの、愛を感じるよ」
安藤はイーゼルに置かれた絵を、目を細めてじっくりと眺めながら、言った。
「また、くだらないことを。用が終わったのなら、さっさと帰れ。今日は部活はないぞ」
「はーい。ったく、なっちゃんせんせーってば、七海以外にはつれないんだから」
「しょうがないだろう。こいつは、俺が言っても、ちっとも言う事きかないんだから。それより、俺のことを、なっちゃん先生なんて、気の抜ける呼び名で呼ぶな。ちゃんと、三浦先生と呼びなさい」
渋い顔で、なっちゃんは、安藤に言う。
だが、安藤は顔をしかめて、答えた。
「えー。何をいまさら。つか、三浦先生って言ったら、七海を先生って言ってるみたいでヘン」
「従兄弟なんだから名字が同じなのは……っていうか、安藤、お前、七海のことも三浦って呼んでないだろう」
「じゃあ、なっちゃんせんせー、さよーなら!」
「あ、おい……」
ひらひらと手を振って、安藤は、美術準備室から出て行った。
「……ったく。お前のせいだぞ、七海。お前が俺をなっちゃん、なんて呼ぶから、他の生徒まで真似して……」
はあ、と頭の上で、ため息をつかれた。
なっちゃんの腕はまだ、オレの腰の上に回ったままだ。
「……七海?」
反応の薄いオレを、なっちゃんが、心配そうな声で呼ぶ。
オレはまだ、頭が上手く回っていなかった。
さっきの変な夢の出来事とか、なっちゃんが描いた絵が、その夢にそっくりな事とか……。
「すっかり、へそまげちまったか? 言っとくが、ちゃんと、埋め合わせはするつもりだったんだぞ。さっきの、10分休みじゃ、そこまで言えなかっただけで……。おい、七海?」
「うん……」
なっちゃんが、身体を離して、オレの顔を見ようとしてるのが気配でわかったから、オレはそれを阻止して、逆にもっと強く、抱きついた。
そして、顔をなっちゃんの胸にうずめたまま、言った。
「ごめんね………」
なっちゃんが、オレのこと、大事にしてくれてるって。
ちゃんと、知ってたのに。
約束ドタキャンされただけで、自分のこと、軽く扱われてるみたいに思って、怒って。
ごめんね………。
「別に、お前が謝ることないだろ、七海………」
なっちゃんの手が、オレの背中を、ぽんぽんと、優しく叩いた。
わかってるから、って言ってるみたいに。
だからオレは、さっきのヘンな夢とか、夢にそっくりな絵のことなんて、もうどうでもいいやって思った。
「大好きだよ、なっちゃん」
顔をあげて、言った。
オレはなっちゃんが大好きだから、勝手に一人でいなくなったりしない。
なっちゃんを、一人で置いてったりしない。
あんな、『彼』みたいな、悲しそうな顔は、させない。
そういう、気持ちをこめて。
「……うん、俺も」
なっちゃんは、俺の目を見つめ返して、静かにうなずいた。
オレの大好きな、笑顔だった。
Fin.
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