067: 泣いてもいいよ



 奥歯を噛みしめて、こぼれ落ちそうになる涙をこらえた。
 どうして、と理由を問うことも出来なかった。
 今思い返せば、ワケくらい聞けばよかったのかもしれない。
 それができなかったのは、くだらない、ちっぽけなプライドのせい。
 桜のつぼみが、ほころぶどころか、まだ枝の先にもついていなかった、春の初めのころ。
 卒業まであとわずかな、高3の春だった。
 宮路と、別れたのは―――。
 
 
 俺は、内心で、ダラダラこぼれる汗をおくびにも出さずに、乾いた営業スマイルを、頬にはりつけていた。
 何で今頃、と思わずにはいられない。
 高校を卒業し、大学も卒業し、吹けば飛ぶような編集プロダクションに就職した。
 出版社に勤めたかった俺としては、それでも、日々の仕事に満足していたし、まあ恋人はいないけど、それなりに充実した日々を送っていた……と、思う。
 そんな中で起きた、今日の出来事は、まさに、何かのトラップのようだった。
 油断していた、日常に潜む、罠。
 俺が、そう思うのも、無理ないだろ!?
 だって、目の前に居る、仕事相手、誰だと思う?
 新進気鋭の、イラストレーターは……。

「久しぶりだね、白川」
「あ、ああ……」

 10年前に別れたきり会っていない、かつての恋人だった。


 どうしてこんな、漫画みたいなことが起こってるんだろう……?
 だが、宮路は挨拶を交わした後は、思い出を語るわけでも、恨みごと――それこそ、今さら、だ――をぶつけるわけでもなく、何事もなかったかのように、仕事の話に入った。
 宮路は、挿絵も手掛けているのでイラストレーターとも言えるが、今ではどちらかと言うと、画家、と言った方がいい存在だった。
 挿絵や、装画の仕事は、彼が駆けだしの頃に世話になった出版社や、義理のある相手にのみに限られており、ウチみたいな、ツテもコネもないようなところが、引き受けてもらえるはずはなかった。
 ……のだが、『どうしても、彼に挿絵をつけて欲しい!』と、ウチから出してる作家の中では、一番の売れっ子が言いだしてきかない。
 『まあ、どうせ断られるだろうけど、頼むだけ頼んでみるから』と言うことになり、ダメもとで頼んだら、何故かOKがでてしまった。
 それで、まあ、当然のように、打ち合わせを兼ねて、先に担当の自分と会いましょう、という約束がメールでかわされ、今に至るわけだ。
 ちなみに、宮路は、本名で仕事をしていない。
 顔出しもしてなくて、プロフィールも、出身の美大名くらいしか明かしていなかった。
 年齢も不詳だ。(若いだろう、と言うのは、インタビュー記事などから察することはできたが)
 もちろん、俺は宮路がその美大を目指していたことも、受かったことも知っていたが、だからって、それだけで、イコール宮路、だと思うわけがない。
 それに俺は、当時、宮路が美術部で絵を描いている事も、コンクールで入賞していたことも知っていたが、宮路の絵はよく見たことがなかったのだ。
 恥ずかしいから、と言って、俺には見せてくれなかったし。
 選択授業で、俺は美術じゃなく、書道を取っていたし。
 美大を出たヤツが、みんな絵かきになる、なんて思ってるのは、さすがに小学生までだろう。
 美大出で、美術とは全然関係のない仕事に就くヤツだって、いくらでもいるし。(実際、俺の職場にも、一人いる)
 まさか、あのイラストレーターが、宮路だなんて。
 そんなの、俺が気付くわけないじゃないか!
 知ってたら当然、何とかごまかして、担当を変えてもらう……のは、無理だろうなあ。
 人数、カツカツだもんな、ウチ……。

「それでは、ひとまず、今日のところはこのくらいで。詳しくは、後日よろしく、お願いします……」

 もうとっくに、空っぽになっていると分かっているのに、コーヒーカップを口元に持って行ってしまう。
 こんな時は、タバコでもあったら気まずさが減少されるのだろうが、大学の時ちょっとだけ吸っていたタバコは、卒業を前にやめていた。
 宮路も、タバコは吸わないようで、このカフェのテーブル席も、喫煙席だった。

「…………」

 宮路は、手元にある、先程渡した資料を眺めたきり、何も言わない。
 言わないが、今はこれ以上、特に言うべきことはない。
 後は、『まさか、ホントに彼に描いてもらえるなんて! 白川さんには一生ついて行きます!!』と、大感謝していた作家と、繋ぎをとりつつ、仕事をつめていくことになる。
 返事がなかったことは気になったが、これ以上、ここに居つづけるのは、気まずいの一言だったので、俺は口の中で『それじゃ……』などと、もごもごと言いながら、伝票を手にして、席を立った。
 もう、10年も前の出来事だ。
 宮路が本当のところ、どう思っているのはわからないが、彼だって、プロだ。
 思う事があっても、仕事とプライベートの区別くらいは、きちんとつけてくれるだろう。
 いや、つけてくれるであろう、と信じたい……。

「待っ……!」

 俺が、立ちあがった気配を感じたのか、宮路は顔をあげた。
 そこで、俺は、えっ……!? と、思った。
 思って、立ち去りそびれた。
 だって……、

「なんで……!?」

 思わず仕事相手に対する敬語も、抜けた。
 宮路は、目を赤くして、泣いていたのだ。


「……落ち着いた?」

 冷たいミネラルウォーターを、コップに注いで渡した。
 泣きはらした、赤い目で俺を見て、宮路はそれを受け取った。
 一口飲んで、言った。

「う、ん。ごめん………」

 あの後、急いで、宮路を連れて店を出た。
 あのままじゃ、どうみても男同士の修羅場だ。
 それだけは、避けたかったので。
 で、タクシーに乗って、向かったのは、俺のアパート。
 いや、もう、どうしていいのか、わかんなかったんだよ……!
 とりあえず会社には、色々ぼかして、担当先まわって直帰します、と電話して誤魔化した。
 溜まってる仕事は……明日、泊りがけで片付けるよ、とほほ……。

「何か、あったのか……?」

 とりあえず、当たり障りなく、聞いてみる。
 なんか悩んでて、昔の知り合いを見て、ほろっときたとか……そういうのかな、と思って。
 ところが。
 そう言った途端、また、宮路は泣きだした。
 オイオイ、なんでたよ……!?

「……っ。な、何もないから、泣けてくるんだよ……っ!!」

 え、何それ。
 どうしてそこで、逆ギレ!?

「お、オレは、今日、白川に会える、って、すごい、楽しみに、してて……。仕事だって、白川が、担当だって、言うから、引き受けて……っ、それなのに……」

 ええ! 嘘っ!?
 仕事受けてくれたのって、担当が俺だったから?
 聞いてないよ!
 ってか、メールで打診した時も、全然、そんなこと、ひとっことも、書いてなかったじゃねえか!
 だから俺、今日、死ぬほどびっくりしたって言うのに!?

「白川、仕事の、話、しか、しないし……っ」
「いやいや。仕事の席なんだから、仕事の話しかしないのは普通だろ」

 俺が冷静に突っ込むと、白川は、また、泣きながら続けた。

「でも、オレは、もっと、違うこと、話したかった……! また、やり直せないかな、って……」
「ええーっ!?」

 今度こそ、俺は、声に出して叫んでいた。
 10年前、一方的に別れを切りだしてきたのは、宮路の方だ。
 それなのに、やり直したいって……誰と?
 俺とか!?
 思わず、内心で一人ノリツッコミをしてしまう。
 そのくらい、俺は、宮路の発言に混乱していた。

「そうだよ……っ。ほ、ほんとは……! あ、あの時だって、止めて欲しかったのに。し、白川は、理由も、聞いてくれなかった……っ!」

 泣きながら、責めるように言われて、そんなのわかるかあ! と、正直思った。
 あの時は、お互い受験に忙しくて、やや疎遠にもなっていた。
 だから、このままフェードアウトしてしまうくらいなら、はっきりと言った方がいい、と宮路は思ったんだろう、と俺は考えていた。
 なんせ、高3の初めに、宮路に告ったのは、俺の方からだったし。
 それまで同じクラスになったことがなかったが、宮路の存在は、1年の時から知っていた。
 ぶっちゃけ、顔が、すっごい好みだったのだ。
 線が細く、端整で、それなのに不思議と、軟弱な感じは与えない。
 クラスの連中とつるんでバカばっかりやってるような、俺とは違って、宮路は一人静かにたたずんでいるような……、そんなタイプだった。
 密かに女子からの人気も高かったが、本人にその気はないのか、誰とも付き合う様子はなかった。
 だからって、男が好きなんだろうと、そこまで都合のいいことは夢見てなかったが、同じクラスになったのを機に話しかけて見ると、口数は少ないものの、会話のキャッチボールはちゃんと成り立って、話していると、楽しくて。
 だから、欲が出た。
 ダメもとで、告ったんだ。
 玉砕しても、宮路なら、それを言いふらしたりはしないだろう、とも思って。
 ただ、俺が、仲良くなったばかりの友人をひとり、失うだけだ。
 それなのに、何故か宮路は、俺の告白に、応えてくれた。
 舞い上がるくらい嬉しくて、教室では、今まで通り何気ない風にしていても、休日には、ふたりでたくさん、遊んだ。
 セックスも、した。
 俺の初めての相手は宮路で、宮路の初めての相手も、たぶん俺だったんだろうと思う。
 そう言う意味でも、宮路は特別だった。
 だが、それも、高校生活、という枠組みの中の出来事だったのかもしれない……。
 宮路に分かれを切りだされた後、俺は、自分に、そう言い聞かせてきた。
 それなのに……。

「聞けるかよ……そんなの」

 泣いて、すがりついて。
 どうして、俺と別れるんだ、って聞けばよかったって言うのか?
 それで、結局ダメだったりしたら、立ち直れない。
 黙って、頷くのが、せめてもの、プライドだったんだ。

「だったら……、別れたく、なかったんなら、何で、お前、別れよう、なんて言ったんだ?」

 そこが、さっぱりわからなくて、宮路に問うと、宮路はすん、と鼻をすすりあげて、言った。

「ふ、あん、だったんだ……。だんだん、会えないでいる時が、増えてって……。受験だから、しかたないって、思ってたけど。ほんとは、オレに、飽きたんじゃないか、って、思って。白川から、別れる、って言われるくらいなら、オレから言おうって……」

 なんじゃそりゃー!?
 ……という、叫びを、俺は辛うじてのみこんだ。
 宮路って、そこまで、ナーバスなヤツだったか?
 いや、受験生だったからな、考えが暗くなってたのかもしれないが……。

「そんなわけないだろ。俺の方から告ったのに」
「そ、それだって……! 信じられ、なくて。白川が、オレのこと、好きだって。白川は、オレと違って、友達だって、いっぱいいたし。オレは、気のきいたことも、言えないし……」

 ぐすぐすと、鼻をすすりながら、宮路はネガティブに続ける。
 そりゃ、話すのは、俺の方が多かったけど。
 俺の話にきちんと耳を傾けてくれるのが嬉しかったし、宮路は口数こそ少なかったが、じっくり考えてから話す方なんだってのは、わかってた。
 友達が多いって言っても、馬鹿騒ぎする相手ってだけで、アイツらの方も、どうしても俺じゃなきゃダメだったわけじゃない。
 現に、卒業してからも付き合いが続いている友達なんて、数えるくらいだ。
 そういうのは、友達いっぱい、っていうのとは、違うと思うんだが……。

「………俺は、宮路のこと、好きだったよ。宮路と話すのも、楽しかった。その他大勢の、『友達』なんかと居るよりも」

 心をこめて、そう言ったんだが。
 宮路は更に、泣きだしてしまった。

「……っ。も、う、かこ、けい、なんだ……っ!」

 ああいや、ええと……!
 過去のことを話していたから、過去形になっただけで!
 ていうか、今の宮路のことは、俺、何も――仕事の経歴を除けば――知らないわけで!

「ああもう、泣くなよ! ……いや、好きなだけ、泣いていいから、とにかく話を聞いて」

 泣き顔を見てると、何が何だかわかんなくなりそうだったから、俺は宮路の頭を抱え込むように、抱きしめた。
 そして、言った。

「俺だって……、別れたく、なかったよ。引き止めなかったのは、つまんない、意地、みたいなヤツで……。ホントは、ずっと、宮路と、付き合って、いたかった……」

 言葉にしたら、すとん、と胸のつかえが下りたようだった。
 わけがわからないまま別れて、ずっと、わだかまっていたもの。
 そりゃ、この10年、他の誰かと、何もなかったわけじゃない。
 でも、たぶん、ずっと引っかかってたんだと思う。
 だから、誰とも、長続きしなかったんだろう。

「……それ、ほんと?」

 俺の腕の中から、顔をあげて、宮路が尋ねた。
 もう、泣いてなかった。
 俺が、うん、と言うと、宮路は、赤くしたままの目を、嬉しそうに細めた。
 そして、不安そうに言った。

「また、オレと、付き合ってくれる……?」 
「ああ。いいよ」

 頷いたら、何も言わずに、唇が降ってきた。
 手が、シャツのボタンをはずしにかかってくる。

「ちょっ……! おい、宮路……!?」

 頷きはしたが、何、この急展開。

「いいよね? だって、オレ、10年間、ずっと我慢してたんだよ。もう限界……」

 耳を軽く噛みながら言われて、背筋が震えた。
 そして、どこか哀れっぽく続けた。

「ダメ……?」
「………っ! ああもう、わかったよ、いいよ、好きにしろ!」

 器用な手に、シャツを脱がされながら、ああそうだった、と俺は思い出していた。
 宮路は、口数は少なかったが、手は早かったのだ。
 さっき泣いたなんとかが、もう……とばかりに、宮路は楽しげに、俺をあちこち舐めながら、裸に剥いていく。
 10年と言う歳月が、たちまちの内に、溶けていった。


Fin.


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