奥歯を噛みしめて、こぼれ落ちそうになる涙をこらえた。
どうして、と理由を問うことも出来なかった。
今思い返せば、ワケくらい聞けばよかったのかもしれない。
それができなかったのは、くだらない、ちっぽけなプライドのせい。
桜のつぼみが、ほころぶどころか、まだ枝の先にもついていなかった、春の初めのころ。
卒業まであとわずかな、高3の春だった。
宮路と、別れたのは―――。
俺は、内心で、ダラダラこぼれる汗をおくびにも出さずに、乾いた営業スマイルを、頬にはりつけていた。
何で今頃、と思わずにはいられない。
高校を卒業し、大学も卒業し、吹けば飛ぶような編集プロダクションに就職した。
出版社に勤めたかった俺としては、それでも、日々の仕事に満足していたし、まあ恋人はいないけど、それなりに充実した日々を送っていた……と、思う。
そんな中で起きた、今日の出来事は、まさに、何かのトラップのようだった。
油断していた、日常に潜む、罠。
俺が、そう思うのも、無理ないだろ!?
だって、目の前に居る、仕事相手、誰だと思う?
新進気鋭の、イラストレーターは……。
「久しぶりだね、白川」
「あ、ああ……」
10年前に別れたきり会っていない、かつての恋人だった。
どうしてこんな、漫画みたいなことが起こってるんだろう……?
だが、宮路は挨拶を交わした後は、思い出を語るわけでも、恨みごと――それこそ、今さら、だ――をぶつけるわけでもなく、何事もなかったかのように、仕事の話に入った。
宮路は、挿絵も手掛けているのでイラストレーターとも言えるが、今ではどちらかと言うと、画家、と言った方がいい存在だった。
挿絵や、装画の仕事は、彼が駆けだしの頃に世話になった出版社や、義理のある相手にのみに限られており、ウチみたいな、ツテもコネもないようなところが、引き受けてもらえるはずはなかった。
……のだが、『どうしても、彼に挿絵をつけて欲しい!』と、ウチから出してる作家の中では、一番の売れっ子が言いだしてきかない。
『まあ、どうせ断られるだろうけど、頼むだけ頼んでみるから』と言うことになり、ダメもとで頼んだら、何故かOKがでてしまった。
それで、まあ、当然のように、打ち合わせを兼ねて、先に担当の自分と会いましょう、という約束がメールでかわされ、今に至るわけだ。
ちなみに、宮路は、本名で仕事をしていない。
顔出しもしてなくて、プロフィールも、出身の美大名くらいしか明かしていなかった。
年齢も不詳だ。(若いだろう、と言うのは、インタビュー記事などから察することはできたが)
もちろん、俺は宮路がその美大を目指していたことも、受かったことも知っていたが、だからって、それだけで、イコール宮路、だと思うわけがない。
それに俺は、当時、宮路が美術部で絵を描いている事も、コンクールで入賞していたことも知っていたが、宮路の絵はよく見たことがなかったのだ。
恥ずかしいから、と言って、俺には見せてくれなかったし。
選択授業で、俺は美術じゃなく、書道を取っていたし。
美大を出たヤツが、みんな絵かきになる、なんて思ってるのは、さすがに小学生までだろう。
美大出で、美術とは全然関係のない仕事に就くヤツだって、いくらでもいるし。(実際、俺の職場にも、一人いる)
まさか、あのイラストレーターが、宮路だなんて。
そんなの、俺が気付くわけないじゃないか!
知ってたら当然、何とかごまかして、担当を変えてもらう……のは、無理だろうなあ。
人数、カツカツだもんな、ウチ……。
「それでは、ひとまず、今日のところはこのくらいで。詳しくは、後日よろしく、お願いします……」
もうとっくに、空っぽになっていると分かっているのに、コーヒーカップを口元に持って行ってしまう。
こんな時は、タバコでもあったら気まずさが減少されるのだろうが、大学の時ちょっとだけ吸っていたタバコは、卒業を前にやめていた。
宮路も、タバコは吸わないようで、このカフェのテーブル席も、喫煙席だった。
「…………」
宮路は、手元にある、先程渡した資料を眺めたきり、何も言わない。
言わないが、今はこれ以上、特に言うべきことはない。
後は、『まさか、ホントに彼に描いてもらえるなんて! 白川さんには一生ついて行きます!!』と、大感謝していた作家と、繋ぎをとりつつ、仕事をつめていくことになる。
返事がなかったことは気になったが、これ以上、ここに居つづけるのは、気まずいの一言だったので、俺は口の中で『それじゃ……』などと、もごもごと言いながら、伝票を手にして、席を立った。
もう、10年も前の出来事だ。
宮路が本当のところ、どう思っているのはわからないが、彼だって、プロだ。
思う事があっても、仕事とプライベートの区別くらいは、きちんとつけてくれるだろう。
いや、つけてくれるであろう、と信じたい……。
「待っ……!」
俺が、立ちあがった気配を感じたのか、宮路は顔をあげた。
そこで、俺は、えっ……!? と、思った。
思って、立ち去りそびれた。
だって……、
「なんで……!?」
思わず仕事相手に対する敬語も、抜けた。
宮路は、目を赤くして、泣いていたのだ。
「……落ち着いた?」
冷たいミネラルウォーターを、コップに注いで渡した。
泣きはらした、赤い目で俺を見て、宮路はそれを受け取った。
一口飲んで、言った。
「う、ん。ごめん………」
あの後、急いで、宮路を連れて店を出た。
あのままじゃ、どうみても男同士の修羅場だ。
それだけは、避けたかったので。
で、タクシーに乗って、向かったのは、俺のアパート。
いや、もう、どうしていいのか、わかんなかったんだよ……!
とりあえず会社には、色々ぼかして、担当先まわって直帰します、と電話して誤魔化した。
溜まってる仕事は……明日、泊りがけで片付けるよ、とほほ……。
「何か、あったのか……?」
とりあえず、当たり障りなく、聞いてみる。
なんか悩んでて、昔の知り合いを見て、ほろっときたとか……そういうのかな、と思って。
ところが。
そう言った途端、また、宮路は泣きだした。
オイオイ、なんでたよ……!?
「……っ。な、何もないから、泣けてくるんだよ……っ!!」
え、何それ。
どうしてそこで、逆ギレ!?
「お、オレは、今日、白川に会える、って、すごい、楽しみに、してて……。仕事だって、白川が、担当だって、言うから、引き受けて……っ、それなのに……」
ええ! 嘘っ!?
仕事受けてくれたのって、担当が俺だったから?
聞いてないよ!
ってか、メールで打診した時も、全然、そんなこと、ひとっことも、書いてなかったじゃねえか!
だから俺、今日、死ぬほどびっくりしたって言うのに!?
「白川、仕事の、話、しか、しないし……っ」
「いやいや。仕事の席なんだから、仕事の話しかしないのは普通だろ」
俺が冷静に突っ込むと、白川は、また、泣きながら続けた。
「でも、オレは、もっと、違うこと、話したかった……! また、やり直せないかな、って……」
「ええーっ!?」
今度こそ、俺は、声に出して叫んでいた。
10年前、一方的に別れを切りだしてきたのは、宮路の方だ。
それなのに、やり直したいって……誰と?
俺とか!?
思わず、内心で一人ノリツッコミをしてしまう。
そのくらい、俺は、宮路の発言に混乱していた。
「そうだよ……っ。ほ、ほんとは……! あ、あの時だって、止めて欲しかったのに。し、白川は、理由も、聞いてくれなかった……っ!」
泣きながら、責めるように言われて、そんなのわかるかあ! と、正直思った。
あの時は、お互い受験に忙しくて、やや疎遠にもなっていた。
だから、このままフェードアウトしてしまうくらいなら、はっきりと言った方がいい、と宮路は思ったんだろう、と俺は考えていた。
なんせ、高3の初めに、宮路に告ったのは、俺の方からだったし。
それまで同じクラスになったことがなかったが、宮路の存在は、1年の時から知っていた。
ぶっちゃけ、顔が、すっごい好みだったのだ。
線が細く、端整で、それなのに不思議と、軟弱な感じは与えない。
クラスの連中とつるんでバカばっかりやってるような、俺とは違って、宮路は一人静かにたたずんでいるような……、そんなタイプだった。
密かに女子からの人気も高かったが、本人にその気はないのか、誰とも付き合う様子はなかった。
だからって、男が好きなんだろうと、そこまで都合のいいことは夢見てなかったが、同じクラスになったのを機に話しかけて見ると、口数は少ないものの、会話のキャッチボールはちゃんと成り立って、話していると、楽しくて。
だから、欲が出た。
ダメもとで、告ったんだ。
玉砕しても、宮路なら、それを言いふらしたりはしないだろう、とも思って。
ただ、俺が、仲良くなったばかりの友人をひとり、失うだけだ。
それなのに、何故か宮路は、俺の告白に、応えてくれた。
舞い上がるくらい嬉しくて、教室では、今まで通り何気ない風にしていても、休日には、ふたりでたくさん、遊んだ。
セックスも、した。
俺の初めての相手は宮路で、宮路の初めての相手も、たぶん俺だったんだろうと思う。
そう言う意味でも、宮路は特別だった。
だが、それも、高校生活、という枠組みの中の出来事だったのかもしれない……。
宮路に分かれを切りだされた後、俺は、自分に、そう言い聞かせてきた。
それなのに……。
「聞けるかよ……そんなの」
泣いて、すがりついて。
どうして、俺と別れるんだ、って聞けばよかったって言うのか?
それで、結局ダメだったりしたら、立ち直れない。
黙って、頷くのが、せめてもの、プライドだったんだ。
「だったら……、別れたく、なかったんなら、何で、お前、別れよう、なんて言ったんだ?」
そこが、さっぱりわからなくて、宮路に問うと、宮路はすん、と鼻をすすりあげて、言った。
「ふ、あん、だったんだ……。だんだん、会えないでいる時が、増えてって……。受験だから、しかたないって、思ってたけど。ほんとは、オレに、飽きたんじゃないか、って、思って。白川から、別れる、って言われるくらいなら、オレから言おうって……」
なんじゃそりゃー!?
……という、叫びを、俺は辛うじてのみこんだ。
宮路って、そこまで、ナーバスなヤツだったか?
いや、受験生だったからな、考えが暗くなってたのかもしれないが……。
「そんなわけないだろ。俺の方から告ったのに」
「そ、それだって……! 信じられ、なくて。白川が、オレのこと、好きだって。白川は、オレと違って、友達だって、いっぱいいたし。オレは、気のきいたことも、言えないし……」
ぐすぐすと、鼻をすすりながら、宮路はネガティブに続ける。
そりゃ、話すのは、俺の方が多かったけど。
俺の話にきちんと耳を傾けてくれるのが嬉しかったし、宮路は口数こそ少なかったが、じっくり考えてから話す方なんだってのは、わかってた。
友達が多いって言っても、馬鹿騒ぎする相手ってだけで、アイツらの方も、どうしても俺じゃなきゃダメだったわけじゃない。
現に、卒業してからも付き合いが続いている友達なんて、数えるくらいだ。
そういうのは、友達いっぱい、っていうのとは、違うと思うんだが……。
「………俺は、宮路のこと、好きだったよ。宮路と話すのも、楽しかった。その他大勢の、『友達』なんかと居るよりも」
心をこめて、そう言ったんだが。
宮路は更に、泣きだしてしまった。
「……っ。も、う、かこ、けい、なんだ……っ!」
ああいや、ええと……!
過去のことを話していたから、過去形になっただけで!
ていうか、今の宮路のことは、俺、何も――仕事の経歴を除けば――知らないわけで!
「ああもう、泣くなよ! ……いや、好きなだけ、泣いていいから、とにかく話を聞いて」
泣き顔を見てると、何が何だかわかんなくなりそうだったから、俺は宮路の頭を抱え込むように、抱きしめた。
そして、言った。
「俺だって……、別れたく、なかったよ。引き止めなかったのは、つまんない、意地、みたいなヤツで……。ホントは、ずっと、宮路と、付き合って、いたかった……」
言葉にしたら、すとん、と胸のつかえが下りたようだった。
わけがわからないまま別れて、ずっと、わだかまっていたもの。
そりゃ、この10年、他の誰かと、何もなかったわけじゃない。
でも、たぶん、ずっと引っかかってたんだと思う。
だから、誰とも、長続きしなかったんだろう。
「……それ、ほんと?」
俺の腕の中から、顔をあげて、宮路が尋ねた。
もう、泣いてなかった。
俺が、うん、と言うと、宮路は、赤くしたままの目を、嬉しそうに細めた。
そして、不安そうに言った。
「また、オレと、付き合ってくれる……?」
「ああ。いいよ」
頷いたら、何も言わずに、唇が降ってきた。
手が、シャツのボタンをはずしにかかってくる。
「ちょっ……! おい、宮路……!?」
頷きはしたが、何、この急展開。
「いいよね? だって、オレ、10年間、ずっと我慢してたんだよ。もう限界……」
耳を軽く噛みながら言われて、背筋が震えた。
そして、どこか哀れっぽく続けた。
「ダメ……?」
「………っ! ああもう、わかったよ、いいよ、好きにしろ!」
器用な手に、シャツを脱がされながら、ああそうだった、と俺は思い出していた。
宮路は、口数は少なかったが、手は早かったのだ。
さっき泣いたなんとかが、もう……とばかりに、宮路は楽しげに、俺をあちこち舐めながら、裸に剥いていく。
10年と言う歳月が、たちまちの内に、溶けていった。
Fin.
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