爪先から青く染めてゆく。
静かに、ゆっくりと。
内側に向かって、深く、深く。
そうやって心まで青く染めてしまえば、できるはずだ。
さざ波ひとつ立てずに、笑うことが。
だから、あともう少し。
もうちょっとで、ぜんぶ、ぜんぶが青くなる。
「あ、よかった。まだ帰ってなかった!」
クラスメイトたちが帰って閑散とした教室のドアから、ひょっこりと茶色い頭がのぞく。
黒板を消していた男子生徒は手を止めて、振り返った。
「今週、週番って言ったろ。お前、部活は?」
「顧問が急に出張。で、急きょ、休みになった」
ドアにもたれて、茶髪の生徒はにっと笑った。
「いいのか? 別に顧問になくても部活は出来るんじゃねえの」
週番の生徒は呆れたような顔で言うと、黒板消しを再開した。
「まーまー。かたいこと言いっこナシ。でさ、この後、暇? なんか用事ある?」
背伸びして上の方を消そうとするが、わずかに届かない。
「手伝おうか?」
「………いい」
爪先立ったら、なんとか手が届いた。
白い粉が飛び散らないように、そっと黒板消しを動かす。
「もし何も用ないんだったらさ、この後ちょっと付き合わねえ?」
「なんで」
「カノジョにさ、お前のこと話したんだよ。俺の一等仲いい親友なんだぜーって。そしたら会ってみたいって言うからさ」
振り返ってわざわざ確認しなくても、声の調子から、浮き立つ様が感じられる。
付き合いはじめて、2週間。
きっと、今が一番楽しい時なのだろう。
「………っ」
手にわずかに力が入って、白墨の粉が舞う。
吸い込みそうになって、思わず息を詰めた。
(青くなれ、青くなれ……)
心の中で、呪文のように繰り返す。
動揺したらいけない。動揺するのはおかしいのだ。
何故なら、
(俺は、一等仲のいい、親友、なんだから)
黒板消しをゆっくり下ろして、小さく息を吸い込む。
白い粉は、もう舞い散っていない。
「わか、」
「ああ、ごめん。無理だわ、それ」
わかった、と言おうとした言葉にかぶるように、声が聞こえてきた。
後ろのドアが開いて、別の男子生徒が入ってくる。
「日誌、出して来たぜ」
そう言って、黒板の方に歩いてくる。
そして前のドアにもたれている茶髪の生徒に、朗らかに声をかけた。
「悪いな。俺のが先約なんだ。おなじ週番同士、ちょっと野暮用でさ」
「えっ……」
驚いて、黒板消しを持ったまま見上げる。
そんな彼の様子に気づいていないわけはないのに、もう一人の週番の生徒は茶髪の生徒に向かって、続けた。
「それにさ、彼女に男友達なんて紹介しない方がいいんじゃないの。どうすんの? 友達の方がステキ、とかなったら」
「え、うそ、それ困る!」
「だろ?」
「あ、いや、友達のカノジョ取るようなヤツじゃないってのはわかってるからな!?」
慌てたようにこっちを見て言われて、黙って二人のやりとりを眺めたままだった生徒は口を開いた。
「……心配しなくったって、俺なんか見向きもされないって」
「いやいや! お前可愛いじゃん! 中学の時も女子受けしてたじゃん! ここ男子高だから忘れてたけど!」
「別にそんなことなかったと思うけど……」
「お前自覚なさ過ぎ」
きっぱり言い切られて首をかしげるが、もう一人の週番も隣で何故かうなずいていた。
「ああ、そんな感じするな。モテててもあんま気付いてなさそうな感じ?」
「だろだろ。そうなんだよなあ。うん、やっぱカノジョにお前紹介すんの、やめとく。ごめんな!」
「謝らなくてもいいけど……なんか納得いかない……」
そんな不服気な親友の様子にはお構いなしで、茶髪の生徒はすちゃっと右手をあげた。
「じゃ、俺、帰るわ。週番の邪魔して悪かったな。また明日!」
言うだけ言うと、ドアの向こうに消えて行った。
今から連絡をつけて、彼女に会いに行くのだろう、おそらく。
「相変わらず、あわただしいヤツだなー。……終わった?」
「あ、ああ、うん」
黒板消しを置いて、軽く手をはたく。
あとは、戸締りをすれば終わりだ。
「なあ……約束、してたっけ? 俺ら」
窓の鍵をチェックしながら、尋ねる。
反対側の窓をチェックしていたもう一人の週番はあっさりと答えた。
「してないよ」
「だったら、なんで……」
振り返って尋ねたら、いつのまにか後ろに来ていた彼が手を伸ばしてきた。
眉と、眉の間を、指先でちょんとつつく。
「友達、だからってさ。なんでも、うん、って言わなくてもいいんじゃねえの」
「え……?」
「笑ってても、眉間がちょっとだけ、寄ってんの。気付いてる?」
気付いてなかった。
ちゃんと笑えてると、思っていた。
爪先から身体の内側を、青く、青く染めて。
凪いだ海のように心穏やかにして。
ちゃんと『友達』の顔で笑えてる。
そう、思っていた……。
「あと、前のドアの鍵、閉めたら終わり」
尋ねておきながら答えは聞かないまま、もう一人の週番は鞄を取ると、入り口のドアに向かった。
「………うん」
その後に続こうと、自分の机に置いていた鞄を取る。
ふと何気なく、指で、眉間に触れようとして―――。
「あ、あれ……?」
頬をかすめた指が、濡れていた。
拭って、舐めてみたら、少ししょっぱかった。
一度気付いたら、壊れた蛇口のように涙があとからあとからあふれてくる。
「はは……なんでだろ。止まんないや」
もう一人の週番が、ドアの前で振りかえって、言った。
「いっぱいに、なったんだろ。この際ぜんぶ、出しきっちゃえば?」
「ごめ……そう、する。戸締り、俺、しとくから、」
先に帰ってて、と言い切る前に、またしても声がかぶってきた。
「じゃあ、これが先約ってことにする」
ゆっくりと、こっちに戻ってくる。
「え……、なに? どういう………」
ぼろぼろと泣きながら、近づいてくるもう一人の週番を見上げると、さらっと言われた。
「先約。おなじ週番同士、野暮用ってことで。な?」
「う………」
約束なんてしてないって。
さっき、そう言ったじゃないか。
問おうとした言葉は、嗚咽にまぎれて消えてゆく。
(きっと、ぜんぶ、青くなったんだ)
心の内側まで、ぜんぶ、青く。
だからその青が、今、あふれ出しているのだ。
ぽろぽろと、青がはがれおちてゆく。
「好きなだけ、吐き出しとけ」
ぽんぽんと、頭を撫でられる。
にやっと笑って。
「今週の週番の相方として、付き合ってやるから」
どう言う理屈だよ、とはやっぱり言えずに、ただひたすらに青をあふれさせていた。
Fin.
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