060: 飛べない鳥



 四角く区切られた狭い教室は、水がよどんだプールみたいだ。
 その中に詰め込まれて、ぷかぷか浮かんでいる黒い制服姿の生徒たちは、さしずめペンギンか。
 空へと続く窓が空いているのに、飛び立つことはできない、黒い鳥。
 窓枠に足をかけて踏み出せば、飛べそうな気がするのに。
 ―――などとポエマー(正しくは、ポエットだ)なことを、つれづれなるままにひぐらしすずりにむかひてこころにうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく……考えてたもんだから、前の席の久浦が振り返って、唐突に話しかけてきた時はマジ、びびった。

「なんかさあ、こっから飛べそうな気がしない?」

 お前はエスパーか、と。


 数分後。
 そんな以心伝心な久浦と一緒に、僕は何故か学校を抜け出し裏山を登っていた。
 授業は自習だったとはいえ、当然、まだ学校は終わっていない時間だ。
 だけど教室に教師がいなかったからなのかなんなのかわからないけど、拍子抜けするくらいあっさりと、学校を抜け出せてしまった。
 なんということだ。
 これでも一応、無遅刻無欠席の真面目な学生で通っていたのに!
 人はこうやって道を踏み外していくのだろうか。恐ろしいな。

「おーい、早く来いよ!」

 数メートル先から、久浦がこっちに向かって手を振っている。
 学校のすぐ裏の山だってのに、まるで声をひそめていない。
 まあ、ここまでくれば、声はたぶん学校までは届かない……だろうと、思うけど。

「ちょ……、待てよ、この野生児!!」

 何で山道をそんなにさくさく登れるんだよお前はっ!
 冬なのに、すっかり暑くなった僕は学ランの上着を脱いで肩腕に抱えると、久浦を睨んだ。
 返ってきた言葉は、そっちがなまってるだけだろ、と言う失礼極まりないものだった。


「……や、こっから飛んだら落ちるだけだし」

 内心驚きすぎて心臓バクバクしてるのなんておくびにも出さずに、僕は努めて何でもないように常識的に答えた。
 いくら同じような事を同じ時に考えてたからって、やあ奇遇だね、実は僕もそう思ってたんだ、なんて言えるわけない。
 どんな電波なやり取りなんだっていう……。

「だよなー」

 久浦は僕のつまらない返答に、いったんはあっさりとうなずいたが、次にはまたとんでもないことを言ってきて、僕を仰天させた。

「でも裏山からだったら、マジ、飛べそうな気がするんだよ。だから、行ってみない?」
「…………は?」

 何が、でも、で、だから、なんだよ。
 そう突っ込む間もなく、席を立ちあがった久浦は僕の腕をつかむと、教室を後にした。
 びっくりして抵抗するのも忘れて、ドナドナの子牛のように僕は引きずられて行った。
 お前ら、どこに行くんだよ、なんてドア付近のクラスメイトにのんびりと声をかけられながら。
 そして気がつけば山登り、だ。
 学校の目と鼻の先にある裏山は、誰かの私有地らしく生徒の出入りは一応禁止されているが、手入れをされている様子が全くなく、木も草も生え放題、って感じなので言われなくてもあえてこの山に踏み込む物好きはほとんどいない。
 まさか14にもなって、自分がその物好きのひとりになろうとは思っても見なかった。
 つううかこれ、人の通る道っていうよりもはや獣道じゃないか!?
 なのに何故、そんなにすいすい歩ける久浦……。
 だがもう、付き合ってられるか、と吐き捨てて戻るには結構山を登ってしまったし、ここで戻るのも今までがムダになるみたいでしゃくだったから、どこまで行くつもりなのかわかんないけど、とにかくこうなったらとことん久浦について行くことにした。
 持久走なんか後ろから数えた方が早いくらいの体力の持ち主な僕は、もうすでに息も絶え絶えだったけど。
 それでも短距離だったら、5人で走れば3番くらいにはなれるんだけど……自慢するには微妙すぎる順位なのはわかっている。
 今が冬で、夏よりも日差しが弱いってのをさっぴいても、木で覆われたこの裏山――さっきから裏山裏山言ってるけど、たぶん正式名称はちゃんとあるんだろうけど、知らない――は、鬱蒼として、暗い。
 今日なんか、2月にしては結構晴れてる方で、冬だからか空気が澄んでいて空が高く、だからこそ、3階の教室の窓から外を見たら、なんか飛べそうな気がする、なんて思ったわけだけど、この裏山を登っていると、全然そんな感じはしない。
 だから久浦が、どうして、飛べそうな気がする、で僕をここに連れて来たのかさっぱりわからないんだけど……。

「着いた!」

 僕よりはるか先から、久浦の声が聞こえた。
 木々に隠れて久浦自身の姿は見えなかったけど、道自体は一本道だから、このまま歩いていれば見えるだろう。
 ぜいぜい言いながら、しばらく歩いていくと――――。

「おつかれサマー!」

 久浦が笑顔で僕を迎えた、その眼下には学校を含めたここら一帯の風景が、遮るものなく広がっていた。
 何故かそこだけ、木が茂ってなくて、ぽっかりと草地になっていた。
 先は、緩やかな崖になっていて、その向こうに街が広がっている、とまあ説明するならそんな感じだ。
 学校に対して斜め横になる位置だから、学校からこの裏山を眺めた時も、こんな場所があることには気付かなかった。
 元が小さな裏山だから――実際、山っていうよりちょっとりっぱな丘ってくらいなので――、そこまで『絶景!』ってほどではないけれど、確かに見晴らしはいい。
 それに……、

「な? なんか、飛べそう! だろ!?」

 と言う、久浦の気持ちはわからなくもなかった。
 緩やかな崖、というか斜面には、やっぱり木が生えてなくて草地になっているから、墜落しても死にはしないだろう。
 ねんざくらいはするかもしれないが。
 思いっきり助走して、勢いをつけて踏み込んで、そしてジャンプしたら―――

「いやいやいや。無理だから。飛べないから」

 ハンググライダーもパラシュートも――いや、パラシュートは落ちる時に使うもので、飛ぶためのものじゃないか――とにかく、何も持ってないただの人間が、いかにも滑空するのによさそうな場所を発見したからと言って、マジで飛んでみたところで、頭から地面に突っ込むのがオチである。
 ってことは、やっぱり死ぬんじゃん。
 ねんざじゃ、すまないって。

「えー、でもさあ、柳井……じゃなかった、津上は、飛んでみたいって思ってるだろ」

 何故そこで断定。
 僕はそんな電波を久浦に向かって飛ばしていたのだろうか。

「ええと……」

 うなずくのもアレだし、さりとてここまでついてきておいて全否定するのもどうよって気が……何て答えればいいんだ?
 僕が戸惑っているのを察したのか、久浦は僕の答えを待たずに続けた。

「だって津上、あの窓際の席でよく空を見上げてるだろ。鳶が飛んでたら、何かうらやましそうに見てるし」

 指摘されて、何で知ってるんだ、と思った。
 久浦、僕の前の席なのに。
 後ろに目でもついているのか……!?

「や、見てたし、オレ」
「へ……」

 問う前に答えられて、僕は間抜けな声をあげた。
 見てたって、僕を?
 なんで……はっ、まさかこいつ、僕のストーカー!?

「そんなあからさまに警戒した顔しなくても。別に変な意味とかじゃなくて……なんか津上、秋からこっち、元気なかったからさ」
「……………」

 そんなことない、僕は元気いっぱいだ、とは言いたくても言えなかった。
 いつも通り、いつも通りにしなくちゃ、と秋からこっち……名字が代わってからこっち、言い聞かせて過ごしてきたのは自分が一番よく、知ってたから。
 別に大したことない、こんなことよくあることで、めずらしいことじゃない。
 そう思ってもやっぱり、自分の身に起これば多少は堪えるわけで。
 でも家でそんな落ち込んだ様子を見せると、お母さんが心配するから極力何でもないようにふるまってて、だから学校ではたまに、気が抜ける。
 まだ慣れてないだけで、しばらくしたら何でもなくなる。
 そう自分に言い聞かせていても、窓際の席で空を見上げれば、鳥になって飛びたい……などと半ば本気で思うくらいには、僕はまいっている。
 それは認める。

「でも、なんで久浦まで、飛びたいとか……」

 僕がちょっと現実逃避したくなっているのはともかく。
 なんで久浦まで、僕の妄想を口にして、しかもこんなとこまで連れてくるんだよ。
 久浦の答えは、またしても予想の斜め上を飛んでいた。

「一緒に飛んだら、津上もスッキリするかと思って」
「は!?」

 い、意味がまっったく、わからないんですが!?
 僕が落ち込んで見えて、それが気になったってのは、まあ席も近いしクラスメイトだし、わからなくもないけど。
 僕も逆の立場だったら、そりゃ多少は気にかけるかもしれないけど……。
 それでなにがどうなって、そういうアンサーになるんだ、久浦。

「今日さ、すっげー天気いいし。空も高くて青いし、雲もないし。4時限が自習だし。飛ぶなら今だ! って思って。だから、飛ぼう!」

 だが久浦は、やけに自信満々で宣言した。
 いやだからそれ説明になってないし!
 そう思って突っ込もうとしたら、久浦にまたしてもいきなり、手を握られた。
 そして久浦は、そのまま走りだしたのである。
 いくら緩やかとはいえ、崖に向かって。
 まっすぐに。
 

 えっ!?
 何お前、何なのお前!?
 うぎゃーーーっ!? 
 ……走ってる時の僕の最初の感想は、確かこんなもんだったと思う。
 あまりにびっくりしすぎて、よく覚えてないけど。
 久浦は、僕の手を握って崖を走り下しながら、叫んだ。

「だいじょうぶ! 義経の鵯越の逆落としに比べたら、大した傾斜じゃないから!」

 いやだから、そんな問題ではなく……!
 とてもじゃないけどしゃべる余裕がなかったので、心の中だけで突っ込んだ。
 つーかこれ、飛んでるんじゃないよね!?
 勢い止まんないまま、走ってるだけだよね!?
 なのに久浦は、なおも続けた。

「あー、きもちいー! 景色ぐんぐん近づいてって、なんかホントに飛んでるみたいじゃねー!?」

 あ、ホントだ。
 久浦の言葉に、僕はいくらか余裕が出来て、下を見ることが出来た。
 上で見ていた風景が、凄い勢いでどんどん近付いて行ってるのは、確かにちょっと、飛んでる……みたいな気がしなくもない。
 けど、いつ転ぶかとか、そっちの方が断然怖いんですけど!
 もしかして鳥も、飛びながら、落ちそうでコワイ! とか思ってるのかな。
 山登りであがった体温が、吹きつける風で冷まされていく。
 でもやっぱり、心臓はバクバク言ってて。
 足は止まらなくて、手はつないだままで、景色はびゅんびゅん加速していって、なんか段々ハイになってきた。

「あはははは……! 楽しいな、久浦! 飛ぶのって!」
「だろ!?」

 気がついたら僕は笑っていた。
 そして、駆け下りてるだけなのに、飛んでるって言ってしまった。
 だって、飛んでるんだよ、今。
 翼もないのに、まっすぐ、上から、下に。
 見上げてただけだった空から、地上に。
 何て爽快な気分なんだ。
 こんなことならもっと早く、飛んでおくんだった……!
 
 
 謎のハイテンション状態を保ったまま、僕と久浦は無事に地上に着地した。
 見上げると、緩やかな崖でもそれなりの傾斜はあって、ぞっとした。
 よく転ばずに済んだな……。

「あっという間だったな、津上!」

 機嫌のいい久浦の声に、僕はあいまいにうなずいた。
 ハイな気持ちが収まったら、何か急に恥ずかしくなったと言うか居たたまれなくなったと言うか……。
 飛ぶって……! 飛ぶって、なんだよ……! みたいな。

「津上?」

 きょとんと久浦に名前を呼ばれて、僕は何故だか誤魔化すように笑って、答えた。

「いや……、その、ほら、登りは結構かかったと思うのに、帰りは半分もかかんなかったなーとか思って……」

 目の前の校舎がまだ静かな所を見ると、おそらく4時限目は終わっていないようだ。
 戻りは昼休みにかかるかな、と思っていただけに下りは驚異のショートカットだ。

「飛んできたからな!」

 いやそれはもういいですからっ!
 久浦の言葉に心の中だけで突っ込み返す。
 ……と。
 
 グーッ。
 
 気が抜けたからなのか、一息ついた(?)からなのか、腹の音がなった。
 裏山を登って駆け下りるなんていう、らしくないハードな運動を昼前にするもんじゃないよな。
 いや、後だったら、気持ち悪くなりそうだから、前で良かったのか……?
 その時になって、ようやく4時限終了を告げるチャイムの音が鳴った。

「早く戻って、昼飯昼飯! 津上、弁当だろ。一緒に食おうぜ」
「うん。そうだな」

 久浦が歩き出すのにつられて、僕も歩きだす……って。

「久浦、手。いい加減、はなせよ」

 一緒に裏山を飛んだ……もとい、駆け下りた時から、手を繋ぎっぱなしだ。
 久浦は繋いだ手を見て、僕を見て、にかっと笑った。

「いいじゃん。この方が、まだ飛んでる感じがするだろ」
「意味わかんないよ、久浦」

 ようやく言葉に出して突っ込む。
 だけど僕は、校舎を入って、昼休みになって人通りが増えた廊下に出るまでは、久浦と手を繋いだままでいた。
 あの、変にハイテンションで爽快な、空を飛んでいた――飛んでないけど――余韻を、感じていたくて。
 今度また、落ち込んで、空が飛びたくなった時は、久浦と手を繋ごうと思う。
 その方が、裏山を登って駆け下りるより簡単に、空を飛ぶ感覚が思い出せそうだから。


Fin.


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