059: 水の中



 立ち込める湯気の中で、俺は静かにパニックに陥っていた。
 今すぐ、湯ではなく水の中に浸かって、頭を、いや体の一部分を急速に冷やしたい。
 どうして俺は、さっき断り切れなかったんだろう。
 いや、それを言うなら最初からここに来るべきではなかったのだ、断じて。
 この旅行―――恐ろしいことに2人旅が、楽しい休暇なんかじゃなく、苦行にしかならないと言う事は、わかりきっていたはずなのに。

「何してんの? 早くおいでよ、上野!」 

 湯気の向こうで先輩が、隠すことなく眩しい裸体をさらけ出して、俺を呼んでいる。
 俺は洗い場の入り口でなすすべもなく立ちすくんでいた。
 
 
 大学に入ったら、何かサークルに入ろう、とは思っていたけど何にするかは考えていなかった。
 ただ漠然と、スポーツとは関係のないものにしよう、と思ってたくらいで。
 小中高で、野球、サッカー、バスケをクラブ活動やってて、それとは別に今でも剣道を続けている(叔父が道場をやっているので)から、大学では違う事をやってみようかな、と。身体を動かすのは好きなんだけどね。
 で、サークル勧誘を何となく眺めなら歩いてた時、いきなり、背中から腰――というか、腹――をつかんできたのが、池口先輩だった。

『君、温泉、好き!?』

 振り返ったら、何故か小柄な男の子がやたらキラキラした目で俺を見ていて、なんで中学生がここにいるんだろうと思いつつ、

『嫌いじゃないけど……』

 と、答えたら、いつの間にかその、『温泉愛好会』に入る事になっていた、と言う………。
 ちなみに、初見ではどう見ても中学生にしか見えなかった池口先輩は学年的には2年先輩で、年齢的には3コも年上だった。
 温泉愛好会はその名の通り、温泉好きによる温泉好きのためのサークルだ。
 一見、飲みサークルであるかのようにも思えるが、結構真面目な温泉サークルで、各自それぞれに温泉を巡り、どこどこの温泉は泉質がどうだっただの、あの温泉はかけ流しに見せかけた循環式だっただのを、スーパー銭湯に浸かりながら、またはその後にフルーツ牛乳を飲みながら語り合うと言う、極めてストイック? なサークルだ。
 一応、女子もいるのだが、サークルの性質上、あまり顔を合わせることはない。
 サークルメンバーで温泉旅行にも行く事もあるのだが(しかし何故か圧倒的に個人旅が多い)、何故か男子は男子、女子は女子で旅立つことが多く、女子目当てでサークルに入った者は次第に顔を出さなくなってしまうのが常だった。
 湯けむりロマンスは生まれない……それがこのストイックな温泉愛好会の実態だ。
 その、はずだ。
 はず、なのに………。


 俺は今、海よりも深く、池口先輩と2人で温泉に来てしまった事を後悔していた。
 本当はこの温泉宿には、温泉愛好会会長で池口先輩の友人でもある、経済学部4年の頼長先輩が彼女と行くはずだった所なのだ。
 頼長先輩の彼女は温泉愛好会メンバーではない。
 温泉は団体で行くものではない、というのが頼長先輩のポリシーらしいが『1人で行くのも寂しい……』のだそうだ。
 誰とどういった形で温泉を巡るかは各会員に任されているので、会員ではない友人と行くものもいれば、親兄弟と行く者もいる。
 もちろん、会員同士で行く事だってある。
 先日、頼長先輩から『彼女の都合が悪くなって、温泉行けなくなったんだよね。交通費手出ししてくれるんなら、宿代は出さなくていいから、どう?』と誘われた時、俺はてっきり、頼長先輩と行くものだと思ったのだ。
 というか、フツーそう思うだろう、この言い方じゃ……!!
 だが、待ち合わせの駅に行った時、現れたのは頼長先輩ではなく、何故か池口先輩だった。
 
『宿代は先払いしてあるって。ちゃんと向こうに、おれ達の名前も伝えてるって……どうしたの、上野』
『あの……頼長先輩は?』
『バイトに行ってるんじゃない。それが?』
『頼長先輩が来るんじゃないんですか………?』
『やっぱ彼女とじゃなきゃヤダからって……あれ、聞いてなかったの』
『聞いてません』
『そっかー、アイツもうっかりさんだなあ! それじゃ、行こうか!』

 笑顔で明るくそう言われてしまえば、俺はもう、やっぱり帰ります、なんて言えなかった。
 だけどあの時、帰っておくべきだったのだ。
 大体、頼長先輩が彼女と泊る宿の、温泉なんだぞ。
 個室に、家族用の温泉が付いてることくらい想定してしかるべきだったんだよ……!
 大浴場だけなら、まだよかったんだ。
 いつものスーパー銭湯みたいに、他にも、おっさんやおじいさんが浸かってるのが当たり前だし。
 でも部屋付きの家族風呂だったら、その部屋に宿泊している人しか使わないわけで。
 と言う事は、俺以外には、池口先輩しかいないわけで。
 一応、言ったんだよ、俺は。後輩らしく。

『先輩、お先にどうぞ。俺は後から入りますから』

 ひとりで、ゆっくり浸かってもらおうと思って。
 それなのに。

『えー! 一緒に入ろうよお。今見て来たんだけどね、4人くらいはいっぺんに入れそうだったよ!』

 俺の気遣いはあっさりスルーされてしまった。

『でも、夕飯の前に大浴場にも浸かったから、俺は別に後でも……何なら明日でも構いませんし』

 何とか2人っきりで温泉に入るのを避けようと、往生際悪く言ったのだが、

『大浴場は大浴場、家族風呂は家族風呂だよっ! 第一、温泉に来たのに一日一回しか入らないなんてありえないでしょ! 一緒に入ろうよう〜、ひとりじゃつまんないよう、流しっこしようよお!』

 浴衣の袖を引っ張って言われれば、それ以上強く断ることは出来なかった。
 泣く子と先輩には勝てない、って言うか……。
 俺より3つも年上のはずなのに、こう言うところは中学生通り越して小学生みたいなんだよな。
 なのに先輩だったら、うぜえとかふざけんなとかならなくて、しょうがないなあってなるのは、それどころか、可愛いなあとか思っちゃうのは……好きだから、なんだよな、うう………。

「上野? いつまでもそんなとこに立ってたら、寒いだろ」

 呼んでも応えない俺をいぶかしんだのか、先輩がこっちにやってきた。
 俺は今すぐ、後ろを向いてそのまま部屋に戻ってしまいたかったが、そうするわけにもいかず、前を隠したタオルの端を握りしめたまま、固まっていた。

「上野?」

 先輩が、近づいてくる。
 白い肌が上気して、剥きたての桃みたいにほんのりピンクで、すべすべで、しっとりしてて。
 淡く色づいた乳首も、まるで木苺か何かの実のようで、かじったら甘い汁が出てきそう。
 同じ男である証も、先輩のはなんかこう、思わずつまみたくなるくらい可愛く見えて……って!
 いやだから! 見るな、考えるなっ!!
 ああもう、まだ足先すらも湯に浸かってないのに、すでに頭が茹ってる、俺。
 頭だけじゃなくて、あらんところにも血が急速に巡ってるし……っ!!

「どうしたの?」

 先輩が、俺の手を取って、下から俺を覗き込む。
 くりっとした、つぶらなこげ茶色の目。
 下唇だけ、ちょっとぽってりしたさくらんぼ色の唇が、うっすら開いている。
 視線をちょっと下げれば、湯気でわずかに濡れた、生まれたままの……。
 俺は、ごくりと唾を飲み込んだ。
 無理。
 無理無理無理無理。
 限界だろ、もう……っ!

「せ、先輩……っ! お、俺、やっぱ、後で入りますっ!! お先に、ごゆっくりどうぞ!!」

 先輩の手を振りほどいて、俺は脱衣所へと続く引き戸に手をかけた。
 速攻着替えて、フルーツ牛乳飲んで今日はもう寝る!!

「えっ!? 上野、ちょ、ま……っ!」

 待って、と先輩がつかんだのは、今度は俺の手じゃなくて、腰に巻いたタオルだった。
 それは別に、小学生がプールで着替える時に使うような、周囲にゴムを通したスカート状になったものなどではもちろんなく、端をちょっと内側に折って留めただけの代物で……。
 引っ張れば当然、はらりとほどけ、落ちてしまうわけで。

「あ」

 落ちたタオルを目で追った先輩は、ついでに俺の、中途半端にたち上がった、こらえ性のない愚息まで目にしてしまった。
 死にたい、今すぐに。
 俺はマッハのスピードでタオルを拾うと、固まっている先輩をよそに脱衣所に駆けこんで浴衣を着て、部屋に戻った。
 戻って、俺は糸が切れたように座りこんだ。
 見られたショックで、水の中に浸かるまでもなく、身体の方は静まっていた。

(どうしよう………)

 そして、さっきよりもさらに、混乱していた。
 いつの間にか仲居さんが、部屋に布団を敷いている。
 もうこのまま、布団を被って寝てしまおうか……いやいや、すぐ隣には、もうひと組、布団が敷いてあるんだぞ!?
 どの面下げて、先輩と隣同士で寝られるって言うんだよ!
 今から帰る……のは、もうバスが終わっているから無理か。
 いやでも、タクシーを呼んで駅前に行けば、あとはどこかホテルでも24時間営業のファミレスでも行けばどうにかなるか。
 うん、そうと決まれば、着替えよう!
 先輩にはメールで急用が出来たとか何とか……信じてもらえないだろうけど、とにかくそういう事にして!
 俺は部屋の入り口近くに備え付けられた、クローゼットタイプのふすまを開けて、ハンガーから今日着てきたシャツを取りだそうと手をかけた。

「何してんの、上野」

 振り向くと、急いで着たのだろう浴衣を盛大に着崩して、先輩が立っていた。

「先輩……」

 てっきりあのまま、温泉に入っているだろうと思っていたので、俺は狼狽した。
 先輩に対する言い訳の類は、まだまったく、考えてなかった………。

「あの……俺、帰ろうと、思って……」

 なので、馬鹿正直に、そう言ってしまった。
 それを聞いて、先輩はぴくりと眉を逆立てた。

「なんで! おれ、聞いてないよ、そんな事!!」

 すごく、怒ってる。
 当たり前だよな………。
 俺は悄然と頭を垂れて、言った。

「後で、メールしようと思って……すみません」

 先輩は、なおも目を吊り上げたまま、俺に近づくと、俺の浴衣の襟をぐいっとつかんだ。

「謝ってほしいんじゃないよ! なんで、急におれを置いてひとりで帰っちゃうわけ!?」

 たぶん湯上りのせいじゃなくて、怒りのせいで、先輩の目元がうっすらと赤く染まっていた。
 こんなに怒ってる先輩見るの、初めてだな……。

「だって……キモイでしょ、俺」

 男の裸見て、たってるとか。
 そんなの、逆の立場だったら、絶対キモイって思うし。

「何言ってんだよ! そんなの、生理現象だろ!? 上野、気にし過ぎ!!」

 言われて、ああなるほど、そんな風に先輩は思ったんだ、とちょっとほっとした。
 疲れてる時にたったりとか……そういうのだと思ったんだな、先輩は。
 だったら、その誤解に乗っかればいい。
 一瞬、そう思ったけど。

(やっぱり、無理だ)

 すぐに、思いなおした。
 だって、そうだろ。
 今はよくても、明日は? 明日、また一緒に入ろうって言われたら、その時はどうすればいい?
 それに、またこんな風に……風呂に入る時、2人っきりじゃなくても、他に人が少ない時、俺は平気でいられるのか……。

(ほら、やっぱり、無理だ)

「すみません、先輩」

 謝ったら、先輩は襟をつかんだまま、どうして謝るんだって言いたげな顔で俺を見上げた。
 きょとんとしたその顔も可愛くて、ああ好きだなあって思った。
 思って……もう、駄目だな、と思った。

「俺……サークル、辞めます」

 気付いたら、そう言っていた。
 ほんとは、ちょっと前から、考えていた事だ。

「えっ!? 何で! 何でそう言う話になるの!?」

 先輩は俺の浴衣の襟をぎゅうぎゅう引っ張りながら、怒ると言うより驚いていた。
 そして慌てたように言葉を続けた。

「おれ、気にしてないし、もちろん誰にも言わないし、上野も気にしなくていいんだよ!?」

 俺なんかのために気を遣って、必死に言ってくれる先輩が嬉しくて……たまらなくなった。
 ごめん、先輩、と心の中だけで謝ってから、俺は先輩を抱きしめた。

「う、上野……!?」

 腕の中から驚いてくぐもった先輩の声が聞こえたけど、俺は構わずに言った。
 
「だって、先輩。もう、無理なんですよ、俺。ほんとは、今日だって、来たくなかった」

 俺の言葉に、先輩がみじろぐのがわかった。
 でも、俺は腕の力を緩めずに、続けた。

「好きな人と2人で温泉とか……拷問です。スーパー銭湯の時だって、結構必死で、おっさんの身体見て気をそらしたりしてるのに」

 そう、本当は不特定多数と大浴場に入っている時だって、気を抜けないのだ。
 頭から水のシャワーを浴びた時だってあるし。
 それなのに先輩は気軽に、身体洗ってあげようか〜とか来るから油断できないし。
 でもやっぱり、近くに来られたら見ちゃうし、見たいし……。

「上野……苦しい」

 腕に力を入れ過ぎていたのか、先輩が抗議するように手で押してきた。
 俺は慌てて、腕を離した。
 すぐ近くから、先輩が覗きこむように俺の目をまじまじと見上げている。

「上野って……、おれのこと、好きなの?」

 ズバリと聞かれて、俺は今自分が告白していた事に気付いた。
 いえこれは違うんですとか言っても……言っても、無駄だよな……。

「はい……すみません」

 どこを見ていいのか分からなくて、俺は畳みの目を数えながら謝った。
 くすりと笑う気配がして、目をあげたら、先輩がおかしそうに俺を見ていた。
 先輩はもう、怒っていなかった。

「だからどうしてそこで謝るかなあ、上野は」

 いやでも、自分の裸を見て興奮するような男の後輩から告白なんて、どう考えても嫌でしょう……。
 と、俺が口にする前に、先輩に抱きつかれていた。

「せ、先輩……!?」
「って言うか、そう言う事はもっと早く言ってよ! おれ、ちょーガマンしてたのに!!」

 俺の腰に手をまわして抱きついて、何故か先輩に責められる。
 そして爪先立って背伸びをした先輩に、キスされた。
 ……って、えっ! キス!?

「無理強いすんなよって、頼長に釘刺されててさあ。ほらおれ、先輩じゃん。無理に迫ったらモラハラだからさー。見るだけでガマンしてたんだよ。上野、ガード固いし、触らせてくんないし」

 ぎゅーっと抱きしめられて、胸板に頬頬ずりされながら言われて、俺は大いに戸惑った。
 ええと、これはどう言う状況なんだ……?

「あ、あの、先輩……?」

 気がつけば何故か腹を撫でさすられながら、俺は先輩に、何をどう尋ねればいいのかさえわからないまま、尋ねた。

「なんでそんな、ハトがマメデッポーくらったみたいな顔、してんの。俺も上野が好きだって、言ってるんだよ」

 オレモウエノガスキダッテ。
 先輩の言葉が頭の中に浸透するまで、わずかにタイムラグが生じた。
 ようやく意味を把握した瞬間、俺は叫んでいた。

「ええーーーーっ!?」

 先輩も俺が好き!?
 嘘!?
 もしかして俺、温泉でのぼせて気を失って夢でも見てる!?

「なんで上野がそこまで驚くのかが分からないよ、おれは」

 先輩はちょっと呆れたように俺を見ているけど、いやでもそんな、いくらなんでも都合よすぎっていうか……。
 もしかして、担がれてる? 俺。
 そう思ったのが顔に出たのか、先輩はあっさりと否定した。

「いや、別に騙してないから。てか、そんな嘘つく必要ないでしょ」
「ば、罰ゲームとか……」
「そんな悪趣味な事して喜ぶようなヤツ、ウチのサークルにいないの知ってるだろ」
「それは……確かに………」

 温泉好きが集まった、温泉のために日々バイトに励んでいるサークルの会員らが、そんな意味不明な嫌がらせをする暇があるのなら、まだ見ぬ秘湯を求めて温泉情報をネットで検索でもしているだろう。
 温泉愛好会とは、そう言うサークルだ。
 そんな俺のパソコンにもケータイにも、今ではすっかりブックマークに温泉関連サイトが溢れている。
 バイトの履歴書にも、趣味『温泉巡り』と記すまでになった。

「一目ぼれだったんだよ」

 先輩はさらに爆弾発言を、さらりと落とした。

「サークル勧誘の時に上野を見て、脱がしたい! って思ったんだ」

 うっとりと俺の腹を――いつの間にか浴衣の合わせから手を入れられて、直に――撫でながら、先輩は言った。

「服の上からでもいい身体してんのわかったけど、やっぱり生は違うよね……。ああほんっと、いい腹筋……!」
「あの、先輩……?」

 先輩の手が、俺の腹を撫でさすっているのが、くすぐったい。
 感触を味わうかのように、指の腹で何度も往復していく。

「ずっとずっと、触ってみたかったんだよね………」

 まるで夢見る乙女のような口調で言われて、これが先輩じゃなかったら突き飛ばしてるところなんだろうけど、先輩だから突き飛ばすのではなく逆に抱き寄せたい。
 でもこのまま抱き寄せたら、先輩の手がグキッてなりそうだし……。
 どうしよう、どうしたら、と思った俺はたぶんまだ混乱している。
 犬にでもなったような気分で大人しく撫でられていた俺は、急に手を止めた先輩に謝られた。

「ご、ごめん、上野! つい、自制心が……っ!」

 手を腹から離した先輩は、顔を赤くして俺を気まずそうに見上げて、言った。

「おれ、ちょっと、その、筋肉フェチっていうか腹筋フェチなとこがあって。ずっと上野に触ってみたくて……。ごめん! 引いたよな、今!?」

 言われて、そう言えば先輩はやたら、『身体洗ってあげようか?』とか、『肩こってない? おれマッサージ結構得意なんだよ』とか言ってきていたのを思い出した。
 そのたびに、毎回かわしていたんだけど………そうか、そう言うことだったのか。
 理由が分かって納得するとともに、俺はふと不安になった。

「先輩が俺の事を好きなのは……その、俺の身体目当てだったんですか?」

 言ってから、この言いまわしは、間違ってないけど激しく間違っている事に気付いた。
 俺はどこの乙女なんだって言う……。
 だが先輩は、俺のおかしな台詞に突っ込む事なく、赤い顔のまま慌てて答えた。

「ち、ちがうよ! いやだから、上野の身体はすごいおれの好みで、それは否定しないって言うか、最初に目がいったのはそこなんだけど、でもおれが上野を好きなのは、お前優しいし、一緒にいて楽しいし安心するし、だから、きっかけは身体だったけど、今は上野自身もちゃんと好きで、それで……っ!!」

 慌てるあまり涙目で詰め寄るように訴えられて、心拍数が急上昇した。

「わ、わかりました。すみませんでした、変なこと言って」

 俺が謝ると、先輩はほっとしたように笑った。
 そして、確認するように問いかけた。

「ちゃんと、信じてくれた?」
「はい」

 本当は、今でも、まだちょっと信じられないけど。
 先輩が、俺の事を好きだなんて……。
 だけど、ほんとにほんと、なんだよな。

「じゃ、じゃあ、その……もうちょっと、触っても、いい?」

 どこか遠慮がちに、上目遣いで先輩が尋ねた。
 さっきは断りもなく思いっきり、撫ですさっていたのに、だ。
 しかも頬をうっすら染めて。
 そんな先輩を見ていたら、心拍数だけじゃなく、体温も一気に急上昇した。
 今ならたぶん、いやきっと、水の中に浸かってもこの熱は冷めないだろう。

「あ、あの……っ! お、俺も、触っていいですか。先輩の……っ」

 勢い込んで言うと、先輩はちょっと驚いたように目を見張って、それから笑った。

「ん。いいよ。……あっちに、行く?」 

 そして視線を、部屋の向こう側にずらした。
 さっき、仲居さんが準備してくれた……

「はい!」

 俺は力強く答えると、先輩の手を取って、2つ並んで敷かれた布団の片方に、素早く移動した。


Fin.


TOP


Copyright(c) 2012 all rights reserved.