「待て!早まるなッ!」
屋上は立ち入り禁止なんだけど、鍵が壊れたままで出入り自由な事を知っている生徒は、案外少ないらしい。
だから僕は、一人になりたい時はよく、ここでぼーっとしていた。
せいぜい小学生くらい――しかも、3、4年生――しか、阻めないんじゃないのかってくらいの背の低い、おまけに錆びてボロっちくなったフェンスに捉まって、グラウンドの向こう側、どうってことない町並みを眺めるのが好きだった。
うっかりすると、落ちちゃうんじゃないかっていう、程よいスリルを感じられるのもたまらない。
まあ、だからって、僕は別に自殺願望なんて無いので、そこから地上へ向かってダイブ!なんて事をする気は、毛頭ないけどね。
だって、飛び降り自殺なんて、何だか色々、すごいことになりそうじゃない?
運悪く、たまたま下を歩いている、罪もない人を巻き込んじゃったりしたら大変だし。
って、そもそも、僕は、この世とおさらばしたくなっちゃうほどには、世を儚んでもいないし。
だから、その日も僕は、マンションばっかりにょきにょき立つようになった夕暮れの町を見ていただけなんだ。
断じて、死ぬつもりは無い。
のに、僕は間抜けなクラスメイトのせいで、享年十六歳の短い生涯を、あわや終えてしまうところだった。
「本当〜に、すまんっ!オレ、てっきりお前が死ぬつもりなんじゃないかって思って、慌てちゃって……」
「……いや、どっちかっていうと、僕はお前に殺されかけたね」
「だから、ごめんってば。身を乗り出してるように見えたんだよ〜!」
「………」
クラスメイトの、ええと、粟谷、だっけ。
ヤツは、僕が飛び降り自殺をしようと思っていると勘違いし、それを阻もうと突進してきて、勢いあまってそのまま僕を突き落とそうとしたのだ。
びっくりしすぎると、声も出ないものなのか、僕は無言のままヤツに殺されてしまうところだった。
「遺書もないし、靴も脱いでないし、そもそも僕が飛び降りなんかするわけないだろ」
「んなの、わかんねぇよ。とにかく必死だったし……」
「まあ、お前に殺意が無かったのはわかってるよ。殺されそうになったけど」
「だから、殺そうとしてないって!止めようってしたの!大体、何で笹川は、こんなとこにいるんだよ」
「それは……。それを言うんなら、粟谷もだろ。何しにきたの、こんなとこに」
「そ、それはっ……」
逆に問いかけると、粟谷はなぜか、かすかに赤くなって口ごもった。
……変なヤツ。
「し、下から、お前、見えるんだよ。時々、ここ、来てるだろ、お前」
「ああ……」
この場所からグラウンドが見える、と言う事は、逆にグラウンドからもここが見える、と言う事だ。
確か、粟谷は何か部活に入ってた気がする。
グラウンドでの部活中に、僕がここにいるのが、見えたのだろう。
この校舎の屋上と、グラウンドまでは、園芸部が丹精こめて世話をしている前庭があるので、少し距離がある。
そして、校舎は5階建。
わざわざ見上げでもしない限り、僕の姿は分からないと思うけど、まあ見ようと思えば見えるよな。
「……だったら余計、僕が自殺するなんて思うのはおかしいだろ。今日が初めてじゃないんだから」
「そうだけど……。なんか、いつもより身を乗り出してるように見えたんだよ。それに笹川、ここのとこ、元気、なかっただろ」
「………」
指摘されて、僕は驚いた。
粟谷とは、クラスメイトだけど席は離れているし、あまり親しくも無い。
……確かに、最近少し、気が滅入る事がありはした。
テストの点がイマイチだったり、それで親にバイトを辞めろと言われたり、バイト先でいいなと思っていた大学生に、彼女がいることを知ってしまったり……。
最後のは、余計だな。
僕は彼と、どうこうなりたい、と思っていたわけじゃない、決して……。
「だったら、それがどうしたって言うんだ?」
「え……」
「粟谷には、関係ないだろう」
必要以上に、とがった声が出てしまったのは、余計な事を思い出させた粟谷にムカついたからだ。
八つ当たりなのは、わかってる。
彼が、それがたとえ早とちりだったとは言え、僕を心配してくれて言ってるんだって事も。
でも、それを素直に受け止める余裕が、今の僕には無い。
そうだよ。
僕は元気が無いんだよ。
屋上でぼーっと、オレンジ色に染まる町並みを眺めながら、バイト辞めようかなあ、と思うくらいには。
「関係なくは、ないだろ!半年も同じクラスのヤツが、元気なくて、飛び降りるのかも、って思ったら。どうしたんだろうって思うし、止めなきゃ!って思うだろ!?」
「ほっとけばいいだろ。半年も同じだろうと、ただのクラスメイトだ。特に親しくも無い」
「だから、ほっとけないって!親しくも無いって、これから親しくなるかもしれないだろ!」
……何を、こんなに必死になってるんだろう?
粟谷が、こうも思い込みが激しいヤツだってのも知らなかったけど、助けようとした相手にこれだけ素っ気無く言われたら、いい加減カチンと来て、さっさと帰ってしまいそうなものだけど。
これから親しくなるかも、だなんて。
ホント、おかしなヤツ。
「なんだよ、粟谷。もしかして、僕の事、好きなわけ?」
それは、もちろん、冗談のつもりだった。
馬鹿いうな!とか、気色悪い事言うな!とか、そういう返事が返ってくるのが、前提の。
それなのに、粟谷は、僕の予想とは、思い切りかけ離れた、様子を見せた。
……つまり、真っ赤になったのだ。
え。
なにこれ。
どういうこと?
まかか、図星だったとか。
はは、まさか。そんなこと、あるわけないじゃないか。あまりにも予想外の事を言われたから、驚きだか、怒りのせいで、赤くなってるんだよな。
そうだよな……?
「そうだよ!悪いか!」
しかし、返ってきた答えは、喧嘩口調の肯定で。
「いや、別に悪くは無いけど」
なんというか、どういうリアクションを取るのが正しいのか、とっさに分からなくなった。
少しずつ、空が藍色を濃くしてゆく。
一番星だけじゃなく、二番星、三番星も瞬き出し、当然吹きっさらしの屋上は風が冷たく、夏服から冬服への衣替えを控えた今の時期、長居するような場所ではない。
そろそろ、帰らなきゃ。
屋上の鍵は壊れているけど、校舎の昇降口は閉まってしまう。
いつまでも、こんなところに、いるわけにもいかない。
……と、頭では分かっているのに、僕は、固まったように動けないでいた。
向かいに居る相手も、同じように黙りこくったままだ。
「なんか言えよ……」
居心地の悪い沈黙を破ったのは、粟谷だった。
「あー。えっと、そろそろ帰る?校舎閉まんない内に」
いつの間にか、グラウンドから聞こえていた、部活動の生徒たちの声も聞こえなくなっていた。
ということは、タイムリミット間近ってことだ。
「そうじゃないだろ。悪くないなら……、なんなんだよ?」
「悪くないなら……」
いいってこと?
いや、それはどうだろう。
第一、僕は粟谷のことをよく、知らない。今の今まで、ただのクラスメイトだったんだし。
僕に元気がないって事がわかるくらいには見られていて、しかも実は好きだったらしい、何て事は、たった今、判明したばかりだし。
「え、ええっと、その……宿題、って事で」
「宿題……?」
「いやだって、ほら。もう、遅いし、暗いし、お腹空いたし」
言いながら、これはないだろう、と自分でも思った。
もちろん、粟谷もそう思ったらしく、顔を顰めて僕を見ている。
ちょ、なんで、告白された僕がにらまれなきゃいけないわけ!?
「だって、そんな、いきなり言われたって、わかんないよ!粟谷の事、そういう風に見たことないし、それに……」
「それに?」
「親しくなるのは、これからなんだろ!」
そうだ。
これから親しくなるかもしれない、と言ったのは、粟谷だ。
と言う事は、今は親しくないと言う事だ。
「言ったな、確かに……」
はあ、とためいきをひとつつくと、粟谷はくるりと向きを変えて、屋上のドアへと歩き出した。
思わずその背中を見送りそうになって、慌てて僕もその後に続く。
並んで、屋上のドアをくぐり、鍵同様、立て付けがすっかり悪くなっているドアを元のように閉めた。
二人、無言で階段を下りる。
僕らのクラスの下足箱までたどりつき、上履きから革靴に履き替えて、まだ辛うじて開いていた昇降口を出る。
「笹川は………」
校門まで歩いて、粟谷は口を開いた。
「これから、オレと親しくなるのか?」
「ああ、うん……たぶん」
どんな顔をしていいのか、わからなくて、僕は靴先を見ながら、答えた。
「たぶん、なのかよ……」
頭の上で――粟谷は、僕よりも背が高かった――、苦笑する声が、低く響いた。
「まあ、いいや。今は、それでも。うん、これからだから、な」
そっと、顔を上げてみたら、こっちをまっすぐ見ている粟谷の視線と合って、慌てて目を逸らす。
やばい。
今、顔、赤い、かも……。
「じゃ、オレ、こっちだから。じゃあな」
帰宅方向が違う僕らは、大通りで左右に分かれた。
僕は徒歩通学でこの辺りに住んでいるが、粟谷は電車通学をしているのだろう。
駅へ向かう道へと折れた。
そういう基本情報さえ、僕は知らない。
「あ…ああ、うん。またね」
だけど、まるで仲のよい友達同士のように、僕らは手を振って別れた。
少し歩いて振り返ると、粟谷の後姿が見えた。
よく知っているようにも、はじめてみるようにも見える、背中だった。
とりあえず、バイトは辞めない。
親からとやかく言われないくらいには、勉強も頑張る。
そして、屋上には、もう行かない。
また、どっかの馬鹿から自殺志願者とか変な勘違いされたらヤだし。
それに……、これから、親しくしなければならない……、いや、親しくなりたい相手が出来たから、当分、一人になりたい、なんて思う事は、なくなるだろうから。
Fin.
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